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掌編小説 あなたの地図

あなたの地図を手に入れた。特別な伝手を使って。

近頃は、あなたとどう接したらよいか、わからなくなっていた。何を考えているかわからない。遠慮をしているうちに距離があいてしまった。待っていても縮まりそうにないので、地図の力を借りて、そっと心にわけいってみようと思った。

筒から丸まった紙を取り出す。手漉き和紙のような厚みと柔らかさだ。広げると、真っ白である。だまされたのかもしれない。半信半疑で、枕の下に敷き、眠りにつく。

いつの間にか、あなたの心のなかと思われる場所にいる。手には地図を握りしめて。白かったはずの地図は、陸や海、植生など、状態に応じて色分けされ、大小の文字や等高線が細かく記されている。

初めて見るあなたの景色は、どこか懐かしいようで、やはり知らないようで、妙な感じがする。「ともかく、やってきたのだなあ」という感慨で見渡し、視界に入るさまざまなものを地図と照合していく。

青い峰は、いま手掛けている仕事に関するものらしい。切り立った崖の断面には、関係者なのか、幾人もの像が浮き出している。伸びていくスカイラインを、歴代の愛車が連なって駆け抜けていく。ついていくように歩き出すと、道沿いにある湖の水面が鏡のように光った。映し出されている町並みは、実家のあたりだろうか。あるいは、いつか行きたがっていた土地のものかもしれない。丘を覆うように、鬱蒼とした森もある。陰気な一面も思い出され、ついにやりとする。

せっかくなので、この景色を見られるだけ見てみたい。歩けるまで歩いてみよう。さあ、どこまで行こうか。地図にふたたび目をやると、違和感がある。

「あれ、さっきと違う?」

暮れかけた空の下、地図が示すあたりに小さな街が現れ、うっすら光りはじめる。あなたのひいきの居酒屋が次々に店を開けているのだ。さっきまでは、なかった。どうやら地図も、地形そのものも、刻々と姿を変えているようだ。

そうして気づく。この景色があなたの関心のありかだとするならば、「わたし」を示すものはどこにあるのだろう。地図に目を凝らして、山も谷も、どんな小さな文字や記号も、くまなく指差し確認してみた。だが、どれだけ
地図の形が変わっても、それらしきものはなさそうだった。

あなたの地図に、わたしはいない。来なければよかった。地図を握りつぶし、丸めて上着のポケットに突っこむ。途方に暮れて、川べりにうずくまった。

後ろの茂みが揺れる音がして、反射的に身をこわばらせた。

顔をのぞかせたのは、こげ茶のゴム毬のような子犬だった。以前、ペットショップの前を通りがかったときに、あなたが「かわいいなあ」と目尻を下げて眺めていた子に似ていた。

子犬はしっぽを振りながらあたりで弾んでいたが、勢い余ってか、川に飛びこんでしまった。どうも様子がおかしい。変な水しぶきを立ててもがいている。

「たいへん。犬かきできないの?」

わたしも慌てて飛びこみ、自分も泳げなかったことを思い出す。予想外に深く、足がつかない。流されながら、なんとか子犬を抱きかかえるが、どちらが水面なのかももうわからなくなっている。水を大量に飲みこみながら、子どもの頃に真面目にプールの授業を受けておけば……と遠のく意識で後悔した。

頬が舐められる感触でわれに返る。子犬は元気そうだ。あたりを見回すと、鍾乳洞のような場所に横たわっていた。高い天井のどこからか日が射しこんでいるのか、岩肌自体の性質なのか、硬そうな襞や柱が青白くぼんやり光っている。ポケットを探ると、地図の残骸はあったが、濡れた紙は細かく千切れて、もう何も読み取れなかった。時折しずくが立てる澄んだ響きに耳を傾けながら、おそるおそる清流をたどっていく。

ふいに、子犬の耳が立ち、走り出す。

「あぶないよ、待って」

足を滑らせながら追いかけると、あなたがいた。子犬を抱き上げるその足もとに、やはり破れて使いものにならない地図が落ちている。

そこで目が覚めた。

そばに置いていた電話が鳴る。あなたからだ。通話ボタンを押しながら、枕の下の地図を取り出す。白いままだった。ほんとうに行きたかったのは、地図にない場所だったのかもしれない。ほかの誰にも切りとられない、絡めとられない場所。わたしはまだ夢の続きにいるような気分であいさつをする。

「地図、なくても会えたね」


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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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