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掌編小説 素数父さん

お盆休みになったので、「涼しいうちに」と手のひらサイズの缶ビールをふたつ持ち、近所の公園にやってきた。夫らはまだしばらく家で寝ているだろう。

父が亡くなった年を1とすると、10年経った今年は11にあたる。これまで2、3、5、7と現れてきたから、きっと会えるはずだ。世の中には13年や17年など、特定の周期で現れる「素数蝉」なるものがいるというが、ある意味こちらは「素数父さん」である。

最初、2の年のときは驚いた。父が好きだった銘柄を一緒に飲む「つもり」に過ぎなかったから。蝉しぐれのなかベンチに腰掛け、幻獣の描かれたラベルを見つめていたら、隣から「おう」と声をかけられたのだ。
目を見張った。愛用のカンカン帽にビーチサンダル姿である。父も水虫も元気そうだった。病床で父が弱っていく一方、水虫だけが元気で憎らしかったことが思い出された。
父母はわたしが小学生の頃に離別している。以来、父に引き取られる形で20年近くをともに暮らしてきたが、運輸関係で夜勤の多い父とは、生活リズムが合わないことを言い訳に、ろくに話もしてこなかった。
だからこそ、思わぬ再会に涙があふれた。家のことも気持ちも、まだ片付ききらない頃だ。つい、生前にしてあげられなかったことの後悔を切々と訴えてしまった。
父はしばらく顔をしかめて耳を傾けていたが「うーん、しめっぽいのはいいよ」という一言とともに、空気をゆらがせていなくなった。ビールは気が抜けて、ぬるくなっていた。

3の年は反省を踏まえて気分良く過ごしたものの、やはり父はビールの飲み頃が終わると消えてしまう。4の年は「せっかくだから大きな缶で」と欲張ってみたが、現れずに肩透かし。5の年に小さな缶に戻し、無事に再会を果たしてからは、なんとなくゲン担ぎで同じことを繰り返している。会えないときは、まあそのときだ。もともと親戚づきあいもなく、「何回忌」というきちんとした法要もしないが、自分なりに大事にしているささやかな行事であった。

いつも通り、楠の木陰のベンチでプルタブを起こす。清涼感のある音が弾け、ホップの香りが立った。ひとつを隣の席に置くと、その周りの空気がかげろうのようにゆれ、やがて父の形になった。服に無頓着だったこともあってか、相変わらずのいでたちである。
「おう」
父は缶を片手で持ち上げ、こちらに乾杯してみせる。わたしも同じしぐさで応えた。
「お父さん、やっぱり素数なんだね」
「俺が素数? 素数って何だったかな」
「自分自身か1でしか割り切れない数だよ。たとえば……」
数の例を挙げ、これまで父と会えた周期について説明すると、父は腕組みして考えこんでいる。
「自分では、気づいたらこっちにいる、くらいの感じなんだがな」
「あの世とこの世の垣根をひょいと越える、魔法の鍵みたいな数なのかね」
ビールを口に含む。炭酸が心地よく喉を下っていった。以前は父が滞在しているうちにできる限り多くの話をしようと必死だったが、今ではただ黙って並んでいる時間を味わうのもいいと思うようになっていた。

手入れされた樹木の葉が乾いた光を返す。オレンジや白のバラが暑さにも負けずに咲いていた。鳩が数羽、おやつをねだりにきたのか、のんびりとした様子でわたしたちの足もとをうろうろしている。風が吹き抜け、肌にこもった熱をさらっていった。

父が手をかざして空を見上げる。
「ああ、太陽がまぶしいなあ……。そういや、生まれたてのお前もやけにまぶしくて『太陽の子だ』と思ったんだよな」
死後10年も経って初めて聞く話に、照れ隠しで口を尖らせた。
「でも、名前は全然太陽に関係ないじゃない。漢字だって、もっとかわいげがあるものもあったでしょう。美しいとか、優れているとか」
「そりゃあ、荷が重いだろ。せめてもの親心だ」
「なんだ、つまらない。願いくらい込めてよ」
「俺なりに、ちょっとおしゃれかな、と思ったんだよ」
「ノリが軽いなあ」

茶化しているようだけれど、父はわたしの誕生を心から喜んでくれていたのだ。こみあげてくるものに負けそうで、視線を落として缶をぐっと握りしめた。ひんやりした感じがなくなっていることに気づいて、はっとする。そろそろ時間だ。父の方を向くと、周りの空気が再びゆらぎはじめていた。

「お前もこっちにいる間はがんばれよ。割り切れないことも色々とあるだろうが……。お、人間はみんな素数だな。結局、自分自身でしか割り切れないんだから」
「ん? 1はどこにいったの」
「1かあ。1はそうだな、万物に通じる真理のようなもんじゃないか。人間は自分自身で考え抜いて真理に至り、また一方では真理に照らして自分自身を見いだす、ってか!」
輪郭の曖昧になってきた父が、おどけるように肩をすくめた。
「てかてか! 無理やりだなあ」

声を立てて笑っているうちに、父を透かして、ベンチの手すりや花壇の煉瓦の色が濃くなってきた。わたしは笑うのをやめて見守る。

「お父さん、またね」

空気のゆらぎが止まった。わたしの隣には小さな缶だけが残って、強まった陽ざしを受けている。

手に取って、お下がりをいただく。ビールは温度が上がったせいで、苦みが増したように感じられた。

父も、いまだ自分で割り切れないものがあって、帰ってくるのだろうか。

次は13の年、再来年だ。本当に父を思うなら、会えなくなるほうが喜ばしいのかもしれない。だけど、また会えたなら、飲みながら聞いてみようか。
「しめっぽいのはいいよ」と言われるのを承知で。




*****

しばらくお休みしていましたが、これからまたnoteのある暮らしに体を慣らしながら、ぼちぼち読んだり書いたりしていくつもりです。
気にかけてくださったみなさま、本当にありがとうございました。
不定期な投稿・応答になるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。




短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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