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クライベイビー

 煙草を止めた意味がないな、と鉄也は思う。
 ポスターを張っては剥がしたことによってボコボコになった壁を手でつたいながら、鉄也は階段を降りる。まるで爬虫類の鱗に触れているようだった。地の底からはニコチンを含んだ煙が湧き出してくるので、息を止めない限り、肺の中にも遠慮なく入ってくる。今日はここで演奏しなければならないので、肺を清浄に保つなど無理な話だ。階段を降りながら客の顔を想像する。今時、ブルースロックバンドを聴きに来る層など、よっぽどの年寄かと思っていたが、三十代、二十代も多い。完全に流行からは外れた音なので、彼らも何処かずれているとは思うが、話していると、そこまで変な連中ではなかった。そういう鉄也もまだ三十五だ。ブルースや七十年代のハードロックが好きなのか、と良く聞かれる。彼らのファッションやら生き様やらに憧れているわけではない。ただ、純粋に音が好きなのだ。
 地の底からくぐもったリズムが聴こえきた。ドラムのリハーサルをしているようだが、どうも調子が上がらないようだ。死にかけの人間の、止まりそうで頼りない鼓動に聴こえる。錆びだらけの鉄の扉を開けた。薄暗かった。バーのカウンターを縁取る青いネオンと、ステージライトに照らされたステージが見える。どう頑張っても二十人程度しか入らないホールの床は、割れたビール瓶が落ちていて、ビールで濡れていた。水たまりならぬビールたまりには、ネオンの青い光が反射している。
 鉄也はドラムがいまいち集中出来ていない理由がすぐにわかった。
 ビールたまりのすぐそばには、ベースの奴が倒れていて、神を恐れるような表情で天を見上げている。視線の先には、このライブハウスのオーナーがいて、ベースの奴の頭でも蹴りかねないほどの険しい表情を浮かべている。
 ドラムが鉄也に気づき、目で床を指し示す。止めろという意味だと理解したが、やる気が起きなかった。どうせ恰好だけだ。何度も見た光景で、これ以上悲惨な事にはならない。オーナーの表情は威嚇の表情だ。自制が効いている。ベースの奴は殴られ床に倒され、床の味を味わう。それでこの小悲劇は終わりだ。オーナーが怒りる理由もいつもと同じだろう。
「そんなに叱ってもうまくなりませんよ」
 鉄也はギターを傍らに下ろし、笑いながらベースの奴を見下ろす。やせっぽちで下手だし、虚言癖もある。なんでこんな奴を仲間にしているのか、時々自分でも分からなくなる。暴力を振るわれるのは、下手糞だからではない事はわかっている。鉄也が慣れないジョークを言ったのは、まだ場の緊張を緩和させる必要があると思ったからだ。オーナーは十分自制しているのだろうが、暴発もありうる。オーナーはスキンヘッドで大柄で、なぜかフレデリックペリーのポロシャツが大好きだ。鉄也と同じ年代なのだが、親父をなだめているような気分になる。オーナーは鉄也を見ると、地獄で仏にあったような表情を浮かべた。オーナーはなぜか鉄也が気に入っているが、鉄也にはその理由がわからない。たぶん、相性の問題なのだろう、と鉄也は思っている。
「おお、テツ」
 オーナーは鉄也の肩をポンポンと叩く。自制が効いているという鉄也の予想は当たった。これから人を殴ったり蹴ったりする人間が、こんな簡単に力を抜けるはずがない。
「殴ったら、さらに下手になりますよ」
 鉄也が忠告すると、オーナーは大笑いする。
「そんなことでいまさら怒るかよ。もうとっくに諦めてる」
 そして、控室を指さした。暴力の時間はもう終わり。二人でお喋りの時間、という意味だ。鉄也はドラムの奴に目で合図する。オーナーが背を見せると、ドラムの奴はベースの奴に静かに駆け寄った。鉄也が控室に入ると、オーナーがメーカーズマークを原液で煽る様が見えた。オーナーにとっては嗜好品ではなく、もはや痛み止めなのだろう、と鉄也は思った。
「テツ、あの野郎がまた妹に……」
 予想通りだった。ベースの奴とオーナーの妹、魚子とはお似合いだと、鉄也はひそかに思っていた。二人ともお互い気分屋だった。
 オーナーはそれ以上は何も言わず、琥珀色に染まったグラスを鉄也をすすめる。ストレートだから、アルコール消毒は十分で、間接キスにはならんぞ、とオーナーは笑う。鉄也は煙草に続いて酒まで辞めようと思っていたわけではない。だが、今は呑む気がしなかった。気乗りしない鉄也の表情を見て、オーナーはグラスを自分の側に戻す。
