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学生時代の作品を整理したはなし

今年のGWの事である。実家に放置していた学生時代の作品を整理した。
作品を描いていた当時の僕は、遅筆で寡作である事がコンプレックスだった。
遅筆である事は未だにコンプレックスとしてあるのだけれど、寡作である事に関しては、「これ以上あってどうするか」と思える程の物量が部屋には放置されていた事から正しい評価であったとは言えない。
この場合、「これだけしても、残すべき作品を生み出す事が出来なかった」と自身の無力さを嘆くのが正しいと言える。

ノコギリとハンマーで木のパネルを解体し袋に詰めて行くのだけれど、これが全然進まない。
消費される熱エネルギー量に比例して、満杯の袋は着々と増えていくのに対し、それまでArt(アート)と称されていた解体されるパネルは一向に減っている様子がない。
それは、物理法則を凌駕する不可解な現象であった。
なるほど、「これぞArt(アート)の力」そう感心してしまう他に無かった。

さて、僕は初めから自分の作品を処分出来る人間だったかと言えばそうでは無い。
切ったコンテを惜しげもなく、クシャクシャにしてゴミ箱へ放り込む話や、没原稿を汽車の窓からばら撒く話に胸をときめかせる事はあっても、愛着とか未練とか、そうした事から単なる憧れに止まっていた。そんなストイックな潔さは僕には無かった。
しかし、それ以外にも理由があった。それは「必要の無い作品」みたいな物の存在が理解出来なかったのである。
それはきっと、全てはArt(アート)なんて言葉を信じていたからなのだろう。

中学時代の話である。
当時の僕は、「つまらない映画」など存在しないと考えていた。
面白がり方を模索する事も面白さであると思ったし、それを理解出来ずに「つまらない」と片付ける事への軽薄さに、怠惰と不感症故の愚行であると嫌悪を抱いたりもした。

実写版「タッチ」と言う作品に出会ったのはその頃だった。
この世界に、浅倉南は存在しないと言う事実に衝撃を受けた。

しかし、そうして得た教訓も直ぐに忘れてしまえるくらい、この時の僕は若かった。

大学生になり、アートと呼ばれる世界に飛び込んだ僕は、正直かなり浮ついていた。
勇敢で懸命な選択を下した事への高揚感に頭はジンジンと痺れていた。
自分と異なる道を選ぶ人達は、とても不可解な存在に映って見えた。

そんな時だった、浅倉南を見かけたのだ!
生活は一転した。
講義とアルバイトの間を縫って、浅倉南が訪れそうな場所へ足を運んだ。
読書は苦手だったけれど、貸出カードに「浅倉南」の名前があれば、片っ端からそれを読んだ。
他にも、浅倉南の気配を求めて「#浅倉南」でヒットする物を何でも集めた。
浅倉南と同じハンカチ。
浅倉南が使ったかもしれない紙コップ。
浅倉南と同じ位の長さの髪の毛。
そうして気がついた時には、部屋の壁一面からレオタードを着た「いとうあさこ」のプロマイドが僕に微笑みかけていた。

学生時代の作品を整理する事は、四方から投げかけられる「いとうあさこ」の視線に気まずさを感じながらも一つ一つ画鋲を外すそんな作業で、剥がしたあさこの下からまた別のあさこが顔を出す、そんなあさこの無限地獄に心を折られながらも、今ここでやり切らねばとファイトを燃やした。
付け足しておくと、いくつか良い「いとうあさこ」もあったので、それらは整理して部屋の隅に飾られている。

整理を終え、揺れるカーテンを眺めながら、ふとこんな可能性に気が付いた。
実は、本当にやらなければならない事ばかりを、僕は後回しにしてはいないか?

これまでの流れからこんな話をするのも説得力に欠けるのだが、僕は自分の事を行動的なタイプの人間であると評価している。
それは、気になった本は読むようにしているし、映画館や美術館にも気になれば行くようにしているからで、浮かんだイメージや考えもとりあえずはノートに書き付ける事を意識している。
それでも、積んだままの本や作っていないプラモデル、箱にしまったままのフィギュアや、丸めたままのポスターがある事も事実で、今こうして文章を描いている事も学生時代の作品整理同様に、いつかやりたいと後回しにしていた事の一つである。

理由など無く、本当に只なんとなくそう思い付いただけの事だった。
だけど、それは僕にとっての大発見だった。
買ったままの本に、人生を変える魔法の言葉が眠っていたかもしれない。
作られないプラモデルの箱の中に、アイディアの原石が輝ける時を待っていたかもしれない。
それは、そんな可能性の発見だった。

正しさとか正解みたいなものを、真面目に考えるだけ無駄だと分かってはいるのだけれど、この様な文章を描いている事からも、これ迄の選択がベストな物であったかと言えば、そうで無い事は明快で、そんな誤った選択をみすみすして来た事に対し、「悔しい」とか「悲しい」とか「情けない」とか、何とも思う事が無かったなんてちょっとどうかしている。

そんな事から、最近は後回しにしていた事を慌てた様に始めている。
「エヴァンゲリオンが終わるまでにね」なんて約束をしていた友人に連絡を取って食事へ行った。
「シン・ウルトラマン」の公開ポスターが劇場前に貼られている事を少し感慨深く感じた。
文章を書いたり、SNSに過去の作品をまとめる事も少しづつ始めている。
「作品を描いたら、恥をかけ」と大学時代の恩師の言葉を思い出したのも最近の事である。

しかし、これまでの自分と、これからの自分と、何かをやった分だけ何かをやり残すと言った点で、変化が無いと言えばそうなので、何も進展が無いと言われれば全くその通りなのである。

2022.05.29


〈イラストのはなし〉
今年のお正月におめでたい感じで描いたものです。
大して、今回の話と関係はありません。
それでも「始めるぞ!」みたいな勢いと初々しさがあって良いかなと思ってこの絵に決めました。
念の為断っておくと、魔女子さんは全く関係ありません。

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