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プラージュ

 煙を吸い込むと、息が出来なくなった。粘膜に、棘を孕んだ化学物質が浸透してくる。ローランは、道路に転がりながら、必死に瞼を上げる。目を開くと、煙にさえぎられたパリの青空が見える。閉じると、瞼の裏にオレンジ色の模様が見える。大勢の足音と何かがぶつかる音が、敷石を伝って、直接ローランの鼓膜に届いた。
 ジャンが腕をつかみ、ローランを引きずった。
「涙が止まらないぞ」
 と、焼けた喉からローランは声を絞り出す。
「当然だ」
 と、ジャンが言った。
「催涙ガスだ」
 ゆっくりと呼吸を整えると、次第に目を長く開くことが出来た。
 ローランは立ち上がり、周囲を見回す。風景はぼんやりと輝いていて、物音は何も聞こえなかった。放水が煙を切り裂く様と、警官隊と学生が衝突している場面が見えた。誰かが血を流していて、音もなくバリケードが崩れる。
「……があれば」
 ジャンが言った。
「何だって?」
 ローランが聞き返す。頭から血を流した学生が、誰かに担がれている。その動きはやたらとゆっくりに見える。ローランの中に恐怖は無かった。額に手をやると、掌が赤に染まる。そこで初めて自らも頭を割られている事に気付き、なぜか、微笑みがこぼれた。
「何て言った?」
 ローランが振り返ると、ジャンは空を見上げていた。ジャンの目にも催涙ガスが入ったらしく、しきりに目を擦っている。
「ここは何処だ?」
 ジャンが呟く。少し錯乱しているようだ。
「プラージュ(砂浜)だよ」
 誰かが壁に落書きした。敷石の下は砂浜だと。
 剥がされた敷石の跡を見ていると、本当にそう思えてくる。
 石畳には四角く区切られた穴がいくつも見え、砂浜が至る処から顔を出している。巨大なゼリーのような敷石は、警官に投げつけられたり、バリケードに使われたりしているので、元の位置に戻ってくることはない。
「砂浜?」
「……の上にあるパリだ」
 一九六八年の五月から始まった革命は、パリを砂浜にする勢いだった。
 ローランが頬を叩くと、ジャンの目に正気が宿り、周囲を見回した。ローランの顔、そして流れる血を見て、貝のように身を竦ませた。
 警官隊が学生達に迫る。粘膜をひりひりさせながら、ローランはジャンを狭い路地に連れ込んだ。
 見上げると、建物に切り取られた横長の青空が見えた。
 中年の女性が建物の窓から顔を出し、煙草を吸いながら、路地を見下ろしている。目が合うと、ローランは苦笑いの表情を作る。女性は顔をひきつらせ、煙を吐き出した。そして、それが空に昇るのを見届けると、そのまま部屋に引っ込んだ。
 ローランは薄暗い路地から表通りに目を向ける。
 陽光が、壁面に三角形の明暗を作り出し、石畳を輝かせている。目を押さえた学生が、石畳の上でのたうち回っている姿が見える。表通りの風景は縦に細長く、学生たちの転がる姿は、ローランたちの視界からすぐに消えた。
「噂では、レモンがいいらしい」
 ジャンは、壁にもたれかかりながら、力なくつぶやいた。
「レモン?」 
「レモンの成分が、催涙ガスを中和させる」
「絞って入れるのか?」
 ローランは、怖気を感じた。想像するだけで目が染みた。
「果物屋に協力してもらうか?」
「みんな閉まってるよ」
 果物屋は、何かを投げたくて仕方がない学生にとっては格好の標的だった。
「郊外にレモン畑があるんだ」
「レモン畑?」
「以前、前を通ったんだ。車も滅多に通らない田園地帯にある」
「平和か?」
 怒声や物音が表通りから漏れ聴こえてくる。耳を澄ましながら、ローランは呟いた。
「いいところだよ」
「俺なら一週間で気が変になりそうだな」
「ノエラと遊びに行こうかと思っていたんだ。住所も控えてある」
 
