#エッセイ『話ながら考える』

 人と話をする時に他の人がどんな感じでやっているかは分からないのですが、僕の場合は人に自分の考えを話す時にその場で思いついた事を口にしているという事がほとんどです。それは決してでたらめでは無いと思っているのですが、僕の場合は不意打ちで質問や相談をされたときにそんな傾向があると思っています。その時には、その瞬間に頭に浮かぶ言葉を繋げて話すのですが、それはいつかどこかで考えて来た事を瞬間的に思い出すように話しているような感覚ですので、同じ質問を同じ人にされたとしても、質問や相談をされるタイミングが異なれば、その時の雰囲気と自分自身の気分で答えが少し変わるのかな?と思わなくはないのです。またその時の相手の見た目の心理状態でも答えは変わってしまうかも・・と思わなくも無いです。いい加減なもんです。そんな感じで日々を過ごしているのですが、先日知り合いのお子さんと話をした時に、“あ、俺ってこんなこと考えてたんだ・・・”と言う出来事がありました。今回はその時の話です。
 そのお子さんは大学三年生で来年就活を控えているという学生さんです。話を聞いていたらどうやら大学では経済を専攻しているようでした。聞けばそのお子さんはその大学の付属高校から入ったようで、今の自分自身の学力に今一つ自信がないようで、また社会に出て何がやりたいかという事が見つかっていないという事を言っていました。それで“どうしたらいいか?”というような事を軽く相談されました。就活に当たって何をどう考えていけばいいか分からないという事だったのでしょう。そついて『参考程度として聞いてね』という前置きをしつつ僕は自分の思う事をその子に伝えました。
『先ず、仮にどこかの会社に入ってやりたい事があり、めでたくそのような事をやっている会社に入れて、さらにその業務に配属されても、実際は思っていた事とは違う感覚がすると思うよ。会社の仕事は組織が大きくなればなるほど、仕事が細切れになっており、最初のうちは自分のやっている仕事の意味合いが分からないという場合も多いいと思いますよ。』
と伝えました。そのとこは彼も先輩から聞いていたようで何となく分かっていたようです。そして彼は自分が何をやりたいかという事も分からないままに次のような質問をしてきました。
『じゃあ、大学で学んだことはどれ位役に立つのでしょうかね?実は僕はあまり勉強してこなかったので、ちょっと心配になるんです。』
というので、それを聞いて“なるほど・・、そりゃ心配になるでしょうねぇ・・でもそんな事は殆ど関係なくてさ・・”と思いながら
『その心配は無用ですよ。会社の仕事をする上で大学の講義や専門書で学んだ知識を使うという事は殆ど無いでしょうね。医者にでもなるなら別でしょうが、たとえ理系の学生であったとしても、入試の為に勉強した微分積分ですらほとんど使わないでしょうね。君が経済学部なら、ちょっとでも読んだであろうマルクス経済なんかもおそらく全く役に立たんだろうね。もしそれが役に立つという職業に就くというならば、ならそれは大学の教員になるか、どこかのシンクタンクに就職した時くらいではないかな?』
と言ったらその子は絶句していました。そして続けざまに
『おそらく君は就職をする時に事務職や営業職を希望することになるでしょう。そこで必要なのは簡単な読み書きの知識と計算力でしょうね。せっかく大学にまで行っても、学んだことは何一つ要らないと思いますよ。でもそれでいいと思うんです。』
と、一気にまくしたてるように言いました。そこまで聞き終えるとその子は
『じゃあ、なんでみんなあんなに勉強して金まで払って大学に行くんですかね?もったいないような気もしますけど・・』
と、さらなる質問をぶつけてきました。しれに対しても僕は反射神経的に
『そんなもんです。てか、それでいいんです!何か高度な知識を必要とする専門家にでもならない限り、学んだ知識は忘れてもいいと思うんですよ!別のいい方をするとみんな普通に忘れると思いますよ。会社で事務処理をしていれば、せっかく学んだ微積も歴史も全部忘れますよ。でも大切なのは、学生時代に学んだという経験なんだと思うんです。その学問を学ぶ事によって物の考え方や処理の仕方、もしくは論理という事を身に付けていると思うんです。もっと平たく云えば、頭の使い方を覚えるという経験が身に付けばそれでOKなんだと思いますよ。しかも頭の使い方を覚えるという事は無意識的な事で、具体的な知識なんか頭から飛んで消えても、そこで培った物の考え方がその人の中に残るでしょう!そのノウハウが大切だと思うんです。そしてそれを使って仕事をするんですよ!多くの人は・・・。おそらく多くの人はそれを受験勉強をすることによってそれらを経験するのではないかな・・。』
と思いつくままに口にしました。これはおそらく僕自身では無意識的にどこかで考えていた事だと思うのです。もしくは、かつてどこかで考えた事なのだと思うのです。それを聞いていた彼は少し考えこんでから、
『でも僕は大学受験はしてないんですよね・・。という事は、僕はそのような経験が足りないのでしょうか・・?』
とすがるように言うので、
『心配無用です。高校入試でも、大学でも別にいいです。若い時に一回でもそんな経験を積んでいればそれでいいと思うよ。入った学校でも、定期試験の前には何かやってもがいたでしょ?それでいいんですよ。もちろんその時に一夜漬けなんかでやったことは既に頭の中には無いだろうけどね(笑)。就職の面接では学生時代にしていたスポーツや趣味の話でもしていればいいと思うよ。志望動機なんかは、“御社のナニナニに興味があって・・・”なんて言っていればいいと思うよ。面接官だって誰も勉強の達成度なんか期待して無いはずだよ。なんだったら面接している奴らだって学生時代に勉強なんてほとんどしてないだろうからね(笑)。』
と言いました。そこでまた僕は何かを思い付いて、
『でもね、これは誤解が無いように言っておくと、“それじゃあ最初から勉強しなくていいじゃん”という事では無いと思うんだよね。人が成長の段階で何かを学ぶという事は大切だと思うよ。ぶっちゃけていうなら、学んだ後に忘れてからが勝負と思ってもいいんじゃないかな?』
と、付け加えておきました。これは飽くまでも僕個人の考えであって、この世的に正解かと言えばあまり自信はありません。この会話のやり取りの後、何故こんな事を無意識な感覚で話したのだろうかと、自分自身で過去の記憶を紐解いてみました。

