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夢を追いかけた理由

こにゃにゃちわ。
元外資系航空会社国際線日本語話者客室乗務員のやすりんなんですから。

今日は、わしがなぜ夢を追いかたのかについて少し書いてみようかと思ったり思わなかったりしているんですから。


わし、若い頃に母親が死んだんです。
わしが小学校の5年のときに母親が癌であるとわかり、わしが中学1年のときに死にました。
その間の闘病生活を子どもながらに見ていました。

臀部の辺りが痛いと言って、整形外科にかかるも、肉離れとの診断。整体などにも通っていたが全然良くならない。
東海大学病院で精密検査をするも病名は不明。
国立相模原病院で検査をしたら、癌であることが判明。

そこから闘病生活が始まったんです。

臀部にできた腫瘍を取り除く手術を受けた。今後10年(だったかな?)は再発しないと言われていたが、約3ヶ月後に再発した。医師がそれを母に伝えなかった。
その医師との信頼関係がなくなり、病院を横浜市立大学病院へと変えた。
次の手術では、右の骨盤を切断。それにより当然右脚全体を失う。よって身体障害者に。
奇跡的な回復を見せ、定期的に抗がん剤を投与される。
抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちるなどの副作用あり。
リハビリ病棟では義足を作り歩行練習をする。
最後の方はいつも痛い痛いと訴えていた。モルヒネを投与されてもなかなか効かない様子だった。
3年の闘病生活ののち、死ぬ。

小学校高学年から中学1年の自分はその状況がよく分かっていないのだが、ざっくりと概要は上に書いた通りだ。

「薬のせいで頭がおかしくなっているからね。」
と父に言われてから病室に入った。母はモルヒネの投与で妄想を見ているようだった。時々落ち着きをなくすこともあった。
管につながれいる母を見ながら、それでもなお、病院とは患者を治して返してくれるところなのだと思っていた。わし、子どもだったなぁ。

死を前にすると、死にゆく人は自分が死ぬその瞬間がいつ来るかが分かると聞いたことがある。母もそうだったのだろう。
「食堂に行こう」
と母は言ったが、子どもながらに氣を遣って、こう言った。
「元氣になったら、そのときに行こう。」
それに対して母が悲しげに言った。
「少し見ない間に、随分と変わっちゃったね。」

しばらくして、もう暗くなるからそろそろ帰るようにと父に言われて、病室を去ることになった。
「また来るね。」
とわしは言い、
「バイバーイ。」
と母は言った。

それが最後の会話だった。


中学一年のわし。
生きるとか死ぬとか、全然理解していなかった。いや理解できるはずもない。
とにかく生きようと必死の母の姿を見ていた。
ここには詳細は書かないけれど、壮絶な3年間だった。
母が死んだあと「母はどこかへ行っただけだ」と思い込むことで、涙を止めることができた。理解不可能な出来事に蓋をして過ごし始めた。
以来、「生きるとは何か」「死ぬとは何か」が永遠のテーマになった。


その頃から思い始めた。
人生とは儚いものだ。
仕事をしていた母も、予期せぬ病氣になり、それに3年間闘い、結局死んだ。
自分にもそんなときがいつ来るかもわからない。
それなら、自分のやりたいことをやるべきだと思った。
後悔しないように突き進むべきだと思った。


就職の氷河期を乗り越えて、マレーシア国営石油会社に入り、これまで一生懸命に勉強してきた英語を使って仕事をしたこと。
その後、アジア系航空会社に転職し、航空業界の仕事に触れて、素敵な先輩方に恵まれたこと。

落ちて、落ちて、落ちて、落ちまくって、自分はもう誰にも認めてもらえないんじゃないか、自分の存在意義はないんじゃないか、と追い詰められながらも必死に客室乗務員になるために努力を重ねたこと。

当時まだ日本に乗り入れてなかったカタール航空の客室乗務員募集があるのを聞いて、クアラルンプールにまで試験を受けに行き、一次選考で落とされたが、その理由を聞かせてほしいと尋ねたら、最終面接まで残れた。しかしながら、結果発表の日になっても連絡が来ず、さらに待ったけれど何も音沙汰なく、ついにカタールの本社に電話をかけた。すると、
「女性しか採用しません。」
とあっとりと言われたこと。

招待されていないにもかかわらずエミレーツの面接会場に押しかけて、
「シンガポールで行われるWalk-in Interviewを受けようと思っていたんですが、今日ここで試験があると聞いたので、来ました。受けてもいいですか。」
と言って、最終面接まで受けたこと。

翌年から乗り入れるカタール航空が東京で採用試験をするという情報を聞きつけて、カタールの本社人事部に電話をかけ、クアラルンプールで会った面接官と話した。試験に参加していいと言ってもらえたが、会場の担当者に拒まれたこと。

ルフトハンザドイツ航空の欧州在住日本人募集があったとき、本社に電話をかけて、日本在住だが受けさせてもらえるかと尋ねた。自費でフランクフルトへ試験を受けにこられるなら受けてもいいと言われ、東京からフランクフルトまで飛んだこと。

エアーニッポンから受験票が届いたが、「既卒」のはずなのに、「新卒」と書かれていた。親切心で電話をかけて記載事項を正ししてもらおうと思ったら、
「失礼ですが、男性の方ですか。応募された時点で男性だと判明したら、お断りするところだったのですが、今回は間違って受験票が発送されたようです。」
と性別を理由に試験を受けさせてもらえなかったこと。

キャセイパシフィック航空の試験を受けに行ったとき、試験会場が勤務先の近くだったため、会場に入る姿を外国人スタッフに見られていたらしい。翌日仕事に行ったら、
「昨日、試験はどうでしたか。」
と外国人マネージャーに聞かれたこと。

当時まだ、男性客室乗務員を採用する航空会社が限られていたため、ルフトハンザドイツ航空を第一志望としていた。だから、働きながらドイツ語学校にも通っていて、へとへとだったこと。

最後の数年は「これが最後」と思いながら受けていたけれど、諦めきれなくて、さらにさらにと応募し続けた。でも、もう、これっきりの限界というときがきた。今いるこの会社からも去り、二度と航空業界には戻らないと決めた。オーストラリアのUniversity of New South Walesの大学院から合格通知をもらい、留学することにしたこと。

にもかかわらず、「もう、本当に最後の記念受験。オーストラリアに留学するのだから。」と思って受けたら合格した。その会社さえも4回目の受験だったこと。


本当に辛い歳月だった。
でも、諦めきれなかったのは、母の死を目の当たりにしたからだと思う。

「人はいつ死ぬか分からない。」
そう思ったら、自分のやりたいことを追いかけるべきだと思ったんだと思う。
精一杯生きるべきだと思ったんだと思う。

そんなわしも、闘病生活をしていた母と同じ年齢になった。
これまでの人生を振り返ってみると、自分は今まで一生懸命に生きてきたなと思う。「あのときこうしていればよかった」と思うことがないわけではないが、そのときそのときに無我夢中で頑張ったから、大きく捉えてあまり後悔はない。

この先はどんな人生が続くのだろうか。次の目標はまだ見つかっていないけれど、あまり焦らずにゆっくりと進んで行けたらいいと思っている。


今日は長文になってしまいました。
読んでくださって、ありがとうございました。


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