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生命と身近な尊厳と自立と

結婚してどこにでもいるような夫婦二人暮らしを満喫し、さて、そろそろ子どもが欲しいな、となって妊活を始めた時。避妊を止めたらありがたい事にすぐに妊娠した。妊婦となった私は検診でエコーを見、心臓が動いていたり身体ができていくのを確認し、小さな小さな精子が卵子の元へ泳いで行ってここまでに至る生命の神秘を感じた。

 何がきっかけだったかは忘れたが、自分の母子手帳を確認する必要があって、母親から「海外渡航等で急遽確認が必要になった時のために」と渡されていた母子手帳を引出しの奥から引っ張り出した。その時、私のエコー写真の耐熱紙が挟まれているのを見つけた。それはもう退色が進みただの白い紙であったが、私はハッとした。自分も、精子が泳いで行って卵子に飛び込んで、細胞分裂が進んだ結果の存在なのだと。日頃、子供を「作る」という表現が日常的に使われる。科学が進歩した今、子供は「授かる」ものではないのだ。義母に結婚後すぐに妊活をしなかった事について問われて、会話の流れで、「子供って『作る』ものじゃないですか」と言ったら衝撃的だったようで、「いや、『授かる』って感じだけどなあ」と言われたが、そんな義母も夫を妊娠する際に「五月生まれは将来お金に困らないと言われているから」と、生まれる月を逆算した人である。

少し話が逸れるが、実は私、歩行器に乗っていた頃の記憶がある。脚の皮膚の内側に走るゾワゾワした不快な感覚から逃れたかった上、窮屈な状況へのストレスもあって、必死に台所に立つ母の背中に「出して」と訴えるのだが、「はいはい」と声を出すだけで出してくれない。気付くと布団で横になっていて、大きくなってから「歩行器に入れると目が離せるし、気が付いたら寝てくれていた」という話を聞いて、「冗談じゃない」と思ったものだ。

話を戻そうと思う。二人目に出産した娘はなかなかの性格の持ち主で、授乳中、うたた寝をしようものならば、母乳が顔にかかっても目に入っても構わずに「ううーっううーっ」と唸った。視線が自分に戻ると再び乳首を咥える。どうしても私は寝てしまうから、テレビを点けて授乳した事もあるが、視線がテレビに行ったらアウト。猛烈な眠気対策で適当に話しかけたら「あうあうあー」と喃語?のような事を喋り出して、結局乳首から口が離れてしまう。子供は扱うものではないというのを実感した思い出だ。しかし、母からしたら私は両親によって「作られた」存在で、扱うものだったのだ。道理で歩行器から出してくれなかったわけだ。他にもご機嫌伺いをしたり不条理な事を言ったり……理屈が全く分からなかった理由はこの認識の違いにあったのだ。だから、反抗期は凄まじかったのだ。では、この経験を私は親としてどう生かすか。考えた私は、反抗期を自立のタイミングだと捉える事にした。時が過ぎ、利発な娘と接していて、かつて「冗談じゃない」と思った事の一つ、“目を離せる”という事ができないという苦労を実感する事となった。何でもかんでも「できる」と豪語し、絆創膏では済まない怪我の可能性のある事をやらかそうとする。止めようとすれば烈火のごとく怒る。そう、この子にとってはそれこそ「冗談じゃない」のである。成績が万年低空飛行だった頭を捻り、私なりに出した解決策は、「あなたはまだ小さいから、大きくなったらよろしくね」と危険な場面では話し、絆創膏程度で済む怪我ならば内容によってはあえて挑戦を見守る、というものだった。これは一応上手くいっているのではないかと思っている。

 そして、かつての私もこの子も、“作られた”なんて微塵も思っていない。主役と主語は“自分”。子供は母親の人生の一ピースではない。親として少し残酷だなと思うのは、これが流産を繰り返した後に授かったのだとしても、不妊治療に苦労したとしても、主役と主語は“自分”なのだ。親の“思い”は関係ないのだ。初の妊娠以降、世の中には思っていた以上に流産経験者が多い事を知った。より命を「作れる」ようになっても、思い通りになるとは限らないのだ。それらを乗り越えてやっとコミュニケーションを取れるようになったと思えば「冗談じゃない」といわれるのは、親としては哀しいかもしれない。ただ、一方で喜んでも良いのではないだろうか。かつての親・自分同様、自分の人生への一歩と捉えて良いと思うのだ。だからそろそろ、関心を自分自身に戻してもいいのかな、と思った。自分のスキルやキャリア、年金、老後の生活等々、不安は尽きない。それにそれらのために今可能なスタートを切れば、学費や養育費への心配が多少なりとも緩和されるかもしれない。そんな中、娘に世話を焼くと、言われてしまった。

「もうママ、働きに出て」

利発な分、自立も早いようです。

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