 ジャンとローランは、ストライキ中の工場に行き、知り合いの労働者から軽トラックを借りようとした。
 学生と労働者は共闘関係にあると、ジャンは考えていたが、むしろ、厄介者を見るような目で見られた。
「学生たちが来るのか?」
 知り合いの労働者は、鉄柵をしっかりと握りながら、二人の背後を注意深く伺っている。誰もいない事を確認すると、改めて二人の様子を伺った。
「けが人が出た。病院には行かず、家に帰りたいと言っている」
 ローランはわざとらしく、ぐったりとジャンに寄り掛かった。
「あれを使え」
 同情よりも、悍ましさを滲ませながら、労働者は工場の端にある青い軽トラックを指さした。
「感謝する」
 ジャンは一礼した。
「ただし、壊すなよ。全てが終わったら、また使わなきゃならない」
 ジャンは目を見開いた。
「貸してやる代わりに、学生たちの動きを知らせてくれ。やつらが工場に来るときは、前もって教えてくれ」
「なぜです?」
 ジャンが聞くと、労働者は醒めた表情を浮かべた。
「壊されちゃたまらん。おれたちは、また働かなくちゃならないからな」
「壊す? あなた方の工場を? なぜそんな事をすると思うんです?」
 ジャンが労働者に迫る。怪我人とは思えない俊敏さで、ローランがジャンの肩を掴む。ジャンは無表情で振り返った。労働者は少し身を引いて、言葉を続ける。
「……とにかく、大事に使え」
 ローランの頭の中に、真っ白い砂浜が浮かんだ。ローランは、そこにおろおろと動き回る労働者を配置してみた。
「いい匂いをつけて返すよ」
 ローランは口元に笑みを浮かべながら呟いた。

 二人は、パリから出る途中、知り合いのノエラという女性に出くわした。
 小柄で目の大きな女性だった。その目で見られると、ローランはいつも背筋がぞわりとした。そして、広い場所に出た時のような解放感を感じた。
「二人でバカンス?」とノエラが笑いながら訊ねる。
 ノエラの細長い姿が、青い車体に歪んで映る。どこかで何かが割れる音がした。三人とも、その方向に顔を向けた。
「聞いたかい? 暴力革命の足音を」
 ローランがわざとらしく眉間に皺を寄せると、ノエラが笑いを堪えて下を向く。
「俺は平和主義者だからな。こんなところ出ていくよ」
 ローランが笑いながら言うと、「明日には戻る」とジャンが短く割り込んだ。
「傘もった? どこに行くか知らないけど」
 ノエラは空を見上げて、手を空に向ける。ローランも身を乗り出して空を見上げる。いつのまにか、雨雲が空を覆っている。
 ノエラはいつも、投げた石を警官隊に当てた事があるか、物を壊すときはどういう気分か、そういった事を微細に知りたがった。
 ローランの方も、目を輝かせ、何かを投げるとき、何かを壊す時のあの清々しい気分を話す。その清々しさは、広い砂浜や広い海を見た時と同様の気分なのだと、語った。
 その語りを聞くと、ノエラは決まって、詩人みたい、と呆れたように笑う。

