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“自分と向き合う” ただ それだけで

COURRIER JAPONの、【「まるで地獄絵図…」 ガーナはいかにしてファストファッションの“墓場”にされたか】と、【7回着たらポイ―加速するファストファッション、年間消費量は800億枚】の記事を読んだ。
環境保護団体の記事やニュースを見聞きしていると、環境と経済発展は対極にあるものという印象強いように感じる。先に紹介した記事を読むとそれも確かにと思うのだが、大気汚染や国同士の取り決めなどは個人の見解や意見はどうしても影響が及びにくい。また、“経済の発展=人の幸せ”という構図も、現代においては否めない。ただ、環境問題の加速は喫緊の問題なわけで、今後こうした問題の解決策として、そして今後これ以上環境への負担を増やさないために、一個人としては何ができるのか。
私なりに出した結論を先に述べたいと思う。

「これでいいや」ではなく、「これが良い」――その価値観を持つだけで、人は幸せになれて、かつ環境への負担も減らすことができる――と、私は思う。

 私は昭和63年生まれで、丁度ガーナの埋め立て地に埋まっている服たちが現役時代におしゃれを楽しんでいた世代ではないだろうか。私はきょうだいが多い上、きょうだい構成が下の方なので、友人の親と私の親は一世代違っていた。しかも両親も親戚も皆公務員か元公務員、両親の独特な性格も相まって、代世の変化にも疎い家庭環境だった(なんせ、両親は“バブル”を知ったのは今から20年ほど前の事だったくらい。当時を懐かしむ内容のテレビ番組を見て、「クラブって何?」と言っていた)。そのような条件が整っていたからか、“ユニクロは学校用、おしゃれで着るのは恥ずかしい”という価値観が一般的だった時期に、私は安さの代名詞服のユニクロを大事に着ていた。一方でおしゃれへの憧れも年相応にある。それは好きな服を買ってくれない親への不満となり、周囲に愚痴をこぼすようになっていた。そんな時、何度か言われたセリフがある。

「なら捨てちゃえばいいじゃん」

 誰に言われたかなんて、覚えてもいない。それぐらい自然に、印象に残らない程何度も言われた。
 捨てたらそれこそ数に困る。悩みがおしゃれどころの話ではなくなってしまう。実行したことはなかったが、「え?まだ服としては使えるのに?」と疑問に感じていた。

 大学生になると同時に、自分で服を買うようになり、あれやこれやと迷走した。
 週末が近付くとユニクロのチラシをチェック。当時、ユニクロの入っているショッピングモール内でアルバイトをしていたので、わざわざ早起きしてオープン前に並び、オープンと同時に入店・購入。ダッシュでバイトに行くということを繰り返した。他の手頃なアパレルブランドに関しても、セールの時期をチェックして、大学に行く際の乗換駅で買い物をする時間を捻出したりしていた。
このような努力に対しての対価はわずかで、いざ気に入った物を苦労して入手してみると、素材がゴワゴワでとても一日来ていられなかったり、汗かきな自分の体質とは合わなかったり。そうした中で、デザインだけではなく素材を気にするようになったり、体型を客観的に見るようになったりと進化はしていったものの、この迷走は30歳くらいまで続いた(ただ、歳を重ねた分、学生時代のような情熱は落ち着いていた)。

服に限らず、あれやこれやと消費する人というのは、飲みの席やお茶をしてよくよく話を聞くと自分が何を欲しているのか、自分自身で分かっていない人が多いように思う。自分も迷走時期は、本当はどのような服が欲しいのか、自分に何が似合うのか、どうなりたいのかが分からなかった。

あれやこれやと、欲しい物をさして考えずに購入する――これって幸せですか?
服も含め、今一度憧れた物、いくつになっても心に残っていて思い出す物、「これ“が”欲しい」と言える物にお金を使う方が、日々の時間が充実して幸せだと思うのだ。
改めて考えてみると、それは幼少期にまで遡る人もいるのではないだろうか。ちなみに私は、そうした物の一つに、幼少期に伯母が妹にプレゼントした絵本があった。いいなとずっと思っていて私も度々読んでいたのだが、持ち主である妹はかなりぞんざいに扱い、確かもう残っていなかったと思う。
妊娠中、産後に探したり選んだりする時間が取れなさそうな物を買っていた時期があるのだが、その時には絶版になっていた。幸い、付属品が一部欠けていたが比較的綺麗な中古本を買うことができた。これは私の宝物の一つとなっており、娘が時々読んでいる。
幼少期にまで遡ろうが遡るまいが、それを恥ずかしいと思おうが思うまいが、それは自分の素直な物に対する“思い”そのものだ。自分の心の中にあるもので、他人に公表する必要なんてこれっぽっちもないものなのだから、素直になって良い“思い”だと、私は思う。しかし、大体の人はここにセーブをかけていないだろうか?

