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そしてまた静かな夜がやってきて、モアは希望を持つ

 1 [夜に魂が肉体を離れる理由]

 凡そ人々が想像し得る全ての青色を軽々と超えるほどの青空の下に、色とりどりの花畑。家の近くには小さいけれど澄んだ水が流れる川があり、その上には此方と彼方を繋ぎ渡す、これもまた小さくカラフルな橋。モアの住む小さなコテージは、そんな場所に建っている。
 そこは一年中ずっと晴れていて、だが同時にある場所は雷鳴と豪雨に襲われている。美しさの中に歪みが存在し、奇跡は当たり前の姿をし、凡庸さは殊更に稀少な振りをする。モアはそこで架空の人々と共に暮らしていた。
 「肉を食べないなんて、狂気の沙汰だな」
 ミスター・カッテージチーズはステーキ肉を含んだ口を、その立派なひげの下でもくもくと動かす。モアはカッテージチーズ氏の前に座り、野菜と穀物を少しずつ口に運んでいる。
 「カッテージチーズさんはいつも自分に冗談のセンスがあると思っているんだからなあ」
 不眠症のウサギがミスター・カッテージチーズをこきおろす。ウサギにはチモシーとオーチャードグラス、オーツヘイを混ぜ合わせたスペシャルサラダ。それと少量のワインがグラスの中で揺蕩う。
 青白い朝日が東から差し込み、西側からは黄金の夕日がウサギとカッテージチーズ氏を照らしていた。
 「大体そんなことをモアに言って、また雷雲の下に住む人々がやってきたらどうするのさ?」
 ウサギがチーズ氏を責め立て、チーズ氏も流石にその言葉にはショックを受けたようで項垂れた。「ああ、そうだな。すまん」
 雷雲の下で暮らす人々はいつもびっしょりと濡れている。彼らの住む場所は真っ暗でじめじめしていていつも雨が降っているから。そこには傷だらけの手首を持つ、手首・切り裂き・ジャックや、ミセス・寝たきり・モレットなどが暮らしていて、彼らはモアが落ち込むといつも晴れ間の方まで出て来た。彼らは彼らなりにモアを励まそうとするのだが、如何せん彼らは雷鳴と豪雨を自動的に連れて来てしまう。そうしていつだって不眠症のウサギやミスター・カッテージチーズは酷い目に遭うというわけだ。
 暖炉の近くでハンクはウイスキーを静かに飲んでいる。ウサギやチーズのくだらない井戸端会議には加わらず、いつも彼は思索の海の上でその四肢を広げて浮かんでいる。ハンクは顔の下半分に芝生のような髭を生やした、気難しくて口の悪い老人だ。だがこの世界の住人はみんな彼を愛している。ウサギやチーズは勿論のこと、手首・切り裂き・ジャックやミセス・寝たきり・モレットでさえも。
 「世界の問題は、知的な者が疑念でいっぱいで、愚かな者が自信満々なことにある」
 ハンクはそう呟いて、煙草の煙をもくもくと口から吐き出す。不眠症のウサギのシャリシャリというサラダを咀嚼する音。ミスター・カッテージチーズはつまらなそうにステーキを食べ終え、ウサギのワインを盗み飲む。
 「ああ! チーズさん! それ僕のワインじゃないかあ!」
 「少しくらい良いだろう? まだボトルは山ほどあるんだ。『ケチな人間はモアの姉になる』と言うだろう」
 「なんだい、それ? 莫迦な諺だ。チーズさんが作ったんだろう、どうせ」
 ミスター・カッテージチーズはがははと笑い、ウサギのワイングラスを一気に空にしてしまう。真っ赤な夕日は飲み干され、透明でひっくり返ったプラネタリウムがその姿を現した。
 チーズとウサギのどたばた騒ぎ。ハンクの赤ら顔の微笑み。モアは静かに席を立って、『窓』を覗き込むことにした。
 『窓』は本当の窓とは違って、違う世界の人々とコンタクトをとれる不思議な硝子窓だ。硝子の表面を指でなぞって文字を打ったり、誰かのメッセージを受け取ったリも出来る。モアは『窓』に昨日撮った写真を貼付けて、『窓』枠の中の赤いポストにカーソルを合わせた。新着メッセージ。便箋の封を開けると『窓』の向こう側から、若い女性がモアに話しかけてくる。
