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認知や自覚をもう一度考え直してみないか…

サラリーマンをやり始めると、学生の頃よりnoteを書く時間を見つけようという意識が自然発生しないし必然プロセスを踏もうにも中々渋ってしまう自分がいる。琴線に触れたり思い立った時にキーワードだけを下書きにアーカイブして、また思い立った時に書き溜めてあるものたちを何とか言語化させてここに出す。最近はそのような工程を踏むことが多い気がする。

大学の2回生の時に専門担当の准教授に『元気がある時にたくさん勉強する。疲労が出たり体調を壊したらしっかり休む。回復し切る直前や100%の元気になる前(病み上がりくらい)に程々に遊ぶ。』と言われたことを思い出す。病み上がりの時に遊んでよいとは僕は思えないけれども、体力がある時に走ることに関してはそれなりのコンセンサスや僕自身の同意が得れそうだ。

"stay home"や"テレワーク"と言ったワードが世の日常に蔓延って定着しつつあるなと感じる今日、敢えて今この感覚の時に現場での話を少ししようかなと思う。オフラインである現場の不要さとともにオフラインな空間の共有を人々が求めている昨今を見ると、やはり人間はある程度同じ場所にいることへの欲求がある人は多数を占めそうであると考えれる気がする。

さて、現場で大事なことはなんだろうか。これから話すことはオンラインを駆使した活動でも言えることだけれども、具体度を下げて結論をいうならば『時間を守る。締め切りや期日を意味のないものにしない。嘘をつかない。挨拶をする、配慮をする。他人に迷惑をかけるような身嗜みや行動をしない。』という系の単純なことである。今回書いていく話に沿って少しだけ抽象度を上げて言うならば、『小手先のテクニックで人気や信頼や信用を得ようとするな。』くらいだろうか。

学生をやってるorやってた該当者はご存知の方が多いかもしれないが、 期日という言葉に意味が宿っていないシーンが多い。『普段から時間も期日もマナーも安全も守らないのに、加点を獲りに行くような試合をしないでくださいね』と言いたかった学生時代の自分(ブーメラン)。まぁ期日ってやつはある程度人々に制約を掛けてパフォーマンスを出させるのに有効であるし流石に各々がそれ自覚をしている気がする。しかしながら、コミュニケーションと総括できるだろう他の部分はどうだろうか?配慮ってしていますか?他人に迷惑かけてるって知っていますか?という質問をかけられて深く悩めるだろうか。

我々が思う当たり前というものは時間と共に当たり前ではなくなっていく。歳上からの飲み会は断らないが常識だった世界はぼちぼち消えていっている。スマホ依存症を本気で悪だと思っていた世界もまぁまぁ消えていっている。猪瀬さんがよく仰っているのだが、我々は昨日の自分で生きている。
歳を経て18歳までで身につけてきた偏見の塊、それこそが僕らの思う常識なのではないかとプロ奢ラレヤーさんがTwitterに書き込んで投稿していた。イノベーション世知話をしたいわけではないが、やはり何かを変えたければまずは自覚から始まる。認知とは全ての始まりであり、きっかけである。認知を舐めてはいけない。そこには大きな可能性があり、大きなエネルギーがあり、絶望の中を生きる人たちの僅かな希望である。

とはいえ認知は最初に手に入れれるものだとは僕は思っていない。認知にも辿り着く道のりがあり、前後のストーリーがあると考えている。先日関係者の1人から話されてなるほどなぁと感じた小話が分かりやすいフローを踏んでいるため、引用させてもらおう。

まずは何も知らないところから知るという"知識"の吸収からスタートする。そして次にその知識を常に持ち続けている"認識"へとフェーズが移る。最後に認識しているものを"意識"して行動する。この"知識"→"認識"→"意識"の流れが理解度と定着度を高くする方法の1つの手段である。ここでいう"認識"とはまぁ認知と同義だとすれば、認知には初期投資カロリーだけではなく間に1工程あることがわかると思う。高学歴の新卒を会社が欲しがっていた時代が昔、そして今もなお多少はあるというのは、初期工程の"知識"の獲得に抵抗がない寛容さがある人間を楽に効率よく探し出すための1つの要素だからだと僕は考えている。あんまり好きじゃないワードなのだが、P→D→C→Aサイクルとやらをできるやつは小中高の勉強でも共通項があると見出しているからそうなっている背景もあるらしい。

知識の獲得にはある程度強制力が生み出す産物が大きいと思うが、年を重ねればそのような環境はなくなっていく。これやりなさいよと口を酸っぱく言ってくる人は時間と共に消えていく。だからこそ、自ら目の前のことや日常と言うものにリソースを見出して向き合う。簡単ではない。簡単だと思う人ほど無自覚で無秩序な行動を取ってきたのだろう。簡単ではないのだから。(簡単にできるものは、本人の無自覚な努力が他から見て垣間見れる気がする)

話をコミュニケーションに戻そう。信頼を実体だけで築くようなフィールドで戦えている人は世の中にそうはいないだろう。アートやデザインと言った作品そのものにかなりの力が宿るようでなければ難しいのではないか。もちろん資本主義経済・貨幣経済の中では、金銭なるものが手段という本来の用途を逸脱してしまっているのも事実であり、体感では貨幣で信頼や実体を得て成り立っているのもまた事実。しかしながら、テクノロジーの恩恵によるRPAが進む中でも重要視される仕事たちの共通項は、人を前提とした職業ではないだろうか?実体の生成プロセスに人が介在する必要が無くなっていく中で対人関係が重要視されていくということは、まさに実体で人を釣るような行為が疑われていくことの裏返しではないか。もちろん医療などの科学的アプローチは立派なことだが、今回の話は、具体度を高めたら小手先のテクニックで人を惹くようなことをしてはいけないという話。対人コミュニケーションに焦点を当てたある種日曜ゴールデンタイムアニメみたいな日常チックなものだ。

何かを変えたいなら、まず変わってないとか変えれてないとかを肌で感じないといけなくて、それは自覚しないといけないということになりそう。ここらへんから認知に話が戻ってきた。変わっていないという事実の享受、手を加えたつもりでも結果に変化がないという現実から目を背けない、ここらを知識として、そして認識として落とし込むには諦めや勇気がいるかもしれない。これはこれで必要な要素なのだが、もうそろそろ飽きてきたので相変わらず序章にも満たない内容で割愛したい。


全てに制約をかけたいわけではない。ただ無自覚に行われているのならば、少し考え直した方がいい気がする。他人に迷惑をかけている自覚がありながら行動している人って多分ほとんどいないんじゃないかな…
我々の思う『迷惑をかけているかも…』なんてその"かも"に過ぎないし、多分大して考えてもいない。認知と自覚が揃えばそれらのことはそもそも人様の前で出来なくなるような意識に必要充分条件を満たして作用し合う(すぐに意識にいく)気がする。自覚とはある種この話で登場した"知識"に近いかもしれない。認知は前述した通り"認識"だろう。
この話はオンラインでも言えるのだけれども、現場主義やオフライン、空間の共有というワードが人類の行動変容から薄れていく(強くなっていく)時に考えてた話。そう、どうでもいいことを考えてたときの話。

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