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書評|モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと

本のレビューと所感です。

奥野克巳 著 モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと

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アニミズム(人間の霊魂と同じようなものが、広く自然界にも存在するという考え方)について、様々な視点から深く考察している本です。題材にしているものの範囲が本当に広くて、

片付けコンサルタント/ナウシカ/アイヌ文化/生きもの供養塔/東洋思想/動物愛護/宮沢賢治/東南アジアの狩猟民/南方熊楠/記号論/人工知能。。。。

(このあたりが印象深いですが、本にはもっと多くの題材があります。)

それぞれ違うものを取り上げている各章の考察がつながっていて、最終章でそれらすべてを使ったまとめと、著者の“アニミズム新考”が述べられています。

難しい部分もあって全て理解できてはいない気がしますが、アニミズムという考え方を理解したいと思っていたタイミングで手に取った本としては内容も難易度もハマっていて、とても良かったです。おすすめです。

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連絡通路としての「林縁」

アニミズムについて理解したいと思ったのは、以前書いたテキストに、生物多様性に関するものや、ヒトと森の関わりについてのものがあるんですが、それらに関連付けつつ自分の考えをアップデートする切り口になりそうだという期待があったからです。とはいえ、言葉のなんとなくの意味くらいしか知らなかったので、まずは優しめの本でトライしてみようかと。。。

特に、これまでは、人と森との関係性を考える際、両者の間には“境界線”のようなものが存在することを前提に「林縁」という表現を使っていました。そして、人間活動が縮小することでその境界線が書き換えられていく、という言い方もしてました。

ただ、概念的な表現とはいえ、農地や雑木林などの半自然的な環境が存在する以上、自然物/人工物という境界線を引いて明確に2分することへの矛盾というか、限界のようなものを感じていました。

この点について本の考察を取り入れると、「林縁」を、人の生活圏とそれ以外(森)を隔てる「壁」として捉えるのではなく、人間の世界と外の世界のあいだにある「連絡通路」として捉えることで、いままでと違った見方をすることができそうです。「壁」という表現は、自分が今まで使っていた「境界線」に相当します。

ちなみに外の世界とは、人間以外の生物だったり、石や水や風だったり、死者や神のいる世界だったりして、「人ならざるもの」の総称といったニュアンスです。

人ならざるものにも魂があり、人と同じように思考する。東南アジアや中南米に今も暮らしている狩猟民と同じように、昔の日本人もこのように考えながら自然と付き合っていた。しかし今では、物理的にも、精神的にも、人ならざるものとの距離が開いてしまい、両者の間には「壁」が存在する。

例えば、アイヌのクマ送りについて書かれている部分を引用すると、

アイヌにとって神の世界とは、人の世界から超越した他界では無い。両者の間には、常に連絡と交換が行われている。-p55-

あちら側のクマ(カミ)との間に築かれた壁を崩壊させるためには、クマが人間のように振舞う世界へと抵抗なくすんなりと入っていけるような感受性を、私たち人間のうちに養い続けることが大切なのではないだろうか?アニミズムの今日的意義は、この点にある。-p226-

それでは、壁とはいったい何か?それは、人間以外の世界から断ち切って、人間を人間だけの世界に閉じ込めてしまうための境界線に他ならない。そのことによって、人間は、人間のみに閉じられた安全圏に暮らすことを夢想することが出来るようになった。しかし、人間だけの閉じられた世界は肥大化した結果として、今日、数々の危機に直面している。 -p226-

この考えを取り入れながら林縁の在り方を改めるとすれば、境界線をどこに引くか、どう書き換えるのかというより、「あいだ」としての林縁はどのような場であるべきなのか?「あいだ」としての林縁を、壁や境界線ではなく連絡通路としておくために、人はどう関わるべきなのか?ということを考えることだと思います。

林縁がどのような場であるべきかは、アニミズムの考え方に則れば、人ならざるもの(神秘的なもの、霊的なもの、言葉にできないもの、、、、)とつながるための場として存在するものと捉えられると思います。ただ、著者の文脈は、それが望ましいというより、それが本来は日本人の心の在り方を支えていたものだから、一旦そこに立ち返って考えましょうよ。という終わり方でした。

そうすると、「人が外の世界とつながって生きていくために、森(林縁)はどうあるべきなのか。」という問いが生まれます。この問いは、「健全な林業のため」や「生物多様性を維持するため」という視点とは別のアプローチで、森のあるべき姿を考えることにつながるかもしれません。次は、そのあたりについて深堀りしてみます。

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人間のいない世界

もう一つ、この本で面白かったのは、アニミズムは、あくまで人間中心主義的な思考から生まれるものである、とされている点でした。

こうした存在論―人間にとってたいへん都合の良い考え方で、クマが聞いたらそんなばかな(笑)というに違いない[梅原 1995: 38]―の土台の上に行われるのが、クマ送りだった。 p-54-

アニミズムとは、人外との際で起きる、徹頭徹尾、人間的な現象であった。
人外の生きものたちどうしの交渉・交換のみからはアニミズムは立ち上がってこない。人間不在の世界には、アニミズムはないと言い換えてもいい。アニミズムとは、人間中心主義の最後の砦、その最も縁のところで起きる現象なのである。人間的なるもののかなたに、森の思想、森の精神的宇宙を生け捕りにする人間的な感性の内側にアニミズムは遍満しており、発見されることを心待ちにしているかのようだ。 -p179-

誇張して解釈すれば、「もう一回、人間中心主義に立ち返ろう」と言っているようにも思えます。

例えば生物多様性については、「人類が絶滅しないための生存基盤として、自然資源の多様性と持続可能性を維持する」がこれまでの模範解答だったけど、これは人間至上主義的な考えであって時代遅れなので、これからは、野菜や家畜、あるいは人間による利用と無関係な野生生物まで包括した「生命中心主義」を人々の行動や政策の動機にしていこう。とった議論がありますが、そうした考え方とは異なった議論です。

ここはまだうまく表現できないのですが、人間の霊魂と同じようなものが、広く自然界にも存在すると「思い込む」ことが大切なのではないかと思います。その方が、あるべき論や偽善ではない、自然との無理のない付き合い方になるのではないでしょうか?

そう考えれば、自然資源を神聖視すると同時に、利用し消費するアイヌやマタギのような存在や、例えば星野道夫さんのように、狩猟採集文化を深く理解しつつ、自然の美しさや偉大さを表現できる方が、「僕は環境保全とか動物愛護には興味が無い」と仰ることにも、なんとなく説明が付きそうな気がします。

昔で言えば寄生獣、最近で言えばゴールデンカムイなんかも、この考え方が根底にある気がします。呪術廻戦の特級呪霊“花御”も「人間のいない世界」を望んで人間と戦ってます。この後どういう終わり方するのかすごく楽しみです。

脱線して終わってしまいました。。。

アニミズムは、主客が対置され、言語によって分節化されている公共的空間を生きる人間の分別知によってすくい取ることが困難な外部の世界にそっと触れようとする。言語化以前の、自己と物事や対象が分かれる前の朕兆未分已然の世界に。こちらからあちらへの連絡通路を開けておくならば、こちらとあちらで往還を絶え間なく繰り返すことが可能になる。 -p227-

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