 それで思い当たるのは大学時代に読んだ一冊の本です。小平邦彦という数学者が書いた『ボクは算数しか出来なかった。』という本を読んだことがきっかけと思うのです。題名にひかれて手に取った本だったのですが、その本で初めて知ったのですが、実は小平教授は世界的な業績をいくつも上げている方という事で、そしてそんな人がどんな人生を送ったのだろうかという興味からその本を読み進めたのです。その中では数学教育に関する彼の考えが書かれていた一節がありました。小平教授は、数学教育の極意は、中学と高校の教科書の中で命題や集合、もしくは図形の性質(円や三角形)を学ぶという事が数学の肝である、と書いていたのです。そして(その当時の)最近の教科書ではそれが雑に扱われているという事に嘆いていました。なぜなら学校教育の中で論理という事は数学のこの分野でしか教えないからだというのです。心理学や社会学、歴史や法律でも論理的な文章で展開はされていますが、論理そのものは教えていないというのです。それを読んで“確かに~”と思った記憶があります。
    一つの例として数学の命題という分野で考えてみます。ザックリとした話ですが、この命題とは客観的に真偽が問える事柄を判断するための考え方と思えば分かり易いかと思います。“宿題をすれば⇒おやつがもらえる”という命題があったとします。これがルールとしてある親子の間で取り入れられた時、それが約束事として履行されれば、正しい論理として“真”となります。その逆の“おやつがもらえた⇒宿題をした”も“真”になります。また、最初の命題に対する対偶として“おやつがもらえない⇒宿題をしていない”と言うのも話の内容は逆ですが、話のあり方としては論理的に成立しこれも“真”になります。そして元の命題の裏として“宿題をしない⇒おやつがもらえない”も同じ様に“真”として成立します。ちなみにこれの逆は“おやつがもらえない⇒宿題をしていない”で元の命題の対偶と同じになります。この話を広げていくと集合という分野の話にまでなるのでしょう。こんなのはほんの一例でさわりの部分ですが、数学教育の中ではこんな事も出てきます。
 これ自体は話としてバカらしいですが、これは形を変えて日常のプライベートな会話の中や、仕事の中でも出てきます。もちろん学校を卒業して何年も経てば学校でせっかく命題を学んでもそんなもんはきれいサッパリ忘れてしまうでしょう。おそらくは『そんな事もやったなぁ~』という感じで記憶というより思い出になるのでしょう。なんだったらそんな事すら思い出さない人の方が多いでしょう。でもそれでいいのだと思うのです。命題なんかは忘れてもその考え方が自分の中にスキルとして沈殿していけばそれでいいんです。それで教育を受けた甲斐があったという事だと思うのです。
 多分、僕はこんな事を考えた経験があったからこそ、就職に悩んだ子にそのような話をしたのだと思うのです。これはある意味極端な例だったかもしれません。実際に他の他愛のない日常の会話でも過去の自分の記憶から無意識に何かを引っ張り出して話をしていると思うのです。多くの場合はあまり強い信念を持っていないことに対しての記憶を無意識に出して話をしていると思うので、それこそ時と場合よって話す内容が変わってしまったり、ひどい場合はその結論が逆になるという事すらあるかもしれません。また、日常の会話とは結構あやふやなもので、おそらくその会話を録音して内容を紙に文字として起こすと、話の出だしと終わりには因果関係が見いだせない事も多いと思っています。でも僕はそれでいいんだと思っています。仕事上で取り決めをきちんとしなければいけない場合は契約書を起こしたり、また会議や打ち合わせ等では議事録を残しています。しかし日常の会話で親子や友人もしくは恋人とそこまでがんじがらめな会話をしていれば、それぞれの人間関係は殺伐として味気ない物になると思うのです。
 自分の積み上げた経験から来る記憶がその時々の気分を作り、その感覚的な事であっても他者と気持ちを共有できればそれでいいのではないかと思うのです。でも一つ困るのは・・・、会話一つにも正確な表現を求める人がいたりするんです。会話の途中に自分の発言した話の『て、に、お、は』をやたら気にされたり、話の主語を確認されたりすると楽しい会話も興ざめしてしまうんです。裏を返せば僕は普段それだけいい加減な話をしているという事だと思うのです。そこは素直に反省もしないいけないですね。

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