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名弓「直心」と「呻吟語」

「直心」

現代弓道をしている者なら誰もが知っている素晴らしい弓がある。

それがグラスファイバーで出来た直心(じきしん)という弓だ。
小山弓具さんで作られており、竹弓と比べてメンテナンス性にすぐれ、学生弓道にはぴったり。

直心は同じくグラス弓の「練心(れんしん)」や「実技(じつぎ)」と比べて、
弓道の腕が上がってくるとその性能が存分に発揮できる作りとなっている。

まだ自分の弓を持っておらず学校の弓を借りていたころには、数の少ない「直心」を使わせて貰えるよう腕を磨かねばと練習に励んだものだ。

長く弓道をやると道具にも凝りたくなってくるものだが、
たまの休みに弓を執る私にとっては、高いメンテナンス性と抜群の矢飛びを誇るグラスファイバー弓はいまだに欠かせない存在だ。

きっとこれからの弓道人生においても「直心」は大切な相棒になってくれると確信している。


呻吟語のなかの「直心」

そんな「直心」という言葉、弓道の世界では毎日登場していたものの日常生活では聞いたことがなかった。それこそ、恥ずかしい話だが真っ直ぐ飛ぶから直心という名前なのだろうというぐらいに思っていた。

ある日、何の気なしに「呻吟語」の解説本を読んでいた。

「呻吟語(しんぎんご)」は明の時代の末に書かれた本で、中国古典の中では最近の本だ。
呻吟(しんぎん)とは病気で苦しんだときに出るうめき声のこと。
著者の呂新吾が人生と仕事に苦しんで呻吟するなか、「人間とは何か」を考え抜きまとめた、非常に興味深い作品だ。

解説は以下の中島先生の本が非常に分かりやすい。


そんな「呻吟語」のなかに「直心」は出てきた。

人間というのはこの世に生をうけてからたくさんのものを身につけていく。

もともとゼロから生まれ、地位や財産を築く。知恵もそうだし、プライドや価値観などもそうだ。
(中略)
そもそも人間は生まれついたとき、
直心(純一で混じりけがなく、清らかで、素直な心)を備えて
この世に出てくる。


それが知恵を身につけるにつれて、直心が薄れてくる
一度知恵がつくと、今度はその直心を覆った薄皮を一枚ずつ脱ぎ去っていかねばならない。
それが身心脱落(肉体も精神も一切のとらわれを逃れて自在の境地に入ること)である。

財や名誉が悪いのではない。
財や名誉にとらわれて、自分をなくすことが悪いのだ。
財も名誉もなんら気にしない人間にとって、それらは重荷にならない。
あってもなくてもまったくこころ乱れることはないからだ。
(中島,2010,30-31)


直心を覆い隠してしまう「童心」

そして、素晴らしいものと讃えられる「直心」に対して、
卒業すべき心として「童心」が出てくる。

人生を送るうち、直心のの周りに皮をかぶせるようにこの「童心」が重なっていくのだろう。

ひとかどの人となるためにもっとも阻害要因となるのは童心である。
これさえ卒業できれば、たちまち立派な人となれるだろう。
童心とは何か。
それは炎のように燃える競争心、
驕り、
人を見下すこころ、
華美にあこがれるこころ、
あせるこころ、
浮つき浅はかなこころ、
名誉や評判を願うこころ。

これらが童心にほかならないのである。
(中島,2010,29)


もう耳が痛い。現代社会に生きる私など童心の塊だ。
とてもひとかどの人になどなれそうにない。

「徳」が大事なのはもちろん分かるけれど、なかなかこういう心を押さえるのも難しいだろうよ、と開き直ってしまう。


「童心」は真っ直ぐ飛ぶか

しかしながら、仮に「童心」という名の弓があったとき、その矢は真っ直ぐ前に飛ばない気がする。

的の前に後ろに矢所が定まらなさそうに思える。

やはり「直心」だから真っ直ぐ飛ぶのだ。

そんなふらふらとした矢飛びを思い浮かべると
丁寧に皮をはぎ、自分の中の「直心」を取り出してあげなくてはと、ふと考える。




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