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もう一人の「日本代表」(#005)     「お前には可能性がある」

フィクションみたいだけど、本当の話

 翌日昼前にアラタの家を訪ねた。
 例によってホテル前の路上でリクシャーを拾い、アラタが教えてくれた住所と簡単な道順をドライバーに伝えた。目印になっているのがソフトウェア会社、シマンテック・コーポレーションのビルだというのがいかにもIT 産業の街、プネーらしかった。
 アラタの自宅は立派なゲートのある集合住宅の2階にあった。通りまで迎えに出てきてくれたアラタと握手を交わし、彼の後ろについて玄関まで行くと、2頭の犬たち──チャパティとバルフィ──が飛びついて迎えてくれた。天井でシーリングファンがぐるぐる回るリビングに続いてダイニングキッチン。その奥にさらに2つの寝室があるようだった。玄関のすぐ傍にもやや小さめの部屋がひとつ。普段はサッカー用具などが置かれているが、日本から後輩選手が来ると、この部屋に寝泊まりしていくのだという。日本の間取りで言うと、3LDKということになるだろうか。アラタはここで妻と義母と2頭の犬たちとで暮らしていた。
 充分なスペースがあって快適そうだが、豪邸という感じではない。一国の代表選手がどんなレベルの部屋に住むのが妥当なのか、僕にはそれを判断する情報の持ち合わせがない。が、日本の一般的な住宅事情を元に判断するなら、アラタの家は「中の上クラス」という感じだ。

 アラタによると、プネーFCのインド人選手の大半はクラブの寮で集団生活を送っている。結婚していても、妻や子どもは地元に残し、単身赴任している選手が多いそうだ。外国人選手だけが特別扱いで、家族と一緒にマンションなどの部屋を与えられる。PIO(Peosons of Indian Origin=インド系移民)枠でインドのサッカー界に入ったアラタは、インド国籍を取った段階ですでに「格上の存在」だったので、現在の生活レベルを享受できているというわけだ。
 ダイニングの壁には友人から贈られたというエドワード・ホッパーの『ナイトホークス』の複製画が掛けられていた。ニューヨークの深夜のダイナーでコーヒーを飲みながら時間をつぶす男女を描いたこの有名な絵は、インドに対して僕が勝手に抱いていたイメージとあまりにもかけ離れていたので少し戸惑った。しかし、世界がボーダーレスになっているしるしだと思い直して改めてその絵を見ると、それはそれでこの部屋に合っているように感じられた。
『ナイトホークス』は、完全なるフィクションを創り出すために、リアリティにとことんこだわって描かれた作品だとどこかで読んだことがある。ホッパーはカウンターの上の塩瓶まできっちり写生したそうだ。リアルだけどこの世にない絵のなかの世界。それに対して、アラタの半生は、フィクションみたいだけど本当の話だ。
ダイニングのテーブルに腰を据えて、アラタの話の続きを聞いた。

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