準備、あるいは保坂和志論

 私は保坂和志の小説を読んでいるとそういえば何か書きたくなる。私はある時期にある作家の小説を一気にまとめて読むのが癖なので三年くらい前に七冊くらい続けて読んだ保坂和志の小説を、ひさしぶりに読み返してみようと思って今日読んでいた。こういう言い方があるのか私は知らないけれど、執筆誘発性が高い、というのは小説に対する褒め言葉としてかなり上等な評言ではないか。
 つまり小説を書きたくなる小説はいい小説である。ただそれはたしかに、「よいものに憧れて自分も書く」や「よいものが与えてくれた経験を自分の手で作り出したくて書く」とはぜんぜん違う。私は保坂和志の書いた言葉が、ずうっとかすかに振動し続けていて、長いあいだそれに触れていた指先の感覚が離したあとにも痺れのような感覚として全身に残っているようだと思った。
 私が朝起きて、外出自粛要請というフレーズのいかがわしさを気にしつつ、カーテンを開けるとすでに充分に陽が高くなっている空は朗らかに晴れわたり、部屋の電気をつけなくても自然に明るい明るさのなかでひとり『カンバセイション・ピース』を読みながら思い出しているのは、六週間前に私の友人である小野が焼肉屋でキムチを食べながら「小説を書こう」と言って私も「小説を書こう」と言った、だから私はいまこの文章をいずれ小説が書かれるための準備として書いている。小説を書くという行為は、まだ小説を書いていない者にとっては、途方もなくアクロバティックな曲芸か軽業のように感じられ、いままでの私はそれをただ遠くに座って眺めては拍手を送っている観客のひとりだった。
 保坂和志の小説は執筆誘発性が高い、ということをさっき私は言ったけれど、もちろん「執筆」は、いつでもどこでも誰にでも、さまざまな仕方でやってくる可能性がある。それは極めて個人的な領域にまつわるもので、その共有不可能性に私はとても興味がある。

「あ、二回目だ。」
 と夏子は急に立ち止まって言った。
「ん、なにが?」
 と私が訊くと、
「いま、隣りにゆうきがいてこの道を歩いていて、ゆうきがくしゃみをして、ティッシュ持ってる?って私が言われてる、この出来事というか声も含めた景色の全体が。」
 と夏子は答えたが、私はその道を夏子と歩いたのはそのときが初めてだという確信があったので、差し出してくれているポケットティッシュを受けとろうとして腕を伸ばしながら、
「デ・ジャ・ヴュってこと?」
 と訊くと、夏子はデ・ジャ・ヴュという言葉を知らなかった。

 私はたぶんこの話を焼肉を食べながら小野に話した。小野はおそらくそれで八杯目になる九十九円のハイボールを飲み干すと、「そういう、ことってあるよな」と言った。たとえば、ふだん眼鏡をかけている人が眼鏡を外して歩いてみる。それが夜だと信号や車の灯りが丸く滲んで点滅したり移動したりする。擦れ違う人々の顔はほとんどのっぺらぼうに見えている。それでもただ歩いていくぶんにはぜんぜん支障がないことに気づく。あるいは、冬には夏の蒸し暑さを、夏には冬の乾いた風の冷たさをうまく思い出せない。それでもそのすべてがまぎれもなく、いままでに歩いたことのある道の記憶だ。道の記憶には、そこを歩いたときに見ていた景色や聴いていた声や足の裏の感覚が一緒に圧縮されている。自分は憶えているのに、そのとき一緒にいた相手はそれを完全に忘れているということがある。一度別れて、また会うとき、おれたちはほんとうに同一人物なのか?

 私は、想像力に身体を委ね、ほとんどすべての体重を預けてしまうことによって、なにか新しい、この世にまだ存在していないひとつの時間群を産み出すことができるという希望をまったくと言っていいほど持てなくなってしまった勢いで、もう思い出さないと決めたはずだった、大学時代に書いた五つの短い小説を読み返してはそれを忘れ、部屋の真ん中に座ってテーブルの上のまっさらな原稿用紙と九年前に死んだ祖母の形見の万年筆を前にしたとき、四月なのに雪が降った。

〈つづく〉



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