見出し画像

掌編小説 海を持ち歩く

体の中に海を持ち歩いている。いつも波の音が聞こえている。

今日は凪いでいる。沖から運ばれた波は、静かに波打ち際に解き放たれる。一定のリズムが繰り返されている。深い緑色の冷たい水。太陽は雲の隙間から光を通すばかりだ。裸足で浜辺を歩くと、ひたひたに海水をたたえた砂がゆっくり沈んでわたしの体重を抱きしめる。足指の間がくすぐったい。点々と貝殻が落ちている。白、桜色、濃い紫。細いプリーツが刻まれたもの、突起のあるもの、ゆるやかに巻いたもの。拾いながら歩いていく。

時には、荒れていることもある。誰も乗りこなすことができない波が暴れている。黒く厚い雲が垂れこめて、海との境目がわからない。あちこちで雷光が閃き、遅れてやってくる振動におののく。どこにでも雨が激しく打ちつけて、音と音との境目もわからない。ひとりで部屋にうずくまり、自分と世界との境目を確かめる。

嵐がやんだあとは、波打ち際に色々なものが打ち上げられている。もともとは海の中にあったものも投げ出されて、表面が乾きはじめている。海藻はからまりあった長い髪、珊瑚はくだけた白い骨みたいだ。船の一部だったとみられる、金具のついた太い網は千切れた端がほどけてもつれている。

ガラスの小瓶が浜から顔をのぞかせる。手のひらほどの大きさだ。遠い国からきたのか、よくまあ割れもしないで漂着したものだ。海水で泥を流してみると、折りたたまれた紙きれが入っている。黄ばんだ白い紙に何かうっすら透けて見える。コルク栓をはずし、そっと取り出す。

びしょぬれではないが、さすがに水が入り込んだのだろう。紙は波打ってざらつき、互いに張り付いている。慎重にはがしていくと、にじんだ濃紺の文字列が現れた。

知らない国の文字で書かれた手紙を眺める。わたしはこの内容を知っている、なぜかそう思うのだけれど、言語にならない。紙が陽の光に温まる。この浜とは違うにおいが立ち昇る。香辛料、市場、人いきれ、石畳、朝露、そんな映像が浮かぶ。

紙を元通り丁寧に折りたたみ、小瓶に戻す。足もとの砂粒をひとつまみ中に落とし、息をふうっと吹き入れて、コルクをどうにかねじ込む。

それから海に放った。また、別の誰かの海辺へ届くだろう。


*****

短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?