庭、あるいは保坂和志論②

二〇二二年四月二十九日(金・祝) すごく雨

 もう長いこと、日記を書けてなかった。ひさしぶりにこの青いノートを開いてみると最後のページは、今日と同じ四月二十九日の日記だった。ちょうど一年前の。すごく忙しかったわけでも日記を書くのが嫌になったわけでもなかった。でもいつのまにか中断してしまっていた日記を再開するには何か理由のようなものが必要な気がして、今日は一日じゅう強い雨がずっと降っていて、たぶんこの一年間で私はさびしいという気持ちを一度も抱いたことがなかったんだ。それはとてもよいことだと思えていたし、日記を書くのを忘れていたあいだにも、大学院生の友だちがくれた本を夏に読んでいたら、そのなかにあった庭についての記述がおもしろくて私はメモをとったりしていたから、そういうのを他のメモ帳とかじゃなくてこのノートに書き留めていれば、別に毎日かかさず書いていたわけではもともとなかったこの日記を続けられていることにはなっていたはずだったのかもしれない。

庭というのはひとつのとても深い意味をもった概念で、それを植物や岩や石や水の流れなどを組み合わせて表現するときには、私たちのよく知っているあの庭園としての庭がつくられてくるし、空中に自由自在にボールを蹴り上げるスポーツとして表現されるときには、「蹴鞠の庭」などと呼ばれるものができてくるし、商品が自由に交換されていく空間は「市の庭」と呼ばれることになる。(中沢新一『アースダイバー』)

法廷は「裁きの庭」である。この「庭」の中に立つと、いままでどんなに権勢をふるっていた人でも、お金持ちだった人でも、だれもが平等に「法の正義」にしたがわなければならない、というのが定めである。「庭」という言葉のついた場所は、こうしてたいがいが人間を超越した原理や力の支配している、自由と平等のゆきわたった空間としてつくられてきた。(同前)

 私はここで言われている庭という概念を勝手に、日記や短歌や映画や小説に置き換えて考えてみたくなっては、しばらくすると思考が途切れてしまったり、眠ってしまったりして、ほんとうにそんなことをしているうちにこの一年は過ぎてきてしまったような感じだ。またしばらく日記を続けられるようにがんばってみたい。

   × × × 

二〇二二年五月一日(日) すこし晴れ

 葉々社というさいきん新しくできた本屋さんに原付で行った。買いたい本がたくさんあって困った。島楓果さんの歌集『すべてのものは優しさをもつ』(ナナロク社)だけ買った。その近くに琵琶湖という店名の喫茶店があって思わず入ってしまったので、ミックスピザとアイスコーヒーのセットを頼んでさっそく歌集を読みはじめた。

トースター開けたら昨日のトーストが入ったままでゆっくり閉じる


 朝、あるいは遅く起きた昼の情景であると私は読んだ。開けるは〈明ける〉に通ずる。寝ぼけまなこの作中主体の手によって開けられる直前までのトースターの中には昨日の生活の一部が閉じ込められて残っていた。開けると同時に金網が差し出され、閉めると勝手に後ろへ下がっていくトースターのあの構造によって、温め直すでも捨てるでもなく、わずかに残った昨日の空気の中へともう一度、固く冷めたトーストを押し戻してしまうその手には、夜が明けること、昨日が終わって今日が来てしまうことのどうしようもなさを静かに拒むような優しさがある。開ける、もしくは開くという単語は、特に現代社会において、開放性、透明性、寛容性、多様性といった、自由で豊かで優しいイメージに容易に結びつく。それに対して〈閉じる〉という言葉はふつう、ネガティブなニュアンスを纏わされてしまうことが多い。しかし、ここにある歌は、そんな後ろ向きさを解除し、〈閉じる〉という言葉自体のもつ可能性を再提示することに成功している。

太陽が月を通して見せているぬくもりを目を閉じて見ている

 目を閉じるという動作だって、即「見ない」ことを意味するわけではない。ぬくもりのように不可視な対象が、目を見開くことによってではなくむしろ目を閉じることによってはじめて見ることができるものであるという感覚には、とても説得力がある。閉じるという動作にさえポジティブな深みを帯びさせることだって容易くできてしまう。そんな言葉の可能性を丁寧に教えてくれるような優しさが、〈閉じることのポエジー〉がこの歌集には宿っている。

ファインダー越しにわたしが見ていたあなたはわたしを見ていたあなた

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二〇二二年五月八日(日) ずっとくもり

 (家を出るかすごく迷ったけど)夕方に東中野のカフェ「なかなかの」に行ってから、川崎のつもりだったけど新宿にして『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』を観たあと(IMAX初体験)、模索社に寄って夜帰ってきた。

 で今、一年前の自分は何を読んでいたかなと思って、Kindleを見返していたら、保坂和志の『猫がこなくなった』があった。そのなかの「花揺れ土呟く」という短篇で語られる複数の道の記憶は、道といってもそれは、地面だけのことではもちろんない。道の記憶には、そこを歩いたときに見ていた景色や聴いていた声や足の裏の感覚が一緒に圧縮されている。さらにそれが時間の幅を伴い、複数の筋となって重なり、絡まり合う。そのとき特に重要なのは視覚よりもじつは聴覚なのではないかというのが、さいきん私が散歩をしていてよく思うことだ。集中して見ることに比べて、集中して聴くことは私にとってはとてつもなく難しい。目をつむってみるとむしろ、聴覚には視覚のような表層がなくて、いきなり深層につながってしまうような感覚です。
 保坂和志の小説世界はまさに自由の空間としての庭を表現している。庭は余白であり、可能性である。そこには猫や人をはじめいろんなものがやってきて、散々喋って帰っていく。そしてたまたまやってきた何者か同士がめいめいの親密さを崩したり積み上げたりしながら、小説は進む。
 ウチでもありソトでもある変な空間としての〈庭〉を設定してしまえば、小説にはなんでも入ってくる。猫ならばかつおぶしを置いてみたり人ならば話の種みたいなものを投げてみたりする。すると食いつかなかったり食いついたりして時間の流れが分岐していくような感覚が生まれてくる。時間的な偶然性に開かれつつ、空間的な有限性によってリアリティが保たれるという〈規定可能的未規定性〉によって、〈庭〉は緩衝地帯として他者と自己との関係性を調整しながら媒介する効果をもちあわせている!ような気がする。

〈つづく〉



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