<第1章:その3>どこでも戦える自分になれる
お墓参りは故人との対話の場でもあります。生きていく上での強さは、お墓参りをして故人と対話をし、先祖を尊敬し、最後には先祖に身をゆだねることからも湧いてきます。
私の場合には、母へのお墓参りなのですが、身辺の出来事を細大漏らさず報告します。子どもが小学校に上がったこと、仕事の状況、最近出張が多くなったこと、少し体重が増えてきて悩んでいること、などなど。どんなことでも、正直に、思いのままに報告できるのがお墓参りのいいところです。
報告もしますが、お願いもします。こういう目標を立てて、一所懸命にやろうと考えています。どうか、応援してください。そういうふうに、心の中でお願いをしています。
先祖に対しても、家族みんなが健康で、つつがなく生活していること、いつも守ってくれてありがとうございます、と感謝します。
そうして、心ゆくまで報告し、お願いしたあとは、すべてはゆだねることにします。やるべきことはした。自分の努力も100%出すのであるから、結果については、先祖の判断に任せようという気持ちになるのです。
そう思えば、孤独ではありません。
また、どこに行っても戦える自分になります。
私はこの世の中で起こり得ることは、良い結果になるか悪い結果になるかの二択であり、どちらに転んでも確率から言えば50%、フィフティー・フィフティーだと考えています。
販促活動でも当たるか当たらないかは2分の1の確率、出張に出かけて無事に家に帰れるかどうかも確率は2分の1、常にそういう覚悟、決意を持って生きています。
でも、必ずプラスの方の50%を信じながら生きられるのは、先祖にゆだねているからです。自分は墓参りをきちんとしているし、朝、出かけるときにも仏壇と神棚に手を合わせてきている。だから、私自身がコントロールできない分に関しては先祖が守ってくれるはず、と確信しているのです。
広く考えれば、いま、自分が生かされているのは、先祖のおかげという考えです。必ずいい方向に導いてもらえる、自分は守られている、生かしてもらっているという確信を得るためには、お墓参りして、先祖に対して手を合わせる習慣を持っていないとだめなのです。若い子が悪さをしてしまうのも、先祖から見られている、守られているという意識がないためだと思います。そういう意識があるならば、とても怖くて悪さができないだろうと思います。
<前回まで>
・はじめに
・序章
母が伝えたかったこと
母との別れ
崩れていく家
止むことのない弟への暴力
「お母さんに会いたい!」
自衛隊に入ろう
父の店が倒産
無償ではじめたお墓そうじ
お墓は愛する故人そのもの
・第1章
墓碑は命の有限を教えてくれる
死ぬな、生きて帰ってこい
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