「多様性」という名目で、可能性を潰さないように
近年、「多様性」という言葉をあらゆるところで耳にする。
人には違いがあり、個性があり、それを理解し受け入れていくこと。
社会としても個人としても、人を特定の枠組みに当てはめるのではなく、その人自身の強み、魅力を発揮できるように、個性に合わせた設計をしていく。
そんな「個性重視」の価値観が広まりつつある中で、多様性について少し視点を変えて考えてみると、「自分の個性」という名目で、ある種の諦めが発生するタイミングがあるのではないか、と感じるようになった。
経験の中で変化しうる「個性」
人は、生まれながらに違いがある。
多様性について考えるときに、分かりやすい題材としてよく挙げられるのは「LGBT」の話だろう。女性の身体に生まれながら、女性を性対象とする人、男性の身体に生まれながら、男性を性対象とする人。
そのような、生まれながらに備わった変えられない特徴については、どんどん社会が受け入れていくべきだと思うし、実際その方向に少しずつ向かっていっている。
ただ、自身の個性というものを考えるときに、それは後天的に変化しうるものも含まれる、ということも考える必要がある。
例えば、「人前で話すのが苦手」という人が、人前で話す経験をたくさん積んだ結果「人前で話すのが得意になり、好きになった」というふうに変化するなんてことは、往々にして考えられる。
つまり、個性には「生まれながらに変えられないもの」と「経験の中で変化しうるもの」が存在するということだ。
「やってみないとわからない」のが個性である
私たちが自分の個性を考えるとき、「得意、不得意」「好き、嫌い」「できる、できない」など、さまざまな判断軸をもとにジャッジをする。
しかし、私たちは経験の中で「嫌いだったものが好きになる」こともあれば、「苦手だったものが得意になる」こともある。
多様性を受け入れる社会が進む中で、私は「個性」という名の諦めによって、自分の可能性を潰さないようにしたい。
もちろん、生まれながらに得意・不得意があったり、一人一人に違いがあることは、生物学の観点からみても当たり前にあることだろう。
ただ、私たちは多くのことを他者との比較で判断したり、過去の経験から判断をしている。
そして大抵のことは、ただ「経験値が乏しい」だけでそれが向いていないと判断しがちではないかとも思う。
経験不足を「自分の個性と合わない」と誤認識をしてしまった結果、色んな物事を「すぐに諦めてしまう」ようになるとすると、とてもつまらない人間になってしまうだろうし、自分の可能性を自ら潰してしまうことになりかねない。
だからこそ、何事もある程度の経験を積んだ上で、それが自分に合うのかどうか、向いているのかどうかを判断していきたい。
結局、「ある程度の期間をかけてやってみないとわからない」のが、人生というものだろう。
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