 ノエラと別れると、ジャンとローランはパリを出た。
 雨雲は、小さな帽子のようにパリの上空だけを覆っており、郊外は別世界のように快晴だった。
 しばらく走ると、のどかな田園風景が現れた。確かに、ジャンの言った通り、とても良い風景だった。ただ、ノエラはあまり気に入らないだろうな、と思い、ローランは口元を歪めた。
 柔らかな風を受け、ローランの傷は、ひりひりと痛んだ。ハンドルを握るジャンは、無表情で、前方を見つめている。
 二人とも、パリ大学の学生だった。
 デモには、ジャンの方から誘った。
 自由、平等、解放、などの言葉をジャンが語り、ローランの闘争心を掻き立てようとした。当初、ローランはあまり乗り気ではなかった。自由や解放には興味が無かったが、軽い気持ちから参加してみると、一気に引き込まれた。敷石を剥がし、ひたすら警官隊に投げつけた。
 一方のジャンは、騒乱を前に、全く動くことができなかった。体が竦み、ローランの背に隠れながら、衝突と破壊を眺めた。不自然なまでに勇ましさを増してゆく一連のスローガンは、ジャンの耳には空しく響いた。
「なあ」
 声をかけたが、ジャンは何も答えない。
「レモンは余るかな?」
「さあな」
「もし余ったら、レモネードにしよう」
 ローランはパリを砂浜にした後、ビーチパラソルの下で、それを飲む様を想像した。ノエラもきっと気に入るだろう。そうジャンに伝えようとしたが、彼の無表情に気づき、言葉を止めた。
「お前が羨ましい」
 ジャンは無表情のまま呟いた。
「仕方がない」
 ぼんやりと、外の景色を眺めながら、ローランも呟く。
「人間には、向き不向きがある」
 突然、車が止まった。
「どうしたんだ?」
 ローランがジャンを見る。眼が、かさかさに乾いていた。
「戻るよ」
「レモンはどうするんだよ?」
「ここをまっすぐ行けばいい。お前ひとりで何とか持って帰ってきてくれ」
「どうやって戻るんだよ?」
 見渡す限りに草原と空が広がり、その境目は丘の曲線でようやく確認できる。
「時々、車が通る。ヒッチハイクでも何でもして戻ってこれる」
 ローランは乾いた笑いを浮かべながら、ジャンの横顔を見た。
「何か、気に障ることを言ったか?」
「知ってるか? 俺の親父は、戦争中にドイツに協力したんだ」
「別に珍しい事じゃない。ドゴールはフランス人がみんなレジスタンスだったなんて言ってるけど……」
「俺は、親父とは違う」
 ローランは話を聞きながら、空に目をやる。白い雲が音もなく流れている。
「そんなに急がなくてもいいだろ?」
「気が変わるかも知れない」
 ジャンは、ローランの乾いた血を見ている。
「変な奴だな」
 ローランは大きく伸びをする。
「分かったよ、で、レモン畑の人はただでレモンをくれるのか?」
「二度レモン畑の横を通ったが、隣接する家に人影は無かった。昼間はたぶん誰もいない」
「おいおい。盗めって言うのか?」
「仕方がない革命のためだ。後できっちりともらった分は償う」
 ジャンは断定的な口調でローランに言った。
「分かったよ。お前も無理はするなよ」
「分かってる……」
 ローランの言葉に対して、ジャンは不敵な笑みを浮かべた。ローランもつられて、笑みを浮かべる。
「できるだけ砂浜を広げておいてくれ」
「分かっている」
 ローランが車を降りると、ジャンは親指を立てる。
「余ったらレモネードだ! それでもって、ビーチパラソル立てて……」
 ローランはジャンに向かって叫ぶ。ジャンは、ローランに目を向けず、そのまま走り去る。ジャンの車が見えなくなると、ローランは表情を消し、地面を蹴る。
 砂埃が舞い、砂が澄んだ空気の中に溶けた。
 消えた埃の向こう側に、レモン畑と家が見える。
 質素な石造りの家だった。白い壁と赤茶けた屋根には、レモンの木が作り出す斑の影が写っている。
 風が吹くと、草原が海面のように揺れ、さざ波のような音を熾し、斑も小さく揺れた。風がやむと、解けるように音も消え、斑も動きを止める。断続的な鳥の鳴き声が、沈黙の隙間を埋めた。
 ローランは身を屈め、ゆっくりとレモン畑に近づいてゆく。近づくにつれ、家に人影が無い事がわかってきた。
 レモン畑には、籠がある。ローランはそれに近づき、手に取った。「『隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分食べてよいが、籠に入れてはならない』か」
 ローランはそう呟いて笑った。
 その瞬間、突然、頭が痛み始めた。傷口から血が噴き出すことは無かったが、視界が歪み、聴覚が乱れた。おかしいな、と思って顔を上げると、家の玄関に、四十歳ぐらいの女性が見えた。幻覚だ、とローランは思った。
「なにやってるの?」女性は言った。
「さっそく罰があたったかな……」
 そう言うのが精いっぱいだった。それだけ言うと、ローランは意識を失った。
 