 「何年も付き合った恋人と別れて、人恋しいんです。新しい恋をしようと思うんですが中々出来ないままで……。どうしたら大人の女になれるんでしょうか?」
 モアは一度『窓』から離れて、本棚の前に立つ。ガラス戸を開けると、がちゃんという音がした。モアはこの音が物々しくて好きだ。何冊かの本を開いて、質問の返答に似つかわしい言葉を探す。本達はぺらぺらと甘い匂いのする頁をはためかせ、とても小さな声で多くを語るが、その言葉たちはうまく要約出来そうにないものばかりだ。
 作家たちの執念が、威厳ある声音でこう怒鳴る。
 「当然だ! 他の伝え方がないから、こういった形で我々は伝えているのだから!」
 結局モアは『窓』に向かって、ありきたりなことしか言えない。
 「どうかご自身で本を読んでみてください」
 ウサギが時計の針を十五度ほどすすめると(彼はトランプの女王に見つからないように、そっとそれをやらなければいけない)、空を燃やしていた夕焼けの赤い炎が、徐々に温度をあげて青くなっていく。あと少しすれば黒焦げの夜がやってきて全ては眠る。眠りは死のいとこだそうだ。魂は夜に肉体を離れる。夜は宇宙とよく似ているから。

 2 [不眠症ウサギの夢]
 『窓』は寂しさを埋めてくれるわけではない。それでも人々は『窓』を覗き込んで、手紙が届いていないかとポストの前で指先を行ったり来たりさせる。
 みんな人恋しいのだ。
 モアは知っている。本当に恐ろしいのは雷雨の下の人々ではなく、その更に先にいる人々だ。生臭い匂いと閉塞感。悪趣味な興味がほくそ笑む。裸の女たちはフェミニズムの上で、屹立した矛盾を厭らしく口に含む。
 モアはそれらの人々とどう付き合っていけばいいものか、よくわからない。雷雨を通り過ぎて時折その場所をモアは訪れるが、大体いつも簡単に飲み込まれてしまう。そして疲れ果てて、自分が厭になった頃にやっと出て来れる。命からがら。
 女たちは半分は機械仕掛けで、半分はシリコン製だ。情欲に塗れて、汗だくの身体からは獣の匂いがする。男たちは左手に大金を持ち、右手で女たちを殴りつける。もしくは優しく撫でる。そこの人々はセックスをしていない間は『窓』を見ているか、アルコールに浸っているかで、モアもそこにいる間はその生活に飲み込まれる。
 ミスター・カッテージチーズはいつかそこに行きたいと冗談を言うが、モアは黙って首を横に振る。
 「あんな場所には行かなくて良い」
 モアがチーズを𠮟る横で不眠症のウサギが欠伸をする。雷雨の先でモアが貰ってきた睡眠薬が効いてきたようだ。あの場所の裸の女たちはいつも苦しんでいて、神経過敏で、眠れない。だからそこには至るところに精神安定剤や睡眠薬が転がっている。真っ暗な夜空に浮かぶ星たちのように。割れた窓硝子、貧困、賭け事と違法なものから合法なものまでありとあらゆる薬物。アルコールと煙草と諦観。
 「それで? 『窓』やセックスによって寂しさは埋まった?」
 ミッターナハトは夏の懐の中から抜け出して、モアのコテージまでやってきていた。
 「埋まるわけないじゃないか。じゃなきゃもっと明るい顔をしてるだろうしな」
 すやすやと眠る不眠症のウサギの横で、ミスター・カッテージチーズが笑う。
 「色んなことを考え過ぎなのさ。色んなことを考え込むから変な罪悪感が生まれる。人生の秘訣はよく考え込まないことだっていうのにな」
 そう言って笑ったカッテージチーズ氏をミッターナハトは興味深そうに見つめて、それから「あんたはどう思う?」とハンクに話を振った。
 「そして海はうねり、そしておれは白いページを繰った」
 カッテージチーズ氏は肩をすくめる。
