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本について

2,3歳の頃には本の虫だった。らしい。育児日記に書いてあった。

家は貧しく、ご近所の方々から子供向けの百科事典や児童書をたくさん頂いていたので、それらを片っ端から読んでいたのだ。
ただそれは好きで読んでいたというよりも、おもちゃが碌になかったからだ。遊びの一つだった。

小学校に上がり「図書館」を知った。

公民館の薄暗く広いホールの奥に図書館はあった。
透明なビニル袋にくまのイラストが入った市立図書館バッグを持って児童向けのちいさな部屋ですごす。
入学時、身長111センチ。
受付カウンターより小さかった私は、本が好きな親に連れられてくる子、だった。

小学2年生の夏頃、私は右腕を脱臼した。
腕を吊り、母と図書館に行った。
遊ぶこともできないから本を借りたい。母は荷物持ちだ。
「あら、あなたも怪我してるの?」
カウンターで声をかけられた。
見上げると「図書館のおねえさん」がカウンター越しに微笑んでいる。
その右手は包帯でぐるぐる巻きだった。
「うふふ、おそろい」
おねえさんは白い包帯の手をひらひらと振って笑った。
「骨折したの?」
「わたしは、だっきゅう」
「そうなのね、おねえさんは骨折なの」
こっせつ。小学2年生にとって骨折とは最大級の怪我である。
「だだだだいじょうぶなの、いたくないの」
「大丈夫よ、もう治るの。めぐみちゃんもはやく治るといいね」
側で母が私に微笑みながら言った。よかったね、たかはしさんと、おそろいだって。
お姉さんの名前は、たかはしさん。
おそろいだ、って、何が良かったのだろう。

私はたかはしさんに会いに図書館へ通った。
小学校高学年になるとあまり行かなくなったが、中学に上がるとまた通い出した。学校からは反対方向に40分歩いて、会いに行った。

年に数回しか行かなくなっても、制服のまま毎日のように行くようになっても、めぐみちゃん、とニコニコ出迎えてくれるのがたかはしさんだった。

薄暗い公民館の奥にある図書館は、やがてガラス張りできらきらしたとても立派な5階建ての図書館になった。
いままでどこにあったのだろう?という夥しい数の本が並ぶ書架の、どこに何があるか、読んだことのない本まで覚えてしまうほど、通った。覚えすぎて、学校の先生から場所を訊かれるほどだった。

たかはしさんは、途中でたかはしさんじゃなくなった。
結婚したのだ。それでもわたしはたかはしさんと呼んだ。
毎日のように通った。私より来てるねとたかはしさんは笑った。

子供のころの私は、友達はいても心底は仲良くなれず、時間と自分の周りの空気を埋めるように本を読んでいた。新聞の広告を切り抜いては図書館にリクエストをし、授業中に本を読んでは先生を困らせ、あれだけ読書を推した親からは読書禁止を言い渡されるほど、何でも読んだ。

ただ、本が好きなのかと聞かれるたびに違和感があった。
本を読むしかなかったようにも思えた。

児童書架から一般書架へ、ミステリから幻想文学へ、犯罪実録から妖精画集へ、水彩画の描き方から記号学へ、話題のJ文学から文学全集へ。
何を借りてもたかはしさんはニコニコ笑ってくれた。新しい図書館のカウンターは低くて、私のほうが見下ろすようになっていた。

たかはしさんは笑うとニコちゃんマークみたいに糸目になる。丸顔で、垂れ目で、やさしい声。
そんなたかはしさんは児童書フロア担当になり、やがて市の別の部署に異動になった。図書館のひとじゃなくて、ただ、市の公務員だったのだ。

「杳さん、いま一番よ」
ある日、図書館カウンターのお姉さんが言った。
バーコード管理となった図書館では、今まで借りた冊数や履歴が全部わかるのをその時知った。
「市内で一番本を借りている人よ」
この町には優良読者賞といって、市内でよく本を借りた人を表彰する制度がある。
この調子なら杳さんかな?と言われ、子供心に胸が躍った。
そうして年度末に私は表彰され、受賞者代表として賞状を貰い、新聞社からインタビューを受け、翌朝の新聞に載った。中学3年のときだった。もう誰も、本を読む私を怒らなかったし、何を借りても笑ってくれる人もいなかった。

高校は、図書館の近くだった。
部活を終え、図書館に行き、仕事帰りの母を待つ。
やがて、学校に行く前に、図書館へ行くようになった。しかし顔見知りばかりで気まずくなり、学校の図書室へ登校するようになった。ポケットには常に判子を押した退学届けが入っていた。
その頃出会った子たちは図書室の住人だった。
全員がK談社ノベルスを読んでいたし、司書は高村薫が好きだった。
私は初めて、同じ本を好きな人と心ゆくまで語り合った。それが私の時間と空気を埋めてくれた。
図書室と図書館を往復し、なんとか高校を通い終え、私は大学の文学部に進学した。誰もが納得の進路だった。

その後、紆余曲折あり、大学は辞め、鬱になった。
そうして、本が読めなくなった。
何度も同じ行を繰り返して読む。戻る。目が滑り、理解ができない。ページが進まない。
けれど、趣味の小説執筆はなんとかできた。投稿もしたし、小さな賞をぽつぽつ貰った。それでもどんどん本が読めなくなっていった。次第に書くこともできなくなっていった。読めなければ書けない。
私は、時間と己の周囲の空気を埋めるために、なんにでも手を出して多趣味になった。
それでも、本を買うことは辞めなかった。いつか、いつか読める日がくる。だから読めなくても本は捨てない。積読、良い言葉だ。
そうして最近まで、生きてきた。

たまたまだ。
たまたま、小説家と友達になった。せっかくだから、読んでみた。すごく時間がかかったけれど、読めた。久々に、一冊読めた。連続して何冊か読めた。すごく楽しかった。
本って面白いな。読書、楽しいな。
昔より読めなくなったけれど、時間がかかるけれど、もしかして私は本が好きだったのかな、読書が好きだったのかな。ちゃんと好きだったのかもしれないな。でももしかしたら好きじゃなかったのかもしれないな。

きっと最初は寂しさを、やがて知識欲となんらかの自己顕示欲、そしてなんらかの口実として、本を置き、本を頼って、本でつないで、子供の私は生きていたのだろう。しかしもう、それらの理由などどうでもよい。
たかはしさんに会いたくて、目にした本が読みたくて、本を読んでいる間はなにもかも忘れられて、それだけでよかったし、これからもそれだけで良いのだ。

よかったね、おそろいで。たかはしさんは、本が好き。

「本について 2021-04-29」

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