「テツ、お前はどうするんだ?」
「どうするって?」
「これからだ」
 オーナーは酒が入ると、重い話をする傾向がある。ベースの奴と大事な妹がまた付き合い始めたので、ずいぶんと感傷的になっていて、グラスを開ける速度も速い。これは、とことんまで重い話になるな、と鉄也は覚悟を決めた。鉄也は一人暮らしで、九時五時の仕事を持っているが、将来の展望など何もない。それを恥じたこともなければ、悲観したこともない。ただ、このままの生活を続けて、何処に行くのだろうか、と思わないこともない。一瞬だけ浮かべた浮かない表情をオーナーは見逃さず、愉快そうにグラスを開ける。自己顕示欲からだろうか、オーナーは鉄也の漠たる不安を時々、ちくちくと突きたくなるらしい。
「弾き続けるのか?」
 もう売れようなどという気持ちは何処かに消えていた。時々、向上心を失った自分、何者かに成ろうという夢を失った自分に驚かされる。だが、哀しいがそれは事実だった。
「ダメですか?」
 いつもの流れだ。オーナーが問いかけ、鉄也が曖昧な継続の意思を示す。そしてオーナーは安心して表情を崩す。オーナーも鉄也には、いつまでも弾き続けてほしいと思っている。
「どうして弾き続ける?」
 オーナー自身、鉄也の音色が好きだった。
「どうでもいいじゃないですか」
 鉄也は好きなのだ。泣き声のようなギターの音色。演奏中、踏みつけるペダルがある。ワウペダルというペダルだ。スピーカーとギターの間に在り、踏みつけると音色が引き伸ばされ変化する。商品名はクライベイビーという。泣き虫という意味だ。踏まれて泣きわめく泣き虫。あんまりなネーミングだ。好きな音を出したい。シンプルな理由だったが、誰にも言わなかった。ストレートに感情を表現するのは恥ずかしかった。
「将来の事は?」
「親父みたいですね」
 オーナーは鉄也の将来を案じているわけではない。妹の将来を案じている。それというのも、鉄也が一時はオーナーの妹の将来を担う存在だったからだ。鉄也の中ではもう過去の話である。あらゆる男に走り、泣きながら涙とともにその関係を自ら壊す。オーナーの妹とはそんな女だった。彼女の漂うような遍歴自体は嫌いではなかったし、ボーカリストとしても女としても嫌いではない。だが、もう耐えられなかった。オーナーは鉄也の本心を知りつつ、いつかきっと、よりを戻してくれるものと考えているようだ。なぜ自分なのか、と鉄也は思う。なぜ自分ならば、安心とオーナーが考えるのか。ベースの奴や他の奴ではだめで、なぜ自分ならば、妹を導いてくれると考えているのか。その漠然とした期待もまた重荷だった。
「最近はゴスペルやってるんですよね」
 妹の近況に話を向け、自分から注意を反らそうとした。
「よく知ってるな」
 にやけたオーナーの顔を見て、失敗したと鉄也は思った。彼女に対する興味がなければ、そんな事は知らないはずだと思われたらしい。鉄也が自分で調べ上げたわけではない。ベースの奴がペラペラと勝手に語るので、聞きたくなくても耳に入ってしまう。
「いえ、他のやつが話していたのを聞いたもんで」
 鉄也は無関心を示したが、すぐにそれが嘘である事に自ら気付いた。覚えていたという事は印象深かったということだ。無神論者の彼女が、神の福音を精一杯歌う。何とも奇妙な光景だが、彼女には似合っているように思えたのだ。どうでも良い女に対して、そんな事は考えないだろう。
「あいつがかわいいんだよ」
 オーナーはハーパーの瓶をほぼ逆さにしてウィスキーを煽る。瓶の中には酒が半分以上残っていた。さすがの鉄也もこんな飲み方を見るのは初めてだった。
「心配でな……わかるだろ?」
 愛情に比例して心労は増える。彼女のような肉親を持てば特にそうだろう。鉄也にもその気持ちはわからないでもない。鉄也の母親が妹のような女だったので良くわかる。鉄也は途中から、母親への愛情を自ら遮断した。だから、オーナーほど心理的に追いつめられる事はなかった。それが幸せな事なのか、鉄也にはわからない。肉親への愛情に伴う心労。それを癒すために酒浸りになる。その醜態が何故が愛おしくて羨ましくもあるのだ。
「わかりますよ」
 宥めているうちに、オーナーの目には光るものが溢れてきた。安物のライトが涙に反射している。部屋の空気が淀んできた。オーナーの意識が混濁したのを幸いに、鉄也は部屋を出た。ベースの奴は姿を消していたが、ドラムの奴はステージにいた。細い男だった。身長も鉄也と大差はない。全身の骨が砕けるのではないか、というほどの力でドラムを叩いているので、身体中が痛むのではないかと鉄也は心配になる。叩いているうちにドラムの奴は次第に涙すら浮かべるが、それが痛みに起因するものでない事を鉄也は知っている。
