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ドクダミと魔女のハープ

 汗ばむよう初夏の陽気。いつもの公園を水路沿いに歩きます。風はなくせせらぐ小川の音がパワフルなドクダミの香りをなだめてくれているようです。

 水路沿いにはドクダミに紛れてツユクサの白い花も咲き乱れています。白いワンピースのようなその小さな花は、艶のある緑の葉の上で淡い光を放っていました。

 右手に持ったアイスコーヒーを唇に当てると、コロコロと中の小さくなった氷がくぐもった音を立てて酸味と苦味が喉を伝っていきます。水滴のついた手でスマートフォンを触ると、画面についた水滴が液晶を映して虹色に輝きました。

 日差しはすっかり夏のようで、日陰になっているベンチを目指して歩きます。階段を上がって目当てのベンチに辿り着くと、そこには先客がいました。

 50代くらいのヨーロッパ系の女性で、青いワンピースにブロンドの髪を後ろで結ったその人は、靴を脱ぎ素足をベンチの上に乗せた体育座りのような姿勢で、そしてその膝の上に小さなハープを乗せていました。それはまるで、絵本の中の光景のようでした。

 隣のベンチは空いていましたが座るのは憚られ、彼女の横を素通りして別のベンチを探すことにしました。彼女は短調のもの悲しいとても繊細な曲を、水路のせせらぎに飲まれてしまいそうな小さな音で奏でていました。

 少し離れたところまで来て振り返ります。近くの擬木のフェンスにもたれかかると、微かに聞こえるハープの音色に耳をそばだてました。

 私は次第に、その木々の中に溶け込んだ憂鬱で美しい音色に惹きつけられていました。コーヒーの中の氷は全て溶けてしまい、プラスチックの容器から垂れた水滴が膝を濡らします。

 私は彼女の元へ戻ると、邪魔を承知でとなりのベンチに腰かけました。演奏を聴きに来たと思われたくなくて、リュックから文庫本を取り出して開きます。「西の魔女が死んだ」。

 まいは思いきり深呼吸してから、
 「エスケープ」
と、小さく声に出して言ってみた。
 そうだ、これはエスケープだ、わたしは、またいつかあの世界に戻っていかなければならないのだ、と、まいは知っていた。泣きたいような気持ちだった。ああ、でも、とりあえずここは、なんて気持ちがいいんだろう……。

梨木香歩「西の魔女が死んだ」

 主人公のまいは中学校に通うことが苦痛になってしまい、田舎に住むイギリス人の祖母の元に預けられます。祖母は「魔女」と呼ばれていました。

 はるか昔に一度読んだことがある本ですが、もう内容はほとんど忘れてしまっていました。

 小さな羽虫が飛んできて文庫本の端に留まります。私がフーッと息を吹きかけるとその虫はびっくりしたようにふらふらと飛んで行きました。柵の向こうの草むらからはドクダミの野生的な匂いと川の優しいせせらぎがやってきます。

 その一見相容れない初夏の匂いと音はとなりのベンチへ向かうとハープを弾く女性の指先に宿り、その指先が弦を弾くと物憂げで静謐な音色に溶け変わって私の耳をそっとくすぐります。

 気がつけば彼女は「魔女」になっていました。

 私は「まい」で彼女は「魔女」。私の両手が開いた小さな文庫本から物語が滲み出して、今この場の存在そのものが美しく鮮やかに作り変えられているようでした。それはまるで「魔法」のようです。

 私はその物憂げな初夏の音色をまとって、本のページを次から次へとめくりました。お話の輪郭がより鮮明になって、それにつれて時間が引き延ばされたような不思議な空間で、私は物語を感じるように読みました。

 いつの間にかハープの音が止んでいました。チラととなりを見ると、魔女はハープをソフトケースに入れ、ヒョイとリュックのように背負ってそそくさと去って行ってしまいました。

 彼女が最後に演奏した名も知らない曲の名前を、私は尋ねたかったのです。美しいさざなみのようなアルペジオの天辺の音で紡がれたもの哀しい旋律。私がその曲の名を知ることはないでしょう。これを書きながら、もう、すでに思い出せないのだから。

 まいとおばあちゃんのつくったジャムは、黒にも近い、深い深い、透き通った紅だった。嘗めると甘酸っぱい、裏の林の草木の味がした。

梨木香歩「西の魔女が死んだ」

 深い深い、透き通った緑と青い空。もう一時間もすれば仕事の時間です。魔法は解けてしまいました。


 本に栞を挟んでリュックに仕舞うと、ぬるくて薄くなったコーヒーを飲み干します。

 「エスケープ」

 むき出しになったドクダミの匂い。
 空っぽになったプラスチックのカップはまだ汗をかいていて、それを青空に掲げると、わずかに底に残った茶色の液体が初夏の日差しを受けて琥珀のようにキラキラと輝きました。私はその琥珀色のどこか深くにあのジャムの紅色があるような気がしました。



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