 目を醒ますと、ローランはベッドで眠っている事に気付いた。窓の外を見ると、どこかで見た風景が広がっていた。レモン畑が見え、その向こうには緩やかなフェンスで区切られた一面の草原がある。ここは、あの女性の家らしかった。ローランは部屋を見回した。倒れる前と、ほぼ同じ時刻だろうが、カレンダーも時計もないので、分からなかった。
 何かの物音がした。ローランは顔をその方向に向けた。先ほどの女性が、レモネードを持って部屋に入ってくるのが見えた。
「ありがとう」
 ローランは礼を言った。女性は無表情で頷く。
「さっきは悪かったよ」
 ローランは正直に謝った。あの現場を見られているのだから、言い逃れは出来ない。女性は咎める様子は一切見せず、ベッドの傍らにある椅子に座り、無表情で頷いた。彼女の身体は痩せて弱々しいが、目は大きくて、人の表情をまっすぐ見る。
「説明させてくれ、あれは」
 ローランはそう言ったが、女性は同じように、無表情で頷くだけだった。ローランの怪訝な表情に気づき、女性はそっと自分の手を耳元に持って行き、素早く耳を二回叩く。
「耳が聞こえないのかい?」
 だが、不思議だった。ローランは確かに聴いていた。意識を失う前、彼女が言葉を発しているのを確かに聴いたのだ。
「でも、さっき……」
 ローランは反論しようとしたが、女性の無表情を見て諦めた。
「紙とペンはある?」
 ローランは文字を書く動作をしながら、部屋の中を見回した。カレンダーや時計と同様に、紙とペンも無い。ここには、椅子や机やベッドなど、必要最小限のものしかなかった。今が何月何日なのかローランは知ろうとした。身振り手振りで、伝えようとするが、彼女は窓の外の空を指さすだけだった。ローランは途方に暮れたが、上手くごまかせるかもしれないという考えも浮かんだ。
 ローランは、自分がなぜ怪我をしているのか、身振り手振りで説明した。道を歩く動作、そして、棒を持った人間の動作、それに殴られる動作。そして、果実を求める動作。すると、女性は頷き。身振り手振りで、ローランに理解した、と伝えた。ローランは窓の外のレモンの木を指さし、ゆっくりとした手の動きで、その曲線を表現した。見事に、実っている。そう伝えたかった。 
 女性は無表情で、レモンの木を見ると、好きなだけ持ってっていい、と動作で示した。ローランは、動作で礼を伝えたが、女性は無表情で立ち上がり、部屋から出ていった。女性がいなくなると、ローランはベッドに倒れこんだ。上手くいった。何も問題ない。レモンを収穫し、あとは、車が通るのを待てばよい、とローランはほくそ笑む。
 
 翌日、目を覚ますと、ローランの頭はすっきりとしていた。痛みは無く、窓の外の風景を、心地よいものとして感じる事が出来た。
 ベッドから起き上がり、庭先に出ると、籠いっぱいにレモンが満ちていた。気配を感じて振り返ると、女性が玄関前の椅子に座って、草原を眺めていた。
 あんたがやってくれたの? ローランが身振り手振りで伝えると、女性は、そうだ、と返した。
 車は、一日に何回通る? ローランが身振り手振りで伝えると、女性は、ただ首をかしげただけだった。
 車が来たら、それに乗って帰るよ。ローランがそう伝えると、女性は頷いた。
 風が吹いて、草原が揺れた。
 
 次の日も、その次の日も、車は一台も通らず、迎えの車も来なかった。
 ローランの頭は時々痛んだ。そのたびに、女性はレモネードを持ってきた。不思議だった。頭痛を感じると、レモネードが目の前に出てくる。
 心でも読めるのか? とローランは女性に伝える。
 女性は、偶然だ、と無表情で返した。
 三日も経っている。身振り手振りによるやり取りは慣れたものになっており、ローランの中では、彼女と言葉を交わしているのと何ら変わらなくなっていた。 
 帰ったら、何をする? と女性が伝えてきた。
 砂浜を作る。とローランが返した。女性が首を傾げる。
 楽しいよ。パリや世界を砂浜に……。まるで子供だ、と自嘲し、ローランは伝えることを止めた。
 何を言っているのか、わからないよね? ローランは女性にそう伝えた。
 わからないね。というように女性は首を振った。
 
 翌日も車は通らず、迎えの車も来なかった。ローランがぼんやりと地平線を眺めていると、そこから雨雲が湧き上がるのが見えた。布に染みが広がるように、草原が陰ってゆく。
 雨が来くるよ。雨が。ローランは女性に伝えた。
 パリに帰らなくていいの? と女性が伝えてきた。女性は煙草を吸っていた。ローランは、それを初めて見た。
 車が来ないからな。とローランが笑いながら返した。
 ここはいいところだ。静かで。ローランがそう伝えた。伝え終えると、はっとなって、女性の顔を見た。
 弱くなった。とローランは思った。自分の内にある荒々しいものが、失せつつある。そう思った。
 もし、戻っても、慣れるまで時間がかかるな。とローランが力なく伝えた。女性はローランの肩に手を置いた。ローランが女性を見ると、明後日の方向を見て、肩を優しく叩いて手を放す。
 実は、パリにいたことがある。と女性が伝えてきた。
 いま戻ったら驚くよ。とローランが伝えた。
 パリには、いい思い出がない。と女性が伝えてきた。
 終戦直後、パリにいて、髪を刈られた。恋人がドイツ人将校だったから。女性は空を見ながらそう伝えてきた。
 その人は、私が喋れない事を知って、手話を覚えた。女性の伝え方が、ぎこちなくなったので、ローランは集中しなければならなかった。
 恨んでるのか? パリの奴らを。ローランが顔を顰めた。その写真は見たことがある。全てを削ぎ落とされた女性たちは涙を流していた。その後ろでは、愛国者たちが笑顔を浮かべている。自分がその場にいても、何もできなかっただろう、とローランは思った。
 ローランの質問に、女性は何も答えなかった。そして、しゃべりすぎた、というように、煙草を捨て、家の中に入っていく。
 ローランは空に目を向けた。雨雲が広がっている。地平線には、細くて小さい雷が見えた。
「土砂降りだな」ローランはちいさく言葉を発した。
 
