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掌編小説 ブロックの家

「あなたっ」
そのときは突然やってきた。妻の左頬にあるほくろに「僕のお星さま」と軽く口づけ、玄関を出たばかりだった。家が――黄色の直方体が――妻をなかに残したまま垂直にゆっくりと上昇する。とっさに引き留めようと飛びついたが、無常にも振り落とされた。僕を呼ぶ妻の声がどんどん小さくなっていく。やがて、おもちゃのブロックにしか見えなくなった家は西に向かって水平に移動し、雲の間に消えていった。

今や、世界の大半の人はブロックの家に暮らしていた。ブロックを寄せ集めてできた家、ということではない。家そのものがひとつのブロックなのだ。ときに「誰か」の気まぐれで積みかえられるようだが、それがいつ起こるか、またどこが行き先になるかもわからない。ある地点から見ると、様々なブロックの立ち並ぶ様子は、何らかの絵や言葉になっているとも言われていた。だが、実際に目にした者はいない。移動が当たり前になった暮らしでは、それを前提に様々な技術が発展し、輸送システムや仕事の仕組みができあがっていた。人びとの住所は、土地ではなく、ブロックに紐づけられている。

身寄りのない者どうし惹かれあい、新婚生活を始めたばかりだった。先に妻がブロックに住み、僕は後から入った。紐づけさえできていれば、妻の行き先がどこであれ、僕も同じ場所に転送してもらえたはずだ。だが、タイミングが悪かった。手続きに出向こうとしたまさにその日に、移動が起こってしまったのだ。家族というネットワークもない。どうにかならないかと担当者に食い下がったが、「きまりですから」の一点張りで、らちがあかなかった。

自分の力でなんとかするしかない。必ず道はあるはずだ。神に祈りつつ、情報収集をする。同じ規格のブロックであれば、近くに積まれる可能性が高いと聞き、色や大きさのよく似たブロックに住みついた。そこを拠点に、妻を探す旅を続けた。

何年も経ち、僕は年をとった。僕の家の移動は一度も起こらなかった。妻の消息をたずね歩く先々で、黄色のブロックとみれば訪問した。だが、妻とは会えないばかりか、手がかりもつかめないままだった。

きっともう、妻は別のブロックで別の人間と人生を共にしているに違いない。窓辺にもたれ、風に吹かれながら、一枚の写真を手に取る。離れ離れになってしまった日に、手帳にはさんでいたものだ。いつも肌身離さず身に付けている。よく一緒に出かけた自然公園で、木漏れ日を受けて笑う妻がまぶしかった。

突然、揺れを感じた。めまいか。いや、景色が流れている。この家が上昇しているのだ。体のバランスを失った拍子にうっかり写真を手離してしまった。たった一枚の妻の写真、失うわけにはいかない。小鳥のように逃げていく写真を追い、窓の外へと思い切り体を伸ばした。

気がつけば、仰向けになって地面に横たわっていた。落ちたのだ。体のあちこちが痛い。でも、生きている。青空が広がり、草の匂いがした。川のせせらぎが聞こえてくる。そして、心配そうにのぞきこむ顔があった。
「きみは……」
息を呑む。まぎれもなく妻だった。肌や髪に歳月の通り過ぎたあとはあっても、記憶のなかの彼女そのものだ。「僕のお星さま」も左頬に健在である。たがいに言葉もないまま抱きあった。やわらかく、温かい。夢でも、ブロックでもない。

そうだ、写真。自身の体を探り、あたりを見まわすが、それらしきものはない。結局、なくしてしまったようだ。だが、本物の妻に導いてくれた。当時の思い出も、ふたりの胸にある。

僕たちは手をつないで歩き、川べりに並んで腰かけた。後ろでは、ブロックの家々が刻々と姿を変えている。ときおり地鳴りがして、風が吹いてくる。振り向いたら、何もかもどこかにいっているかもしれない。それでも、きっとなんとかなる。ふたりで心地よい水の流れに足をひたしたまま、これまでの時間を埋めるように語りあった。


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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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