ファッションが特段好きというわけではないのに、めくるめく流行を追い、週末はショップを走り、時々断捨離をして、またショップで買い物――疲れませんか?
とはいえ、ファッションからもたらされる人の印象は、小さいものではない。

元々インドアな性格で、外出するとすれば趣味の写真や神社仏閣を巡る時と、習い事の合気道に行く時のみ、というような私にとって、“遊びに行く”という事へのハードルがどれだけ高かったことか。何をどう着れば良いのか分からず、冬の外出先で冷えでお腹を壊し、トイレに駆け込んだことは一度や二度ではない。人の目も気になるし、おしゃべりの途中でもガラスに映る自分の姿にふと気が持って行かれる。これが大学生になったら毎日なのだ。
そもそも、私のような人間でなくとも、“年頃”というのは、周囲からどう見られているかを気にしだす年齢なのだ。視界に第一に入ってくる印象で友人ができるかどうか、キャンパスライフが充実したものになるかどうかが左右されてしまうのは常識だ。だからファッションが好きでなくとも出費も時間も消費するのは仕方ない、ガーナの現実も…言葉にしたら叩かれるからしないけど…うん。――な理屈が通るのだろう。

一方で、イギリス王室のキャサリン妃のファッションを見てみると、ファストファッションの代表格ともいえるZARAの服を着こなしている。ファストファッションとオートクチュール(まで行かないにしても、少なくともファストファッションではないメーカーの服)との違いとは何なのか考えさせられる点は多分にある。
 そうなると、結局は生まれ持ったセンスなのか――そうした意見も聞こえてくる気がする。――天性のセンスを生まれ持っていなかったら、それこそ、失敗を繰り返して、自分で自分のセンスを研磨しなければならないではないか、ガーナの人達には悪いがファッションによる情けない思いはこうコリゴリ――

 ここで私がいいたいのは、「環境のために我慢しましょう」ということではない。確かに、安い化繊の服は洗濯するたびナノプラスチックが排水と共に流れるのだそうだが、そもそも捨てなければガーナのような事態にはならないはずだ。そう、人に譲ったり、売ったり、便利な今日だからこその方法があるはずだ。ファッションについて色々研究するのももちろんアリ。そうした行動が、雑誌の購入や人の移動で経済が回る。一方でショップを走り回ったり断捨離で過ぎる時間や後々無駄となる出費は抑えられるのではないだろうか。そして、【7回着たらポイ~】の記事にあるような事態も。

特に、ある程度の金額以上で丈夫なものは、不要になった際に確実に売ることができる。
ある程度の金額以上の物でなくとも、メルカリでブランド検索をすると「H&M」「西松屋(子供用品メーカー・販売店名。子供服では一着1000円以内で買えるお手頃ブランド)」も候補に表示されるし、実際に出品もされている。物価高騰が進む今日の特徴かもしれない。こうした物も売れるということは、もしかしたら、次の持ち主は、子供と公園に行って破れても構わない服を探しているかもしれない。部活動の激しい運動で破れても財布に優しい服を探しているかもしれない。アート作品を作るのに汚れても集中し続けられる服を探しているかもしれない。或いは、手に入らなかった服を身の廻りの環境が適切になったタイミングを迎えて探しているかもしれない――そう、絵本を買った私のように。

自分と向き合う――ただそれだけでいいのではないだろうか


参考
●「まるで地獄絵図…」 ガーナはいかにしてファストファッションの“墓場”にされたか
 https://courrier.jp/news/archives/331619/
●7回着たらポイ―加速するファストファッション、年間消費量は800億枚
 https://courrier.jp/news/archives/190435/
●キャサリン妃のファッションについては、「キャサリン妃 プチプラ」「キャサリン妃 ファストファッション」 で検索してみてください。


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