 それから、どれくらい時間が経ったかわからない。
 ある日のこと、ローランが目を覚ますと、女性が手紙を持って部屋に入ってきた。
 郵便受けがあったのか? ローランはそう伝えたが、女性は何も答えなかった。ローランは手紙を少し乱暴に受け取ると、封を開けた。
「ノエラからだ」
 ローランは女性の顔を見て叫んだ。女性はぎこちなく微笑みながら頷いた。
『ジャンから住所を聞きました。そこに向けて、この手紙を送ります。あなたがまだそこにいれば、この手紙を読むでしょう。
 あなたがいない間に、パリは静かになりました。ドゴール大統領が議会を解散して総選挙を行い、圧勝しました。
 いまでは、バリケードが撤去され、敷石は元通りになり、催涙ガスの匂いもしなくなりました。
 ですが、全てがいままでどおりという訳ではありません。
 たとえば、ジャンの事です。あなた方がパリから出た翌日、ジャンが一人で帰ってきました。ローランは、と聞くと……』

 ローランは、呼吸を止め、顔を上げた。女性は手紙に目をやらず、ローランの表情だけを見ていた。ローランは、それからまた手紙に視線を落とした。

『ローランは、と聞くと、しばらく戻ってこない、その間、自分が働くと、ジャンは答えました。戻ってきてからのジャンは明らかに、以前とは違っていました。
 あなたのように、自分から警官隊に突っ込んでいくようになりました。
 あなたもきっと驚いたでしょう。ジャンは敷石を剥がすと、力強くそれを投げ、警官に命中させました。ヘルメットの割れる音が、周囲に響き渡りました。ジャンはその後、警官隊に突っ込んでゆき、ひとりひとり、警官を殴り倒して行きました。細くて小柄なジャンが闘う姿は、私の中の何かを刺激し、あなたが言うような広い場所に出た時のような解放感を感じさせました。
 ですが、しばらくすると、私は不安になりました。ジャンが、どこか、無理をしていると思えました。
 それに、何だか怖くなりました。そんな私の表情を見て、ジャンは戸惑っているようでした。
 結局、予感は当たってしまいました。
 ある日の事。いつものように、ジャンは敷石を剥がすと、力強くそれを投げ、警官に命中させました。そして、警官隊めがけて突っ込んで行きました。傍らには、二、三人の大柄な男がいました。妙な光景でした。まるで、ジャンは大人に混じった子供のようでした。ジャンの後方から敷石が飛んできました。避けろ、という声が聞こえました。他のみんなは身を屈めましたが、ジャンだけは身を屈めませんでした。敷石はジャンの背中に当たり、妙な音がしました。ジャンは空を見上げると、そのままその場に倒れました。倒れ方が滑稽だったので、一瞬の沈黙の後、周囲からは笑い声が上がりました。警官隊も、学生も、みんな笑っていました。何だか不思議な光景でした。私も思わず、笑ってしまいました。ジャンは全く動かず、空だけを見ていました。すぐに事態の深刻さに気付き、学生も警官隊も笑いを止め、ジャンの元に駆け寄りました。
 ジャンは今でも病院にいます。もう、以前と同じように動けないでしょう。
 ジャンに、ローランは何処? ともう一度聞くと、住所を書いた紙を渡してくれました。もう好きにしてほしい、とジャンは言いました。どういう事なのかと聞いても、ジャンは何も答えてくれません。     
 砂浜、とジャンはよくつぶやきます。私には何の事だか良くわかりません。
 私たちはまだパリにいます。あなたの助けが必要です。
 返事を下さい』
 
