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【愛されるよりも、少しだけ】


『愛』

どこまで追いかけてみても、
カタチがなくて、ふわふわしていて、
正体が分からないもの。

だけど、きっと。
誰もが一度は「愛って何?」
そう考えたことがあるのではないだろうか?


僕自身。
結婚式』というものを
真っ直ぐに追いかけている中で、
何度もその道の途中で現れてくるのが『愛』。


これまで何人もの先人達が「愛」に向き合い、
結局のところ世界共通の認識など生まれていないのだから、答えなんてきっとないのだろう。

それぞれに違うカタチがあるし、
どれが良いとか悪いとかもない。
そもそも、考える必要もないのかもしれない。


だけど、この正体に近づこうとすると、
きっと、結婚式に対する解像度も
変わってくるのでは?と思っていて。
僕は考えることをやめられないでいる。


今日は『愛』に対して、
とことん向き合って書いてみようと思う。


「愛」という言葉を辞書で改めて引いてみると

そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。
かわいがり、いつくしむ心。

などと出てくる。

意味としてはすごく分かりやすいし、
納得もできる。
だけど、「正体」というレンズは曇っていて
そこまでは程遠く、ぼんやりとしている。


辞書にもある
「そのものの価値を認め、強く引きつけられる」

とするならば、「愛」が生まれる関係は
恋人や夫婦関係だけにとどまらない。
親子、友人、時には上司や部下、ビジネスパートナーにだって生まれるものということ。

実際に僕も会社経営時代、
自分の部下を認め受け入れ大切に思っていたし。
友人からの言葉で「愛されている」と感じたこともある。

よく、「愛」という言葉の
対義語のように使われているのが「恋」

愛は与えるモノ、恋は奪うモノ
愛は自己犠牲で、恋は自己満足
愛には真心があり、恋には下心がある

とても、よくできた言葉だなぁと感心する。


恋してる時はおそらく
「相手から愛してもらうこと」
「優しく、尽くしてもらうこと」
「自分のものにしたい」など
自分への矢印が向いている状態。

愛している時
「相手に愛を与えたい」
「優しくしたい、尽くしたい」
「相手の存在を誰より認めたい」など
相手への矢印が向いている。


だけど、よく見る愛についての定義で
一つだけ違和感を感じるものがある。

『無償の愛』

無償。何も得ずとも注ぎ続けること。

確かに、一部分は理解できる。
何もいらない。何も貰えなくていい。
この人のために注ぎ続けたい。
と思える「」はある。

でも、果たして愛は
無限に生まれ続けてくれるのだろうか?


もちろん初めはそう思えているし、
見返りなんか求めてはいない。
だから注ぎ続けていく。

だけど、相手がそれを
踏みにじるような行動を取っていたら。
相手が何も与えてないとしたら。
そもそも人は注ぎたいと思い、
そんな状態を続けていけるのだろうか?


もしかしたら、そんな状態でも注ぎ続けて
いけるものだけが「愛」なのかもしれないけど。


僕は、いつか枯れてしまうのではないか?
と思ってしまう。


もちろん「与えんだから返せよ!」
だなんてことを、言いたいのではなくて。

「愛を注ぎたい」と思える人からは
沢山のものを得ているはずだから。
これは「無償」とは違う気がして。

例えば、「無償の愛」と、
よく使われることの多い親子関係においても。

生まれてきてくれた時。
初めて「ママ」と呼んでくれた時。
いっぱい散らかして、泣き叫んでも
無条件で自分を「親」だと認識してくれていて、
最後はスヤスヤと腕の中で眠ってくれる時。
沢山の友達と笑って、幸せそうな姿を見た時。


