庭、あるいは保坂和志論①

二〇二一年四月二十九日(木・祝) すこし雨

 一日じゅう、今日が何かの日だった気がしてむずむずしていた。晩ごはんに作り置きのハンバーグを焼いて食べ、お風呂に入って濡れた髪に立ったままドライヤーを当てているとついに思い出した。昔ささいなことでけんかしてそのまま会わなくなった友だちの誕生日だった。ほとんど忘れられそうだったのに忘れ切るまえにぎりぎりで思い返してしまったということだ。来年もまた思い出すだろうか。
 アメリカではくしゃみをした人に対してその周りの人が「ブレスユー」と言うそうだが、おばあちゃんはくしゃみをすると自分に自分で「だれかどこかで私のうわさ話してはるわ」と言っていた。


 午前中、夏子は青空文庫で寺田寅彦の「庭の追憶」という短い随筆を読んで、自分の実家の小さな庭のことを思い出していた。高知にある夏子の実家の庭には一本の花梨の木が生えていた。秋になると黄色くてゴツゴツした花梨の実が枝の先にぶら下がったり芝生の上に転がったりしていて手に取って鼻を近づけてみると独特の甘い匂いがした。蜂蜜に漬けて食べたりすることもあるとあとで知ったけど、当時はあんまり食べものとは思ってなくて玄関のところに置物みたいに飾ったりしていて実際食べたこともたぶんなかった。当時というのは五歳くらいの頃のことで、お母さんにその木はいつから生えているのか訊いてみたこともあったが、お母さんが嫁いできた頃にはすでに立派に生えていたと言うのでおばあちゃんにも訊いてみたがおばあちゃんが嫁いできた頃にもすでに生えていた。東京で大学生になってから長野へ旅行に行ったとき、ツルヤというスーパーに花梨飴が売っていて、そのときまで花梨という植物があること自体もほとんど忘れていたけれどそれで庭の木のことを思い出してからは、花梨の実は夏子にとって幼年時代の秋の記憶の象徴みたいになった。
 寅彦は郷里の家の庭が描かれた絵画を、東京の上野で見る機会を得る。一見しただけではピンと来なかったが、眺めているうちにだんだん記憶の中にある三十年前の庭の像と重なっていく。そして絵には描かれていない物や人のことまでどんどん思い出していく、その思考の流れみたいなものがそのまま随筆になっているのが「庭の追憶」だ。「去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。」(寺田寅彦「庭の追憶」)

 でも、と夏子は思う。
 自分が生きているか死んでいるかにかかわらず、だれかがどこかで自分の話をしてくれたり、あるいは単に思い出したりしてくれることがあったとしても、それはふつう本人にはわかりようのないことだ。くしゃみのようにランダムな瞬間に、やって来るか来ないかも知り得ない何かである。だとしたら、思い出すことと造り出すことの違いはどこかにあるんだろうか。
 夏子は幼い頃、絵を描くのが好きだった。小学校の授業で絵を描くときには、わざわざ町家の屋根瓦とか、にわとりの羽の毛とか多くて細かいものをよく描いた。学校以外でもひとりっ子だった夏子はよく家の庭の絵を描いていた。庭の向こうは路地になっていてたまに人や猫が通る。知ってるものしか通らないような細い細い路地だ。だれのものかも曖昧で統一感のない鉢植えがたくさん並んでいて、どこから来たのかわからないさまざまな植物が自由にのびのびと生えて、道をふさごうとしているみたいになって、あらゆるものがはみ出し、溢れている雑多な光景だったが、その豊かさをどうやったら描きとることができるのか、何度描いてもいつも違う絵になってしまうのが楽しくて飽きなかった、花梨の木もいろんなふうに描かれた。
 大人になって絵はめっきり描かなくなったけれど、その代わりというわけでもないが夏子は毎日寝る前に日記をつけるようになった。四月二十九日の日記を書き終えると夏子は短歌も一首なんとなく急に思いついたので書き添えた。

いきたいとおもっていたけどいったことなかったままの原美術館


 そのまた別の夜に、夏子はその日のぶんの日記を書き終えてから、買ってあった保坂和志の『猫がこなくなった』を読んでいると、その中の一篇を夏子は読んだことがある気がした。

〈つづく〉





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