 「なにはともあれ、モアは何をしたら寂しさが埋まるのかに、フォーカスするべきじゃないか?」とミッターナハトが足を組む。
 「おやおや。未来人様は偉大なる精神カウンセラーでもあったってわけか」
 カッテージチーズ氏がそう皮肉を言うと、ミッターナハトは「そうさ」と言ってズボンのポケットからカルテと白衣を取り出した。
 「一体どうやったんだ、その手品?」とチーズ氏。
 「さあ? 想像したらその通りになるんだ。さ、チーズくん。処方箋をとってくれないかね」
 ミッターナハトがげらげらと笑って振り返ると、いつの間にかカッテージチーズ氏は女性看護師の格好をさせられている。ナース服から毛むくじゃらの腹。
 「なっ! これはどういうことだ!」
 カッテージチーズ氏は自分の服装を羞じらい、コテージの奥へと走り去っていく。げらげらと笑うミッターナハト。
 「可哀想なことをするなよ」とモアが言うと、ミッターナハトはウインクをした。
 「悪い悪い、少しからかってやりたくなったんだ」
 きっと不眠症のウサギが起きたら、チーズ氏のナース姿を見れなくてさぞ悔しがることだろう。モアはその姿を想像して少し笑えた。
 「さて」
 ミッターナハトがぱちんと指を鳴らす。気弱そうな男が走って来て、彼の前で立ち尽くす。正に立ち尽くすといった表現がぴったりの男だ。
 「こちらは僕の親愛なる友人であるモアくん。こちら、時間管理局のロンジェヴィタくんだ」
 「ミッターナハト、もういい加減にしてくれ……。ただでさえこの前の猫の一件でジョルノさんはカンカンなんだ。このままじゃ僕は本当に馘になってしまうよ!」
 ロンジェヴィタは泣きべそをかきながら、地面をだんだんと踏みしめる。
 「クアルケのことなんて、このモアくんが如何ようにだってしてくれるさ。君のことを時間管理局の局長にすることだって、彼には容易なことさ。ねえ、モアくん?」
 モアが返答する前に、ロンジェヴィタが目を輝かせる。「僕が局長に? なんて素晴らしいんだ! それって本当かい? 嘘だったら許さないぞ、ミッターナハト」
 「本当に決まってるさ。だから早いところ、時空をほつれさせてくれ」
 「わかったよ。ついてこい」
 ロンジェヴィタはミッターナハトとモアを花畑に連れ出す。そして彼は銀色の道具を使って、花畑に咲く色とりどりの花たちの少し上に穴を開けた。
 時空の裂け目から、様々な『瞬間』が雪崩のように這入り込んで来る。悲しい過去や、楽しい時間、情欲や静謐さや神聖さに至るまで、本当に様々な瞬間が。
 雑多なそれらからミッターナハトはモアに関するものだけを、ぺたぺたとカルテに貼付けていく。そしてその下にタイトルを、青文字の筆記体で書いた。例えば「ジャズ、もしくはクラシック……特にピアノ」とか、「小説……イタリア移民から昭和の文豪まで」、「失ったものたちに関して」とか。
 カルテはあっという間に埋まっていき、ロンジェヴィタはミッターナハトが拾わなかった瞬間を裂け目に戻し続けていく。
 「ふうむ。なるほどね。そうか。よし、決めた!」
 彼がもう一度ぱちんと指を鳴らすと、先ほど逃げ帰った筈のミスター・カッテージチーズがまたもやナース服で登場した。彼はげらげら笑うミッターナハトからカルテを受け取り、処方箋を作成する。
 「ちくしょう、なんで俺がこんな、調剤薬局が出て左の橋を渡ったところにありますから、覚えておけミッターナハト、そこでお薬を受け取ってくださいね、この辱めだけは忘れない、お大事に!」
 ミッターナハトとモアが笑い、ロンジェヴィタまでもが笑った。その笑い声を子守唄に眠り続ける不眠症のウサギは、とても愉快な、それでいてひどく奇妙で色鮮やかな夢を見続けている。

 3 [希望的観測、バタフライ・エフェクト]
 「すっごく楽しい夢だったんだ! 起きたら皆に話してあげようと思ってたんだけどなぁ……。夢はいっつも忘れてしまうね」
