#エッセイ『思考のフォーマット』

 先日テレビで『風の谷のナウシカ』が放送していたので何となくチャンネルを合わせていたのですが、次第にその内容に惹かれ始めて最後まで鑑賞してしまいました。僕はとりわけスタジオジブリの作品が好きであるという訳では無いのですが、改めてじっくり見るとかなりの見応えがある作品だと感心してしまいました。ナウシカは今までにも地上波では何回も放送されているのですが、この歳になって初めて“なるほど・・・こういう話だったのか・・!”と思い、そのメッセージを自分なりに受け取れたような気になりました。“宮崎駿監督、恐るべし”と感心してしまいました。
 ところが、その映画を観ている最中にふっと気になることが出てきたのです。それは、この話はどこかで同じようなものを見た様な気がすると思ったのです。そこで思い出したのが『未来少年コナン』だったのです。実は数年前に真夜中にNHKで『未来少年コナン』の再放送がしていたので懐かしさのあまり毎週一生懸命録画して観ていたのです。大雑把なあらすじとしては、まずは地球規模で起きた最終戦争の後に、生き残った人々がそれぞれの地域で過ごしているという設定になっています。そして戦争前の技術の残りを手にした地域の人間がその技術を使って再び世界を征服するという欲望を、主人公コナンを中心として阻止していくという内容です(ザックリ過ぎますが・・)。片やナウシカも最終戦争の後の話です。そこは汚染された土壌に繁殖する菌類の腐海という森の存在と、そこに住着く昆虫の巨大生物が存在する為に生き残った人間の生活圏が制限された世界の存在が基本設定になっています。そしてトルメキアという勢力が自らの勢力拡大を目指すために、過去の人類が作り出した巨神兵という兵器を甦らせ、巨大生物の王蟲(オーム)を使って焼き尽くそうとするのですが、主人公のナウシカが自分の故郷と自然を守る為に立ち向かうという内容です(これもザックリですが・・)。どちらの話も、人間と自然の共生を考えながら人々を守るという話です。僕の中ではコナンの“残され島”がナウシカでは“風の谷”になっていて、その他にも、登場人物や出てくる物や環境にしても、同様の対比がみられます。例えば敵対する敵軍の女性司令官として、モンスリーがクシャナに、敵対する地域としてインダストリアがトルメキア、人類の遺物としての兵器ではギガントが巨神兵に、乗り越えるべき危機的な状況としては、『未来少年コナン』では津波の襲来であり、『風の谷のナウシカ』だと王蟲(オーム)の大群というように置き換えられている様に見えます。物語の中のクライマックスでは、コナンでは津波の襲来で人々を非難させて守るのですが(この後にも見せ場はありますけど・・)、ナウシカでは王蟲の襲来にナウシカ自身が身を挺して立ちはだかる事によって事を静めていくという所に物語のシンクロを感じるのです。そしてここが大切なのですが、それぞれの物語を通して共通なメッセージがあります。“自然を人間の力で都合よくコントロールすることは人間の思い上がりであり、それゆえに科学の有効性には限界があるという事。そしてその事に人間が自ら自覚し、自然との共存こそが人類の生きる道である”という事だと思うのです。形を変えて大切な事を伝えているというこの手法は素晴らしいです。そして、それぞれの物語で見る人の興味を引き付けるキャラクターとその世界観の設定、また素晴らしい画力は本当に感心します。特にアニメを観て育つ世代の子には頭ごなしに教える様なスタンスではなく、物語を楽しみながら自然と学べるという事がとてもいいですね。
 『未来少年コナン』のオープニングにも出ていますが、実はこの物語にも『残された人々』という下敷きとなる物語があるようです。なるほど・・、そういう事か・・と思うのですが、でも素晴らしい物はどんどん使うべきですね!人がメッセージとして伝えたいことは同じことが多いと思います。そうなると今回初めてナウシカを最後までちゃんと鑑賞しながら思ったのですが、ベースになる話の基本線を用いつつ、そこにオリジナリティを乗せるという手法は本当に有効的であると改めて思ったのでした。このような手法で考えられている物語でほかに例を挙げるなら、松本零士作の“宇宙戦艦ヤマト”や“銀河鉄道999”などもそうですね。これらの二作品は西遊記が下敷きになっていると思われます。問題の解決を図る為にその手段を手に入れるという事を目的として旅をするという内容ですね。玄奘三蔵は長安の都の荒廃を立て直すために新しい経典を求めて天竺(インド)に行きます。ヤマトでは核の放射能に汚染された地球を救うために放射能除去装置を求めて宇宙の彼方にあるイスカンダルに、999では永遠の命を手に入れるために無料で機械の体をくれる星を目指して宇宙の旅に出ていくという内容です。特に999では、最後に主人公の鉄郎が、人生は限られた有限の時間で生きるからこそ夢中になって一生懸命に各々の目指すべき事を頑張り、だからこそ、その人生が輝くという事に気が付きます。永遠の生命や美を求めるという事より、今を懸命に生きぬく事の尊さをメッセージとして伝えているという事はいつ思い出しても本当に素敵な事だと思うのです。子供の頃に見ていた時はそこまでは感じ取れませんでしたが、大人になって作者のそういった思いが感じ取れたように思うのです。
 今回は人の思考の在り方を物語の作り方という観点の切り口から話を始めたのですが、色々と調べてみると演説などでもそのような事はいくつもあるようです。例えば有名な所で例をだすと、米国の第十六代大統領のリンカーンの有名な演説も実はその元があるようです。その有名な演説の一節は
「人民の人民による人民のための政治(Government of the people for the people by the people) 」
ですが、これは1863年に南北戦争の激戦地区であったペンシルバニア州での演説で使われたものです。ところが驚いた事に、これの元は1850年代に奴隷廃止運動をしていた牧師のセオドア・パーカーの演説が元になっているのです。パーカー牧師はその演説で、
「民主主義は、全ての人々に及ぶ、全ての人々による、全ての人々のための直接自治である」
と言っているのです。パーカー牧師は後日の演説では“全ての”という所を削っているそうです。そしてリンカーンはその演説が自身の政治理念と合致したからこそさらにブラッシュアップして使ったのでしょう。この時のリンカーンの演説はとても短い物だったそうですが、時代の経過とともにその時の演説のインパクトはとてつもなく大きな広がりを持ったそうです。やはり素晴らしい言葉には力が宿るのですね。そんなかっこいい明言を僕も言ってみたいもんです。
   
