事あるときは幽霊の足をいただく!【長編小説】第1話 (1) いつもの朝
気を急かす発車のメロディが桜並木駅のホームに響き渡る。
下車したばかりの背広の奔流に押し流されぬよう、必死に抵抗しながら前進し、ようやく人波から解放されたところで、閉まる寸前のドアに体を滑り込ませる。
忙しい朝との戦争。
まだ一日が始まったばかりだというのに、呼吸は乱れ、汗は噴き出し、学ランはすっかりシワになっている。
「梅見原高校の生徒さん。駆け込み乗車は大変危険ですのでやめましょう」
車内アナウンスに名指しされ、通勤ラッシュのサラリーマンやOLの視線が一気に集中すると、気恥ずかしさと軽い罪悪感でオレは顔を下げた。
同じ高校の生徒たちは、すでに十五分前に出発した電車で通学しているのだから、乗り合わせている学生服はオレただひとり。駆け込み乗車で注目された上、悪目立ちしている。
その視線から逃れるようにして、奥まで進み、長座席前のつり革に捕まろうとしたとき、ボタンの掛け違いに気が付いた。留め直しながら、左頬にジンジンと居座る痛みに顔を歪める。
「真はどうしていつも寝坊するのよ」
寝坊の原因を五月の何とも言えない心地よい気温のせいにしたら、母さんの拳が飛んだ。
「二度寝ならまだしも、五度寝はいい加減にして。お母さんは目覚まし時計じゃないのよ!」
母さんはオレが勇者として人知れず功績を残したことを知らない。
昨晩は魔王に支配された世界を救うために、一晩中、スマートフォンの画面上から、鍛え上げた仲間たちに親指で指示を出していたのだ。
見事、悪の魔王を倒し、世界が平和を取り戻した頃には、窓の外は夜が白み始めていた。
オレの守った世界がようやく穏やかな朝を迎えることができたのだと達成感に浸りながら眠ったのだから、寝坊しないはずがなかった。
「おばあちゃんなんて、四時から起きているんだからね!」
母さんの怒鳴り声を打ち消すように、ばあちゃんの般若顔が脳裏をかすめる。
「ああっ、仏壇に線香をあげ忘れた。ばあちゃんに怒られる」
うっかり心の声が零れると、再び容赦ない視線が注がれる。オレは愛想笑いを返して、ますます頭を下げた。
世界を救った勇者の高揚感は、ばあちゃんが脳内へ出現したことにより、一瞬にして、冤罪で投獄された囚人の絶望感へすり変わる。
オレは深く息を吐き出して、長座席前のつり革に体を預けた。
ばあちゃんは崎山家の家長であり、権力者であり、絶対者であり、先祖供養の信仰に篤い人だ。
毎朝、仏壇の前で手を合わせ、供物を供え、線香の煙をくゆらすといった業務的な儀式ばかりではなく、仏壇の隅から隅まで目に見えない埃の清掃に励み、週に何度も墓場管理のためにお寺に足繁く通い、老後の余暇を費やしていた。
熱心な仏教徒や怪しげな新興宗教の信者などというそんな甘っちょろいものではない。
ばあちゃんの先祖供養は度を越して、先祖を「守護霊様」と称し、唯一神に見立てた独自の信仰を貫いているから厄介なのだ。
守護霊崇拝。
オレはそう揶揄している。
「つつがない毎日を送れるのは守護霊様のお陰。守護霊様に守られているのだから、朝の焼香は絶対ですよ」
ばあちゃんの思考回路は常に「守護霊様」なのだから、家族が守護霊崇拝のとばっちりを受けるのは当然のことで、起床したら顔を洗うより先に、一日の始まりの習慣として、仏壇への焼香を家族全員に押しつけた。
昨日も朝の焼香を忘れたオレは、ばあちゃんの二時間にわたる説教を受けるはめになり、足がしびれて、しばらく歩くこともままならなかった。
今日も帰れば、地獄の説教が待っている――。
次話『第1話 (2) いつもの朝』はこちらから。
イラストはmaoさんに描いていただきました!
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