 読み終えると、ローランは手紙を置いた。女性は何も言わずに、ローランの表情をうかがっている。
 終わったようだ。とローランは女性に伝えて、ゆっくりと立ち上がった。上目づかいで、女性はローランを仰ぎ見る。
 ローランは家の外に出た。
 ドアの傍らに、レモンが入った籠が見えた。強い陽光とレモンの木が作り出す影が、そこに鮮やかな色と、沈んだ部分を映し出す。ローランは、そこからレモンを一つ掴み出すと、大きく空に向かって投げた。しばらくすると、レモンは落下して土の道路にぶつかり、音もなく中身が飛び出した。
 レモンの中身は強い陽光を浴びて、眩しく輝いている。
 振り返ると、女性が窓から身を乗り出し、ローランの方を見ていた。
 ごめん、思わず。ローランは女性にそう伝えた。女性は煙草の煙を吐き出すと、無言で部屋の中に引っ込んだ。
 ローランは広い砂浜を想像しようとしたが、頭には何も浮かばなくなっていた。
 その日は、じっと、家の前の椅子に座り、夕暮れまでそこにいた。
 風が吹いて、草原が揺れた。
 ピンク色の雲が、ゆっくりと空を渡ってゆく。土の道路に砕けたレモンの影が長く伸びている。
 空に藍色が射すころ、ローランは広い砂浜を想像する事を止め、ここを出ることを考えた。
 息が苦しくなった。催涙ガスの記憶が蘇ってくる。

 その夜、ローランは夢を見た。
 砂浜の上にベッドがある。ローランはそこに寝転がりながら、海に目を向けている。
 昼なのだが、海の上には岩の塊のような雲があり、夜明けのように薄暗い。
 誰かが砂浜の上を歩いている。
 一人はアコーディオンを演奏している。もう一人は火吹き芸人で、火を噴くたびに、波打ち際に火が映る。少し離れたところで、誰かがパントマイムをしている。
 それを眺めていると、ローランは心が落ち着いたが、時々、不安にもなった。誰かに声をかけられたが、いま疲れをとっていると、ローランは呟いた。ベッドに仰向けになり、空を見上げると、曇った空が見えた。傍らにはレモネードがある。
 
 翌日、目を覚ますと、もう昼だった。窓の外を見ると、草原の揺らめきが、徐々に近づいてくるところが見えた。しばらくすると、柔らかい風が、部屋の中に吹き込んだ。
 女性は、家の前の椅子に座り、草原を眺めていた。
 帰るのね? 女性がローランに伝えてきた。そしてレモネードをローランに差し出す。
 やっぱり心が読めるのか? ローランは笑いながら、女性に伝えた。
 どうして帰る気になった? 女性がローランに伝えた。
 昨日、変な夢を見たよ。ここにいても気は休まらない。ローランは女性に伝えた。
 それに。
 それに?
 俺がいなきゃダメだなんだよ、あいつら。ローランは照れながらそう伝えた。
 砂浜は? 女性が伝えてきた。
 もうだめだろうね。きっと政府のやつらがコンクリートで固める。ローランは少し俯いて、女性に伝えた。
 でも、もういいんだよ。ローランはそう伝えた。
 女性は、頷いて、裏庭に引っ込んだ。そして、自転車を引っ張ってきた。
 貸してくれるのか?
 レモンと同じ、返さなくてもいいよ。
 ローランは自転車の籠に、積めるだけのレモンを積み始めた。
 少しでも軽くしたほうがいいと思うけど。女性はローランに向かって伝えた。
 少しでも多く持って帰りたい。ローランはそう伝えた。
 ローランが自転車を漕ぎ出した。レモンの重みで、ぐらりとバランスが崩れたが、すぐに持ち直し、まっすぐ進み始めた。
 その時、地平線に、車が一台見えた。砂埃と陽光で車体が霞んでいる。まだ、豆粒ぐらいの大きさなのに、ローランはあわてて自転車を止め、親指を上げる。そして、女性に向かって、手を振る。女性も小さく手を振る。
 車は減速せず、そのまま、土ぼこりを巻き上げながら、ローランの目の前を通り過ぎた。ローランは親指を上げたまま、その行方を目で追った。
 女性は笑いながら、それを見ていた。
 照れ笑いを浮かべた後、ローランは自転車を漕ぎ始めた。

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