   このように人の思考の焼き直しについて書いてきましたが、僕自身は学生時代にこんな話をとある先生から聞いた記憶があります。それは人が一から考える物にはあまりロクなものは無いという考え方です。その時は物事を合理的に処理するための方法としてその先生は話をしていたという記憶があります。仕事などで何かの表を作ったり、何かをまとめる様な時は過去の人がやったものを持ってきて作り直すというのが良いと言っていたのをよく覚えています。実績のある物を使ってそこに自分自身で新たな工夫を加えていくことが大切であるという事を言っていました。確かに社会に出て経験を積むと会社の仕事では色々な帳票の提出を求められます。それらには過去に先輩や上司が出している同じような書類の蓄積があるので、それらを何の疑いも無しにまるでコピーをするような感覚で写すというような行為は何度も経験しています。そんな事を繰り返している日々の中で、いつものように帳票を作成している時にふと、“これは誰が最初に考えたのだろうか・・”と思う瞬間があったりします。そんな事を思った日の会社の帰り道では、電車に揺られながら昼間の出来事を考える事が多いのですが、元を辿るという事を考えだすと、そもそも自分の頭の中で考えている言葉ですら借り物の様な気がしてくるのです。日常の生活や習慣を通じて、また学校での教育を通して言葉と字を覚え、色々な経験を積み上げる事で自分の気持ちと考えを他者に伝えるようになるのだろう・・・と思ったりします。そんな大げさな所まで遡るのもどうかとは思うのですが、僕としてはあながち間違っているとも思えないのではないかと秘かに考えています。それよりもう少し手前の所で考えるなら、自分が経験して身に付けた物の考え方や、やり方という事を何回も擦り倒すように経験して、それが自分の物になり、言い方が変ですがそれが“自分になる”という事なのでしょう。そのうえで、積み重ねた自分の手法に次の一歩を載せるという行為がいわゆる“オリジナル”という事なのかな?と思っています。それは言い方を変えれば“個性”という事なのかもしれません。
 かつてプロ野球で選手としても監督としても活躍した三原修氏は個性という事についてこう言っていました。
「今の時代、個性が大事というけれど、本当の個性は基本的な事をやって、やって、やり尽くしたその上に最後に載せる自分の工夫である」
というようなことを言っていました。歳を重ねてこれを聞くと“その通りだよね”と思えます。今回は宮崎駿氏と松本零士氏を引き合いに出しましたが、このお二人も少年時代からの読書などの経験から多くの物を自分の物とし、そしてそれらが自分の血となり、肉となって自分という考え方を確立していったのでしょう。そしてそれらをベースにして、彼ら自身の発想の上に載せられた空想が爆発するように世の中に発せられ、その優れた才能が多くの人を惹きつける素晴らしい作品になり私たちを楽しませてくれているのだと思うのです。
 世の中の全員が自分自身の考え方のフォーマットないし癖を持っていると思うのですが、そう考えると僕自身は長い会社生活の中でサラリーマン的な物の考え方やその振る舞いの型を身に付けてきているはずなのですが、果たしてそんな僕からは何を生み出せるのだろうかと考えると寂しい限りです・・・。

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