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【掌編小説】彼岸前に

 土岐の死体が上がったというので見に行った。
 訊けば、彼の自宅近くの川を二、三十分程下った先で浮かんでいたという。
 古典的かつ入門的、回り回って基本に立ち返った、というところだろうか。さて本人に聞いてみないとその辺りは推測の域を出ない。
 幸い、発見場所は里見の家からも徒歩二十分程であったので、丁度良い、散歩がてら、と襟巻き一つでぶらぶらと向かった。確かに、死にたくもなるような冬と春の間だ。沿道の桜の枝も随分と赤いのに、風は冷めた人肌の寂しさがある。

 やがて小さな人だかりが見えた。
 随分と長閑な川だ。近年流行りの護岸工事など、される気配は微塵もない。砂の多い川原から土手にかけてを埋め尽くすように草木が繁り、虫や野鳥、時には狸も顔を見せる、住民たちの憩いの場である。しかし年に数回、土岐のような者がこの辺りに浮かぶ川でもあった。

 土岐の家より上流に急流地点がある。川底からいくつもの大岩が突き出し、碧く深く渦巻く様子が風情だ。そして真上には歩行者用の心許無い吊橋が掛かっている。渡ればぎしぎしと軋む音が空に響く。下を覗き込めば、冷ややかな気流にまみえ、吸い込まれるような錯覚に襲われた。お誂え向きとはこのことである。
 そして下り、この付近で漸く緩やかになる。過ごしやすい遠浅になり、簡単に言えば、引っかかりやすい。

 土岐は土手の蒲公英畑の中に放り出されていた。使い古された敷布が雑に掛けられている。
「やあ」
 里見がぶらぶらと近付くと、つまらなそうな顔をした野次馬たちがつまらなそうに去っていく。やがて土岐と里見だけが蒲公英畑に残された。
 敷布を捲ると見慣れた男の死に顔がある。昨晩、里見が呑みの誘いを断った相手の顔である。こんなことならば無理を押してでも断らなければ善かった、と思えば良いのだろうが、仏の顔も三度までだ。

 川底で何度も転がされ撲たれたのだろう、肌も服も傷に塗れて少し膨れている。左足の靴はなかった。そんな死体が蒲公英の中にあった。ここは随分と可愛らしい三途の川だな。里見は眉間の皺をより深め、靴先で土岐の濡れた脇腹を突く。
「やあやあ、やめてくれよ」
 一応、死体なんだから。
 一般的に思いつく限りの死に方を見たように思う。今回は、里見が聞いたこともないような毒草を、旅行がてら採りに行きその場で煎じ服毒するつもりだったが、簡素で平易な表現にこそ真実が見えるものだと詩人仲間が酒席で語るのを聞き「回り回って基本に立ち返った」。やはり呑みの誘いには乗るべきだった。里見は顔中を顰め、毟った蒲公英を土岐の口に詰めこむ。
「やあやあやあ、やめよう、タンポポは旨くないし毒だ」
 里見はなおも周囲の蒲公英を毟りつづける。
 そうして過ごしているうちに、土岐の服も肌も随分と乾いてきた。髪や白い上着に川藻が張り付き腐敗していく水の臭いがする。よく見ると指も一本、何処かへやってきたらしい。貧相で脆弱な彼の体も多少は何かの餌になると良い。指のあったあたりに蒲公英を一本括る。敷布を広げ死体を包む。それを肩に担ぎ上げる。瞬間、里見は思わずたたらを踏んだ。死んだ後はいつだって重い。土手を上がるのも一苦労だ。次からはせめて軽い服にしてほしい。
「やあやあ、無茶を言うね」
 何が無茶なものか。前を歩く土岐の膝裏を強く蹴る。土岐は見事につんのめり、長閑な土手を長閑に転がっていく。
「やあ、やめてくれよ」
 肩の上で土岐が抗議する。口から蒲公英がこぼれる。草だらけ泥だらけになった土岐が土手を駆け足で追いかけてくる。里見はため息を吐く。

〈了〉

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