 不眠症のウサギがそう言うと、ミッターナハトはくすくすと笑い、ミスター・カッテージチーズがごほごほと咳払いをする。
 「どうしたの、チーズさん? 真っ赤な顔をして」
 「いやな、ごほごほ。風邪かな? もしかしたら」
 「僕のワインを飲み過ぎたんだよ。それで真っ赤なんだ!」不眠症のウサギが喚き散らした。
 「カッテージチーズ氏がウサギのワインを飲み干してしまったって? そりゃあ、酷いな。お仕置きをしなくちゃいけないかな?」と笑うのはミッターナハト。
 チーズ氏は慌てふためき、「俺はウサギのワインを飲み干したりなんてしていない!」と自分の服を抑えて走って逃げ去った。
 「チーズさん、どうしたんだろ? あんなに慌てるチーズさん、僕、初めて見たや。それに、モアは? モアは何処?」
 「モアは病気でね、今お薬を貰いにいってるところさ」
 雷雨や情欲とは真逆の方、小さな川にかけられたカラフルな橋を渡って、更に少し行ったところに空にとどくほど大きな杉の木が生えていて、その根元に複雑な形をした調剤薬局が建っている。
 薬局というより美術館に似たその建物は、中も正に美術館そっくりで、入り口には一枚の絵画がかけられている。モアが近づくと近くに立っていた黒服の男が「足下の線より先には行かないでください」と囁いた。額縁の中では油彩で描かれた女性が目を伏せて座っていて、絵の下には小さな文字で『受付』と書いてある。
 「あの、モアと言うんですが」
 彼がそう言うと、絵の中の女性は伏せていた目をあげて彼を見つめた。
 「お薬手帳はお持ちですか?」
 「いえ、持っていません」
 「処方箋は?」
 「これですか?」
 「はい。どうぞ、お通り下さい」
 受付を通ってモアは奥へ行く。奥は広くなっていて、そこには多くの人物画がしかつめらしい顔をして並んでいた。絵画の中の人々が目を覚まし、一斉にモアを見つめる。視線の音が静かなホールの中に響き渡るようだった。
 立派な口ひげを生やした紳士の絵が、口を開く。
 「ふうむ。衣食住を満たされ、娯楽にも不自由していないのに不幸せなのか?」
 「不幸、というのとは違うとは思うんですが」とモア。
 荘厳な咳払い。
 「ブラッドベリの華氏四五一度を読んだことは?」
 「ありません」
 「読んでみると良い。あれは良い本だ」
 黒服の男が足音を響かせて、モアに一冊の本を持って来た。
 「次」
 ひげの紳士がそう言うと、隣のふくよかで上品な女性が微笑んだ。
 「自分の歪んだセックス観が恐ろしいのかしら?」
 「あなたのような女性とそういった話をするのは、あまり適切には思えません」
 モアがそう言うと、ふくよかで上品な女性は更に微笑みを顔中に広げて優しく言った。
 「お優しいのね。でもフェミニストを装うあなたも、こういった場所、こういった雰囲気でなければ、女性を獣のような目で見ることもある筈だわ。私の前でだけ、取り繕うことに意味があって?」
 モアは黙り込む。自分の心の中の薄暗がりに、足を踏み入れられたような氣がして。
 「あなたは強い欲望を持ってる。セックスに対して、酷く歪んでいて恐ろしい情欲を。それは女性を軽視していると思われても仕方の無いようなセックス観で、普段のあなたにとっても不愉快だけれど、あなたの中の男の部分がそれに逆らうことが出来ないのね」
 モアの心が痛む。ずきずきと。
 「あなたはフェミニスト? ミソジニスト? 平等主義者? それとも差別主義者かしら?」
 モアの喉から嗚咽が漏れ、涙袋から涙たちが出てくる。涙は彼の心が壊れてしまわないように、胸の中の棘を一本ずつ抱いてせっせとモアの身体から出て行く。最初は自立していた一粒一粒が徐々に雪崩のように転がりはじめ、最後は大きな河になった。それは酷い豪雨の時の雨の降り方とよく似ていた。
