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掌編小説 輪が閉じるまでに

その輪を見たことはない。光だという者もいれば、シロツメ草で編まれているという者もいる。意識するとあらわれず、意識しなければ気づかずに消えてしまうこともあるという。何かはわからないけれど、みんな輪がすぐに閉じることは知っている。閉じるまでに向こう側に行かなければならないことも。

輪は、ある日突然わたしの前にあらわれた。コーヒーショップで書き物をしていたところだった。来月の家計のやりくりを考えていたのだ。視界がちらつくと思っていたら、天井がゆがみ、白いもやのように輪郭の曖昧な輪が広がっていった。輪をくぐりぬけた向こう側は宇宙なのだろうか。密度の濃い暗い青に、ブラシで掃いたような光が散っていた。

他の人にも見えているのだろうかと目をやると、すぐ隣に座る男性は輪の出現に気づいていないようで、これから契約するらしい家の間取り図を眺めていた。もう一方の隣の席にいる女性も、パソコン画面を見つめたまま、カタカタとキーボードをたたいていた。

輪の向こうから、風が吹いてくる。瞬きを忘れていたせいか、謎の物質のせいか、目がしみた。何らかの音が聞こえるかと耳を澄ませたが、ひろえたのは周りの雑談、カップがソーサーにあたる音、店員の「あいさつ」ぐらいだった。

輪があらわれるかもしれないとはうすうす感じていたのに、覚悟できていなかった。いま行かなければいけないのだろうか。行ったらどうなるんだろう。明日の仕事はどうしたらいい。これまで先に向こう側に行った人はどうなっているんだろう。知人のなかには、向こう側に行ってしまった人はいなかった。知人の知人にもいなかった。輪があらわれたことを体験した人もいなかった。噂しか知らなかった。ただ、みんなどこかで知っているのだ。教えられるよりも、備わったものとして、体や頭を超えたところで。輪が現れたら、その時に行かなければいけないことを。

体が熱くなった。わたしは椅子から立ち上がると、テーブルの上に乗った。両腕を頭の上に伸ばして飛び込みの姿勢をつくる。周囲からの視線を感じた。大きく息を吸い込んで胸をふくらますと、いったん屈んでから輪に向かって思い切り跳躍した。どうにでもなれ。

体に衝撃が走り、床にたたきつけられた。何が起こったのかわからず、あたりを見まわしたが、変わらずコーヒーショップにいた。輪の向こうに見えた空間ではなかった。輪は跡形もなかった。わたしは床にダイブして転倒した、ただの変な人だった。向こう側に行くのは、失敗したのだ。まわりの人はこちらを見もしなかった。

椅子をひいて座り直した。取り繕うようにカップに口をつけた。半分ほど残っていたコーヒーはまだあたたかかった。

もうトイレにでも行って帰ろうと店の奥に目をやると、眼鏡をかけた会社員風の男性が視線を天井にやりながらおそるおそる立ち上がっていた。彼にも「あれ」が見えているのだろうか。席に留まり、コーヒーをすすりながら横目で眺めた。彼は思い切り目をつぶると、顔をくしゃくしゃにして飛び上がった。わたしの心が「どうせ無理だよ」と意地悪にささやいた。

ところが、男性は消えてしまった。向こう側に行ったのだ。わたしと何が違ったんだろう。なぜ彼がよくてわたしが拒絶されたんだろう。

キーボードをたたいていた女性とふと目があった。彼女はわたしにむかってうなずくと、またパソコン画面に戻っていった。

カウンターにいた店員がわたしたちの前をすっと横切って奥に入ると、消えた男性の飲みかけのカップを下げ、テーブルを拭いた。


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