親も人間だから心の「余白」を失い、
たまに傷つけたり、折れそうになる事もある。

「親だから」という言葉の呪縛の中、
必死に保とうとしても難しい時はある。

そう。愛は決して「万能」じゃない。

だけど、そんな日々の暮らしの中で
ふと気付かされることがある。

子どもは無意識に
きっと親に沢山のものを与えていて。

だから、これは無償の愛なんかじゃなくて。
親も沢山のものを得ることができているから、
枯れることなく、注ぎつづけられている。


と僕の中では定義している。


相手に注ぐものが『愛』
そうとは言っても。

人は誰しもが、どこかで「愛されたい」
強く願って生きてしまっている。

こればっかりは多分、
人が生まれもってしまった、
無意識の本能みたいなもの。

なのに。人っていう生き物はやっぱり複雑で。

時に「愛されることが苦しい」だなんて
表現したりもする。


これにはきっと「愛のバランス」
みたいなものが存在しているのでは?
と僕は考えている。

大きな愛や優しさを受けて、
きっとそこに「応えられない」「重い」などと
感じた時に生まれてくる感情なのだろう。

自分も同じだけ、もしくはそれ以上
注ぎたいと思える相手からなら、
きっとその愛に苦しみなど生まれはしない。


だとしたら、人はもしかすると
「愛されたい」よりも
「愛したい」の方が強いのではないか?
と思えてきた。


もちろん愛されることは
間違いなく喜びであり、幸せ。

だけど、「与えたい」「注ぎたい」と
思えている状態のほうが
人は幸せなのではないだろうか?

人の愛に対する幸せの根底にあるのは
「愛されたい(TAKE)」よりも、
「愛したい(GIVE)」の方が
少しだけ大きい気がしている。

もちろんバランスが大切だと思っている。
偏りすぎるとこれもまた、
苦しみ、壊れてしまうことはある。

完全に僕の感覚だけど、
「愛したい(6)」:「愛されたい(4)」
くらいかな??

「愛されたい」よりも少しだけ
「愛したい」が上回っている時。

人は1番幸せだと、感じているのではないか。


この部分を含めた上で、
『結婚式』に置き換えて考えてみる。

結婚式の中には、
いろんな『愛』のカタチが存在している。

新郎新婦の中にある、夫婦の愛。
親子の愛。友人の愛。上司や部下の愛。

そのカタチは様々で。
だけど、その「カタチの違う愛」が
一同に会する」からやっぱり結婚式は
とても希少価値の高い、時空といえる。

そして、結婚式にはもう一つ愛の特徴がある。

それは、

「愛されたい(TAKE)」の要素よりも
「愛したい(GIVE)」の要素が
掛け合わさられた時空だということ。

夫婦の中にも。親から子、子から親へも。
その愛の矢印は誰か(相手へ)に向いていて。


普段無口な新郎様が新婦様は向け
不器用に手紙を読みあげる姿。

会場の末席から、
優しく微笑みながら見つめる親御様の姿。

仕事の合間を縫って練習した、
余興のダンスや、寸劇も。

今日初めて会う、
お客様の結婚式のために、未来のために。
バックヤードを走りながら、
必死に守ろうとするスタッフも。


どんな時間も、空間も。
「誰かが、誰かのために」生きている。


愛したい、与えたい、注ぎたい。
そう思って、この場所へと集まっている。


もちろん。
誰かが与えるということは、
誰かがそれ(愛)を受け取っている。

そして、愛されているという確信が
その人を救い、その人の人生を救う。


結婚式というと、
「愛されていると確信できる時間」
ともよく表現される。

間違ってはいない。

だけど、
結婚式の本質はもしかしたら

「愛したい」「与えたい」「注ぎたい」

これらを満たすことのできる
時空なのかもしれない。


だから、新郎新婦様だけに留まらず、
友人も。親族も。スタッフも。
みんなどこか誇らしく満たされていて、
幸せそうな表情を浮かべるのではないか?


そう考えるとまた違う視点で
結婚式を創ることが出来そうな気がしてきた。


どうして人は、
愛される方が幸せだと思っているのに。
「愛したい」とも強く願っているのだろう?


理由は考えたけど、まだよく分からない。
「愛する人」は選べるけど、
「愛される人」は選べないから?

そもそも「選んでいる時点」で愛なのか?
愛は本能的なものだとしたら
この理由は少し違う。


どこまで追いかけてみても、
カタチがなくて、ふわふわしていて、
正体が分からないもの。


『愛』も『結婚式』も結局はこれ。
よく似てるというか、同一なのか。
答えなど、きっと有りはしない。


だけど、そう分かっていても
正体を求めてしまうのは、
人間の本能なのだろうか?


『結婚式』も『愛』も。
まだまだ、研究できそうだ。


どちらにしても、
ハッキリしていることは。

それは、
『結婚式』も『愛』もやっぱり美しい。

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