 一曲終えると、ドラムの奴は下を向いて激しく息を吐いた。顔を上げ鉄也の存在に気付くと涙を拭う。
「オーナー……どんなです?」
 ドラムの奴は足元にあるペットボトルの水を持ち上げて飲んだ。鉄也は無言で、階段一段分程度の高さしかないステージの端に腰を下ろす。ステージは神聖なもので近づきがたいもの、そう考えていた鉄也にはこの小さな段差が衝撃だった。向こう側の世界とこちら側。音を出す方と音を吸収する方、あの世とこの世ぐらいの差があるのかと思っていたが、そこに全く差はないと思わせてくれた。
「お前は叩き続けるのか?」
「まだ寺を継ぐ気には……」
 寺という言葉を聞いて、鉄也は苦笑した。腰の低さ、礼儀の正しさでつい忘れてしまうが、このドラムの奴はなかなかの変人なのだ。この男にとってドラムは供養だという。前のバンドにいたとき、上手くドラムが叩けず、メンバーにシンバルを投げつけられたという。ドラマーの出自を知るメンバーから、木魚でも叩いていろ、と捨てセリフも浴びせられた。怒りを抑えていると、父親が木魚を叩く姿を思い出した。宗派によってはまさにドラムの乱打にしか思えない激しいものもある。ドラムの奴が小さい頃、何をしているのかわからず、何をしているのか、と聞くと、死んだ人々を供養しているのだ、と父親は説明した。供養の意味は後で知った。死んだ人々を慰める行為だ。それと何かを叩く行為に何の関係があるのか分からなかった。試しに、今日轢き逃げされた人を思い浮かべ、バスドラムを一発叩いた。何も変化はしない。虚しさが、心を穿ち、心臓のあたりに穴が開いた気分になった。それを埋めるため、叩くことを繰り返した。親しい人、赤の他人。誰彼かまわず、いなくなってしまった人を想い、叩いてゆく。穴はどんどん広がっていく。涙が溢れた。胸には大きな穴が開いたが、不思議と安らかな気分になった。気が付くと、魂を抜かれたようにバンドのメンバーが立ち尽くしていた。
「ただ、いつまでも、というわけにもいきません」
「どうしてだ?」
「私の叩いている姿は、あまり良い姿とは……」
 ドラムの奴はそう言って頬を赤らめた。
「そんなことない」
 鉄也はそう言って、床に投げ出されたベースを見た。
「……奴なら、外に出てますよ」
「懲りない奴だ」
「いえ、純粋なんだと思います」
 鉄也が苦笑すると、ドラムの奴はまた頬を赤らめた。
「オーナーの気持ちもわかりますが……」
「相変わらず、いい奴だなお前は」
 鉄也はそう言って立ち上がった。やるせなかった。人間的にも音楽的も大好きだった。だからこそやるせなかった。この男といつまで演奏できるだろうか。激しいドラミングで、身体のあちこちが悲鳴を上げている事が良くわかる。
 鉄也はドアを開け、ライブハウスの階段を昇った。外では顔を腫らしたベースが壁にもたれて煙草を吸っていた。
 午後の六時で、空が高かった。まばらな雲と飛行機雲がピンク色に染まっていた。
 ベースの奴は鉄也に気付くと、自分の吸っていた煙草を差し出した。
「辞めたんだ」
 鉄也が言う。
「知ってるよ」
 ベースの奴が答えた。鉄也は煙草をやめていた。酒はまだ続けているが、オーナーと違い傷への消毒にすらならない。自分が何を使って傷を癒しているのか鉄也は自問した。ギターは少し違う気がする。演奏は好きだが終えた後の虚しさが大きい。特にクライベイビーを使った演奏の後はそうだ。ベースの奴は何故か機嫌がよかった。床に這わされ、床の味を味合わされたというのに。これがきっかけで、ベースが上手くなると思っているのだろうか、と鉄也は思った。
「オーナーがまた泣いてたよ」
 鉄也がそう言うと、ベースの奴は大きく裂けた口を歪ませる。傷口から煙が出て来そうだった。オーナーの涙の意味をベースの奴は知っている。自分を散々殴り蹴り散らした男が泣く。愉快ではあるが、この男はそれだけで笑わない。この男はみだりに笑う事を深く恥じている。ドラムの奴が言う通り、変なところで律義で純粋だった。
「仕方ないんだ」
