見出し画像

<序章:その1>再録『心が強くなるお墓参りのチカラ』

愛知県で墓石の施工などを手掛ける矢田石材店の矢田敏起社長は、2012年に本を出版しました。『心が強くなるお墓参りのチカラ』(経済界)。お墓を通じて、家族の絆、先祖供養の大切さを伝え、「お墓参りこそ最高の人間教育」と説き、「命のつながりを知ることで、あなたの生き方は一瞬で変わる」といった想いや、そこに至った自身の半生などをまとめたものです。発行から10年以上が経ち、改めて、みなさんに読んでいただければと、このnoteの場で再録することにしました。少しずつ連載します。

母が伝えたかったこと

 私は今、日本を救うのは「お墓参り」しかないと、考えています。なぜそう考えるのかというと、お金や権力ゆえの強さではなく、どんな困難な事態をも克服していくことのできる精神の強さは、お墓参りを通して持つことができるからです。詳しくは、第1章以降に詳述しますが、その前に、私と墓参りとのかかわり、そして、どのようにして私のようなお墓職人が生まれたのかについて申し上げたいと思います。
 
 私がお墓参りに行くという体験に、はじめて向き合ったのは小学校4年生のときです。前年に母が亡くなりました。享年35でした。私が長男で9歳、下には7歳と3歳の弟がいました。
 母の死からの1年は、まさしく悪夢のような時間でした。今思い起こしても気分が悪くなるような、まがまがしい1年間でした。
 しかしその悪夢から覚めたとき、幼い私が、単身、向かったのが母のお墓だったのです。
 
 ガンの手術をしたあと、治療のために入院していた母が、1日だけ家に帰ってくると父から知らされたのは、私の9歳の誕生日の数日前でした。母は、まさに私の誕生日に帰宅をするというのです。それは母のいない、さびしい生活を強いられていた私たちに、飛び切り、嬉しい知らせでした。
 その日は日曜日で、私たち3人兄弟は、ふだんよりだいぶ早くから起きていました。いつもは寝坊して、小学校に遅刻しがちだったすぐ下の弟も、この日ばかりは早起きでした。
 そそくさと朝食を食べ終えた子どもたち3人が、
「まだ、出かけないの?」
「いつになったら出る?」
 と父親に催促していたことを思い出します。
 ようやく医師と約束した時間が近くなり、父が腰を上げました。私たちは喜び勇んで車に乗り込みました。
 病院に着くと母の病室に小走りで行き、父が母を車いすに乗せ、車の近くまで運びました。車のドアをいっぱいに開けると、父は母をひょいとお姫様抱っこして車に乗せてあげました。
 ズボンの裾から見えた母の足は骨と皮ばかりになっていました。しかしその様を眺めている子どもの私たちは、母が元気になったから、おうちに帰れるんだと思い込んでいたのです。
 車に乗り込んだ矢田家一家はおもちゃ屋さんに寄り、私は誕生プレゼントの野球盤を買ってもらい、家に着くと、さっそく兄弟で野球盤のゲームを始めました。
 私と下の弟は年齢が近いこともあり、お互い負けることが嫌で、日ごろから兄弟ゲンカが絶えませんでした。野球盤で遊んでいても、ホームランを打たれたり得点されたりすると本気で悔しがり、勝てば勝ったで歓声を上げて喜んでいました。
 末の弟も年が離れてはいますが、兄2人と同じことをしたい盛りで、真似事でもなんでも同じように遊んで悔しがったり、喜んだりしていました。母は子どもたちの遊んでいる姿を目を細めながら見ていました。
 そのうちに、私たちは母をこの遊びに巻き込みたくなりました。
「お母さんも一緒に遊ぼうよ」
 声をかけるとすぐに母も加わりました。すると母は意外に筋がよく、ホームランを連発し、私たち兄弟は滅多打ちにあったのです。
 でも、だれも悔しがりません。むしろ、嬉しいのです。母が得点するたびに、私たちは嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。大はしゃぎしてゲームは盛り上がりました。
 
 そんな楽しい時間にも終わりが来ます。夕暮れになり、母が病院に戻らなくてはならない刻限になりました。
 薄暗い玄関で、車に乗せるために、父は軽々と母を抱き上げました。朝と同じように、私たちは病院に母を連れて行きました。
 ベッドに横たわった母は、帰りのあいさつをした私たち3人の子どもの顔をひとりずつ見つめてから、言いました。
「みんな、幸せになってね」
 目に涙を浮かべ、かすかに微笑みを浮かべていた母の顔を、私は今でもはっきりと思い出します。
 母は、それから父に顔を向けて、
「あなたも、いい人を見つけてね」
 父は目を真っ赤にして、「バカなことを言うな」と叱りつけました。

<つづく>


「再録『心が強くなるお墓参りのチカラ』」は、月曜日に不定期(2週間おきくらい)でリリースする予定です。

<前回>
~はじめに~ 

矢田 敏起(やた・としき)愛知県岡崎市生まれ。高校卒業後、自衛隊に入隊する。配属された特殊部隊第一空挺団で教育課程を首席で卒業後、お墓職人となるため、地元有力石材店で修業をする。1956年に創業された家業の石材店を継ぎ、「人生におけるすべての問題は、お墓で解決できる」ことを見出し、「お墓で人間教育」を提唱する。名古屋の放送局CBCラジオで、平日午前の番組『つボイノリオの聞けば聞くほど』に2012年から出演を続けており、毎週火曜日に「お墓にかようび」というコーナーを持ち、お墓づくりや供養に関する話を発信している。建て売りで永代供養の付く「不安」の少ないお墓を提供する「はなえみ墓園」を2020年に始め、愛知県内21カ所(2023年8月現在)となっている。2022年にお寺の本堂を使った葬儀をサポートする「お寺でおみおくり」を始め、2023年にはお墓じまいなどで役目を終えた墓石の適正な処分や再利用を進める「愛知県石材リサイクルセンター」を稼働させた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?