 身も世も無く、モアは泣いた。喘ぎ声に似た嗚咽と、塩辛い海の水のような涙を流して。涙はモアの足下に流れ、薬局のホールを右と左に分ける大きな河になった。湿気に弱い絵画たちはなんとかモアを泣き止ませようとしたのだが、無駄な試みに終わった。
 黒服が川に堤防をつけて、除湿器をかける。それで絵画たちはやっと胸を歯で下ろすことが出来た。
 「僕は強姦魔だ! 本当の強姦魔たちと同じくらい卑劣で、醜い、精神的な強姦魔だ! 僕は僕のシングルベッドの中で、『窓』越しに多くの見知らぬ女性たちをその歪んだ性欲の餌食にしている! その癖、その癖して、外では服装と髪型を整えて紳士の振りをしているんだ!」
 おいおいと泣きすがるモアを、絵画の中の女性が悲しく見下ろす。彼女は何も言わず、その他の絵画たちも口を噤んでいた。
 セックスは秘されている。だから学ぶことが出来ない。誰もがセックスに不満を感じたり、セックスに対して恐怖や罪悪感を抱えている。だがそれについておおっぴらに話し合われたりはしない。それは奈落の底に、地獄に堕ちるような恥ずべき行為だとされているから。
 調剤薬局の中は静まり返り、モアの嗚咽だけが響いている。一枚の絵画の中から、一人の男が声を発した。
 「我々はもっと話し合うべきかもしれない。セックスについて。金について。戦争の愚かしさについて。愛について。悲しみについて。死について。幸福について。神について。政治について」
 「だが、誰と?」他の絵画が、更に質問する。
 「そんなのって面倒くさそうな顔をされてお終いだわ」ベールをかぶって、『窓』を見つめる婦人の絵画が気怠げな声で呟く。
 「勿論、面倒くさがる人も、そんな会話を嫌がる人もいるだろうが、中には深く会話をしてお互いの魂に触れられるような瞬間に立ち会える人もいる筈だ」ひげの紳士が厳かに言う。
 「希望的観測!」
 「希望的観測!」
 「希望的観測!」
 絵画たちはぎゃあぎゃあと騒ぎ始め、彼らの中で喧々囂々と議論が交わされ始めた。
 「諸君、聞いてくれ!」
 ひげの紳士が大きな声で絵画たちを制すると、絵画たちはぴたりと喋るのをやめて、紳士の方を見た。モアも紳士の言葉に耳を傾ける。
 「つまり、私が言いたいのはそれなんだ。いつから希望を持つことは莫迦げたことだと言うことになったのか、ということだ。いつから絶望と悲哀こそが現実だということになったのだ? 希望的観測、大いに結構じゃないか。現実に希望を持つこと、それこそが重要なのではないかな」
 「希望を持てば持っただけ、裏切られた時が辛いですわ。ならば最初から何も期待していない方が」とベールをかぶった婦人の絵画が、また気怠げな声で言う。
 「そうだ、そうだ!」とまた何枚かの絵画が婦人に賛同し、大きな声で野次を飛ばす。ひげの紳士は彼らの野次と議論を辛抱強く聞き、それからまた言った。
 「クリスマスや誕生日にプレゼントが届かなかったからといって、絶望するのはあまりに早計すぎるのではないかな。贈り物のタイミングは生きている限り、何度もやってくる。たった数回の失望によって、希望を捨てるのはパンクチュアルに過ぎるよ」
 今度は大きな壁掛け時計と共に描かれた、神経質そうな痩せた男の絵画が口を開く。
 「パンクチュアル過ぎる? 時間をきちっと守ることの何がいけないのでしょう? 時間を守ることは社会人としての
第一歩でしょう」
 モアはくすっと笑った。社会人? 彼らはキャンバスに塗り付けられた油彩絵の具の層に過ぎないのに。しかしそれを言うのなら、モアだって単なる地球に生まれた人間という動物に過ぎないが。ひげの紳士は神経質そうな痩せた男に答える。
 「『過ぎたるは及ばざるが如し』もしくは、『帯に短し、襷に長し』という言葉を知っているかな? これはどちらも丁度良さを讃える諺だ。ルールは約束事だ。約束は飽くまで自分が守るものであって、他人に強要することではないのではないかな?