 ベースの奴は呆れたような表情を浮かべる。それが哀しみ、憂鬱を覆い隠すためのものである事は、この男、オーナー、そしてオーナーの妹の関係を見ているから鉄也には容易に理解できる。複雑で憂鬱な人間関係を味わうには、二人いれば事足りる。三、四人も集まれば収集がつかない混沌が生まれる。鉄也が顔を上げると、遠くからオーナーの妹が歩いてくるところが見えた。鉄也は顔を背ける。見てしまうと、何故かあの女からは目が離せなくなる。あらゆる部分を取り繕っている。その事はわかるのだが、それでも目が離せない。ベースの奴に気づいたらしく、オーナーの妹が駆け寄った。鉄也は意識を二人から別のものに向けた。すると、夕蝉の鳴き声が聴こえ、沸き立つような昼間の熱が足元から感じられた。
「また……兄貴?」
 オーナーの妹が頬の傷に指を伸ばすと、ベースの奴は照れ臭そうに顔を背け、彼女の指から逃れる。彼女は鉄也に対して、責めるような視線を投げかける。その背後でベースの奴はどこか誇らしげだ。
「どうして、兄貴を止めなかったの?」
 体格を考えてからものを言えと言いたかったが、鉄也は言葉を飲み込む。
「怪我したら演奏もできないじゃない」
「まあ、ベースは指で弾くもんだし」
 鉄也は答えた。顔と比べて、ベースの奴の指は、長くて細くて綺麗なままだ。彼を楽器としか見ていないのか、と責めるオーナーの妹に対して鉄也は何も答えなかった。長い沈黙の後、鉄也は妹に問いかけた。
「いつまでこんな事を続ける気だ?」
 男の間を行ったり来たりし続ける妹に対して、兄は何も責めない。男の方に八つ当たりをする。唯一、鉄也だけがその八つ当たりから逃れる事が出来た。
「あんたこそ……」
 鉄也こそが、長い旅の終わりなのだと、オーナーも、オーナーの妹も言いたいのだろう。だが、オーナーの妹と鉄也は決定的に相成れない。悲しいがそれは生理的で宿命的なものだった。どうしても、彼女を心の底から信じぬく事が出来ない。彼女の心の奥に、理解できない部分が存在するのだ。
「早く戻れ」
 鉄也がベースの奴に言う。最初は渋っていたが、オーナーの妹に、行って、と言われて、少し名残惜しそうに、ライブハウスの階段を降りる。
 しばらくは二人だけだった。やがて鉄也は無言で、暗くて狭いライブハウスの階段を降り始めた。何処へ行くの、とオーナーの妹が背後から声を投げかける。
「リハだよ」
 とだけ鉄也は答えた。
「いつまでここで演奏するの」
「他に演奏するところもないしな」
 ボーカリストである彼女が抜けてからというもの、鉄也のバンドは歌のないインストゥルメンタルバンドだ。そんなバンドを雇ってくるところは、鉄也の知る限りあまりない。
「ちょっと本音言っていい?」
 彼女が言うので、鉄也が振り返った。
「言えよ」
「やっぱり、恥ずかしい」
「そんな女かよ」
 鉄也がからかった。
「あんただけなんだよ」
 オーナーの妹が言った。さっきまで明るい声をしていたのに、いまは泣き声だった。この言葉は、もう何度も聞いた。そのたびに鉄也は信じそうになる。本人も信じているだろう。彼女の声は、ザラザラした壁に反響して、鉄也の皮膚に直接響く。鉄也は無視をして、地の底に降りる。わからなかった。みんな、なぜこうも泣き虫なのか。
 
 一時間後、ライブは予定通り行われた。客はまばらで八人程度だった。
 奥の壁にはオーナーの妹が寄りかかっている。オーナーは不機嫌そうに、階段付近の椅子に座っている。きっと、妹がオーナーに話したのだろう。鉄也は自分の処に戻らないと。ベースの奴の頬には絆創膏が貼られている。ドラムの奴は少し機嫌が良い。ライブ直前からそうだった。オーナーの妹が来ているからなのかと、鉄也が問いただしても、うつむくだけだった。ドラムの奴とオーナーの妹は話が合う。今はいい友達のようだ。このままでいてほしいと、鉄也は思う。鉄也はなぜみんな仲良くなれないのか、わからなかった。蒸し暑い熱気が、外から入り込んで来た。鉄也はただ憂鬱になる。どろりとした空気が息苦しい。しかし、これを吸わなければ生きていけない。
 憂鬱である事は悪いことではない、と思える瞬間がある。今この瞬間、ワウペダルを踏みつけて、ギターの音を泣き声のように歪ませている瞬間だった。憂鬱な気分でなければ、ここまで音を歪ませる意味はない。
 客のほとんどは、ぼんやりとただ突っ立っているだけだ。身体を揺らしている客も何人かいたが、基本的にはただそこにいる。聴いているのか聴いていないのかわからない。珍しいことに馴染みの客は一人もいない。
 こいつらは最近、泣いた事があるのだろうか? と鉄也はふと思う。
 鉄也は、まばらな観客に言ってやりたかった。俺たちはみんな泣き虫だ、と。

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