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掌編小説 巣立ち

卵から孵ると、わたしはもじゃもじゃの中にいた。教授の頭の上だった。くせのある柔らかい黒髪がからまりあっていて、ちょうど巣のようになっているのだった。わたしの羽はまだ弱々しく、もじゃもじゃは暑さ寒さや外敵から身を守るのにちょうどよかった。

教授が頭を洗うことはめったになかったが、そんなときは針金のような腕でわたしをひょいと安全な場所におろし、さっぱりしてからまたのせた。教授が頭をかきむしるときは落ちそうになったけれど、髪が脚にからまるおかげで、いつもかろうじてひっかかっていた。

教授は三度のごはんをスキップすることもしばしばだったが、食べるときには必ずわたしにわけてくれた。どちらかといえば、文字がごはんのようなものだった。いつでも本や何かを読んだり書いたりしていた。時々は授業や学会に行き、話をすることもあった。頭にわたしがのっているためか、はじめは場がざわつくのだが、次第に落ち着いていった。

わたしは教授の親しむ本から言葉を覚えた。本の内容はいまいちわからないままだったし、体のつくりの違いなのか、どうしても同じ言葉が話せなかった。それでも、声にならない声で話しかけると、教授は「は、はーん。そういうことね」と指を鳴らしたり、いつもは使わないような、別の国の言葉でまくしたてたりした。

色々ありながらも、それなりに通じあえていたようだが、わたしがずっといる場所ではなかった。いつしか飛び出したい気持ちが芽生え、羽がしっかりするにしたがって募るようになった。

「わたし、ぼちぼち出発しようと思います」
教授の頭の上から顔をのぞきこむように告げた。ずいぶん驚いたのか、こちらを見上げようとしたので、その揺れで落ちそうになった。
「ええ! きみはずっとここにいるんじゃなかったの?」
そうしてあたりを見まわし、声を潜めた。
「ところで、空にコネはあるの?」
「ないです」
「そりゃあ、苦労するんじゃないの。いつ帰ってきてもいいんだからね」

いよいよ飛び立つ日、教授はめずらしく本から離れていた。わたしは脚から髪を慎重に外し、舞いあがった。よし、いけた。上空から教授に目をやると、まるで自身も羽ばたこうとするように、こちらに向かって両手を大きく振っていた。わたしもそれに応えて手を振るように、羽を動かした。強く大きく動かすほどに、影は遠ざかり、やがて見えなくなった。脚のあたりがすかすかした。だが、空は広く、風は心地よかった。

とはいえ、楽しいことばかりではなかった。食べものは待つだけではやってこない。逆に、大きな鳥や猫に食べられてしまいそうになることも多かった。雨露をしのぐ場所だって、毎日簡単には見つからない。旅立ってみたものの、待ち受けていた艱難辛苦に、ほんのわずかな期間で疲れ果ててしまった。羽は汚れて、ところどころ抜け落ちていた。もじゃもじゃ頭の居心地の良さが懐かしく思い出された。
「そうだ。せめて一休みさせてもらおう」
わたしは力を振りしぼって舞い戻った。だが、わたしの巣だった場所には別の小さな誰かが座っていて、すでに居場所はなかった。
「いつ帰ってきてもいい、って言ったのに」
裏切られたような気になって、わたしはちょっと泣いた。

行き場を失ったわたしは覚悟をきめた。生き抜くには、自分で力をつけるしかないと。仲間をつくって情報交換し、少々の難はあっても寝られる場所と食べられるものを確保した。敵から素早く逃れ、返り討ちにする技を覚えた。より高く、遠くに飛べるようになった。

時を経て、あちらこちらをめぐり、いつの間にか、羽はずいぶんたくましくなった。汚れなど気にならないくらいに力がみなぎり、輝いていた。

ある冬の日に、北の方から、わたしはまた同じ町に帰ってきた。公園まで飛んでくると、眼下に老人の姿をみとめた。ベンチで本を読んでいるのは、退職後の教授だった。針金細工のような体型は記憶と変わらない。背筋もしゃんと伸びている。

違うのは、もじゃもじゃの髪がないことだ。かつての巣はなく、頭はつるりと光っている。どうしたものかと眺めながら旋回を続けていると、教授が「はっくしょん」と大きなくしゃみをして体を震わせた。

おやおや。わたしはゆっくり下降する。教授の頭にとまると、帽子のように羽で包み込んだ。冷え切って感じられたその地肌が、やがてじんわりぬくもる。頭のまるみや温度に「そうそう、この感じ」とうなずいた。

教授は無言のまま、鞄からクッキーを取り出すと、わたしに差し出してきた。そうして、当たり前のように本を読みつづけている。開いている本をのぞきみたが、相変わらずちんぷんかんぷんだった。だが、いまでは少し、何が書いてあるかわかるような気もした。


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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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