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あいうえお、の並び替え🎵

あいうえお、あいうえお、あいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえお

ここから書くことは、あいうえお、と、なんら変わらない。ただのあいうえおの羅列だ。並べ替えだ。
わたしがここになんと書こうと、届かず、響かず、変わらず、意味がない。
それなら書かないほうが効率的と言えるか?生きる上で省エネか?小説でも映画でも、本筋に関わる部分だけでよいのなら、始まった、終わった、それだけだ。
うむ。卑屈で嫌じゃない。

💡

久しぶりに大きく体調を崩したときのこと。
真夜中に、お腹が痛くて目が覚めた。
いや全部間違っている。
何時かもわからぬ、時のないような見知らぬ夜。数字で表すようと名前がついて、一気に親しみが湧くような気がしませんか、午前一時、三時、五時半。まあとにかく、とんでもない不快感で夢と現の間をさまよって、あ、これはお腹が痛いのだ、そういうときはトイレに行けばいいのだと発明のように思いついてフラフラと起き上がった。目を開けているのか閉じているのかわからない暗闇のトイレの中。小さいころは、フェリシモのカタログを眺めて姫系の部屋の一人暮らしを夢見て、でもお腹が痛くなったらと不安になったものだ。トイレから出ても痛みは収まらず、この辺りで目が覚めてくる。困る。誰か。なにか。夜は寝ていた方が、絶対にいい。だからみんな寝ている。ああ間違えた。起きてしまった。
そんなときいつも目に入るのが、狭い道一本を隔てた向かいのマンションの部屋だ。その部屋はいつも適当な感じで洗濯物が干され、生活リズムが掴めない電気のつき方をする。
そしてお腹が痛くなるたびに、どんなに他の部屋が、世界全部が真っ暗でも、その部屋は絶対に電気をつけていてくれるのだ。
まあ毎日電気はついていて、そのときだけありがたがっているのだろうけど、でもその電気がなによりわたしを安心させてくれて、眠らせてくれるのだった。
なんだか滲んでくる涙をカーテンで拭き、窓ガラスでひんやりさせた手をおでこに当てて、天井を見つめる。一人で天井を見たこと、何度もあるな。実家の敷き布団でも、イギリスのベッドでも。あの世界線と今が明確につながっていて、同じ自分であることを確信する、と同時に、あまりにも鮮明に思い出せて、実は並行しているんじゃないかとさえ思う。
ちょっと起き上がって、もう一度電気がついているのを確認する。そこで誰かが起きているってことは、一人じゃない。大丈夫大丈夫。
一人でお腹が痛くたって、思ったよりなんとかなる。でも、あの電気には助けられている。深夜の腹痛と一人の夜を、向かいの電気で紛らわすのが、わたしなりの強さレベルMAXである。

いかがstruggleでしょうか?

むかつくので、過ごす、を使わないこととする。
どう考えても日々を過ごせないからである。過ごす、というとなんとなく〜な軽やかな感じが漂って、そんなっっ‥‥簡単なことじゃないっっ‥‥となるのだ。
いつだったかstruggleという単語を知って、その響きも綴りも意味も、なんか格闘している感じがあって気に入った。わたしにとって生活とはそのように表現されるべきものである。
前回書いた、お疲れさま、と同じかなあ〜。
言葉の持つ力とか、自分の口から気に入らない言葉が出るのが、嫌で嫌でたまらない。そして納得していない言葉が相手に届いてしまうのが不本意なのだ。なんでこんなに気になるのか?なんでこんなに面倒臭いのか?なんでかしらん🎵

おわり


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