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チチ、ジシ、カロウシ。

父はいつも寝起きの悪い私達のことを起こしてくれた。

単身赴任で離れて暮らすようになっても、家の電話で起こしてくれて、母が寝ぼけて嬉しそうに話しているのを見るのが好きだった。
たまに母がなかなか起きなくて私が電話に出ると、私を母だと間違えるのがおかしくて、ふざけて私だってわかるようにしてみたりした。

いつだって起こしてくれたのに、2月からはもうかけてくれない。

父は1月の最後の日の夜中に14階のマンションから飛び降りた。

2/1水曜日の朝、毎日起こしてくれる父親から連絡が来なくて、母は心配して何度も何度も電話をかけ続けた。段々といつものママじゃなくなって、今すぐパパの所に行ってと叫び、私も胸騒ぎがしてすぐに着替えかけていた。その時に電話が鳴った。でも違った。ママの喋り方が父に対してのじゃない、余所行きの口調。話すうちに力が無くなって弱々しく座り込んで、その姿と声から父親が亡くなったんだって瞬時に私と弟は分かった、悟った。落とされた受話器を拾って出てみたら警察からで、なんで警察が電話してくるのか分からないまま父親の自死を告げられた。頭が真っ白になって、向こうが何か言ってるけど口が開かない。大丈夫ですかー?聞こえてますかー?自分の電話番号を聞かれてるのに母親の電話番号を答えてしまった。誰と〇〇市に来ますかって、私と母ですって代わりに答えた。

警察はそんなこと言ってたけど、でも父は絶対生きてると思っていた。だってみんな父親のことが大好きで父親も家族のことが大好きだし。なんでさよならしちゃうのか分からない。

新幹線でどうしていたのかさっぱり覚えてない。着いたらマンションの入口に男の人が立っていて、警察官だった。この辺で倒れていましたって言ってた。なんの跡も無かったよ。夜中のうちに全て終わっていたらしい。道路工事している人がドンと音がして倒れていたから救急車をすぐに呼んでくれたみたいで野次馬にされずにすんだ。ありがとうございます。あまり見てなかったらいいな、トラウマになっちゃうから。

その後5人くらい家宅捜索?指紋?を取って、本人なのか一致させる作業してた。警察官からたくさん話を聞かれた後に父の遺書を見つけたけど、私達は父が亡くなった原因は過労だって分かってた。12月上旬に退院してから土日も休まず夜遅くまで追い詰められたように働いてた。私達はもう休んでほしくて、父が亡くなる3日前に会いに来てくれた時は嬉しかった。(でも次の日帰った)亡くなった翌日、母と二人で父の家に向かった日は本当は私が父の手伝いをすることになってたし、ママは土日に会ってたし、春から母は仕事をやめて父と一緒に居るはずだった。けど、遅すぎた。

それから警察の安置所に居た父親に会った。私は会うのが怖くて怖くて、だって14階から飛び降りって身体どうなっちゃうの?本当に本当に迷った。けど、ママを一人で会わせる方が怖くて一緒に入りました。父は頭から顎にかけて包帯ぐるぐる巻きにされていて、白い頭は凹んでた。顔の左側がなんだか怖くて、別日に弟を含めた三人で会った時、弟が左目が無いって泣いてた。左は骨折してて歪んでいたけど、でも後頭部を打ったせいで思ったよりは見れる状態だった。父親というより、小学生の頃にお葬式で見た死んだ祖父に似ていた。手を繋いでも良いですか?って聞いたら、しないほうがいいですって。身体は酷い大怪我。ママよりも背が小さかったと思う。肩幅もこんなに狭くなかった。でも顔が綺麗な方?で良かった。お葬式できたから。家族葬だったけど。私達は火葬するまで亡くなった父親に長いことお話した。顔は触れた。初めて触ったと思う、顔なんて赤ちゃんの頃くらいしか触らないでしょう。冷たくて凍った雪見だいふくみたいみたいだった。葬儀会社の担当者が父にお化粧してくれた時、処分を頼んだ着ていた服を確認して下さいって、ビニール袋から一つずつ出すの。血まみれのスーツ、真っ二つになったベルト、最後に家に帰ってきた時にママがこっちの方が格好いいよって巻いたマフラーとか。父は即死で苦しまずに済んだけど、私達はずっと痛いよ。父の体の代わりに抱きしめたビニール袋の服からは、嗅いだことのない体液の臭いがした。しばらくの間風呂に入らなかったから、私達みんなからもその臭いがした。


もうすぐ2週間が経つ。ここまで過ぎるのに恐らく人生で1番辛くて忙しくて。世帯主が亡くなると、私達家族が生きるためには膨大な手続きがある。まだまだこれから沢山ありすぎて正直打ち拉がれている暇がない。私と弟は母親を助けなればならない。毎日辛くて苦しくて悲しくて、それでも生きろと言い聞かせる。だけど、いつか父親との記憶が薄れてしまうのならこの辛さも忘れたくない。

辛いけど、私達を置いていった父を、助けられなかった私達を、父を追い込んだ会社を憎む気持ちだけに囚われないで、
いつか写真やビデオを見れるようになって、父のことをたくさん話して、父との思い出を大事にできたら。
それは凄く凄く難しいことだけど
難しいのも仕方がない。
それほどにまで大切な存在だから。

写真は子供の時の私が父にプレゼントしたアイロンビーズとどんぐりを大事にして単身赴任先にまで持ってったやつ。

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