 「ところでモアくん。ヴォネガットのタイタンの妖女は読んだことがおありかな?」
 「いいえ、残念ながらまだ」
 「ふむ。あれも良い本だ。是非読んで見ると良い」
 また黒服がやってきて、涙の川をぴょんと飛び越えて、本をモアに手渡した。
 「物事は全てが繫がっていて、点をひとつだけ取って眺めてみても理解することは出来ない。我々が近くで見つめられれば、単なる絵の具の塗り重ねに過ぎないのと同じようにね」
 ひげの紳士はそう言って、自分のひげを格式張った触り方で撫でた。
 「バタフライ・エフェクト、ですね」とモア。
 「ああ、因果律だ。君にはその二冊の本と希望的観測、そしてこの因果律という考え方を処方しよう。さすればウィンストン・ナイルズ・ラムファードのように君も考えることが出来るようになるかもしれない」
 「もし僕がその薬を処方されても、部屋の片隅で埃にまみれさせてしまったら?」とモアが訊ねる。
 「その時は、君が苦しむだけだ。私には関係がない」
 ひげの紳士は微笑み、ふくよかで上品な女性もころころと笑った。それを切っ掛けにして、絵画たちは皆笑った。
 「朝晩二回、希望的観測を忘れずに摂取して。そして物を見る時には必ず因果律を通して見るようにね」
 紳士の声と黒服の誘導に促されて、モアは調剤薬局を出て家へと向かった。
 世界は変わらずに平凡で、かつ神秘的だった。
 
 4 [大雨の中で笑うミセス・寝たきり・モレット]
 また静かな夜がやってきて、キースジャレットの身軽な指達が、鍵盤の上で跳ね回るのをモアはぼうっと見つめている。誰かと何かを話したくて『窓』をスクロールしてみたりもしたが、結局『窓』越しに誰かと何かを話すことなんて不可能だった。それが大切なことであればあるほど。
 「お薬をとりにいってから、モアはなんだか変だよ」
 不眠症のウサギがミッターナハトに耳打ちする。ミッターナハトはグランドピアノの屋根にその背中をもたせかけていた。
 「物思いに耽ることは、変なことでもなんでもないさ」
 ミッターナハトは静かに声を殺して笑う。指の奏でる、滑らかなバニラと樽香、それに少しだけ磯の馨りのする語りかけの邪魔をしないように。
 静かな夜は貴重だ。モアはそれを誰かと共有したいと思うが、貴重なものを共有するべき人間などそうはいない。莫迦な選択をして、それをどこにでもある莫迦騒ぎや不毛なお喋りの砂漠に変えてしまうくらいなら、よく冷えた酒に似た孤独とうそ寒さをひとりで楽しんでいる方がいい。
 静寂はなぜかいつも、淡い青色の服を着ている。シャイな彼女は誰もいなくなってからでないと、その姿を現してはくれない。モアはいつも自分の傍に居てくれれば良いのに、と話したことがあるが、彼女は場がしらけることに耐えられないからと言って俯いていた。
 遂に誰かと話したくなって、モアは昔話をし始めた。『窓』に向かって。それは感情の奔流だ。美術館に似た調剤薬局をふたつに割ってしまう川に似た類いの、彼の心の奥底に隠された言葉たちだ。
 それを話すことが良いことか悪いことか、モアには判断がつかない。いつだってそういうことを話した後はばつが悪い気分になる。しかしそれは時として必要なものでもある氣もするのだ。大泣きした後に、気恥ずかしい氣分になるのと同じで。
 冬は夜が長い。花畑の花たちも、静かに眠ったり、ひそひそ話に花を咲かせたりと、様々に過ごしている。
 モアは涙を拭いて『窓』を閉じる。
 「素敵なものは見つかった?」とミッターナハト。
 「ブルーライトで頭痛が酷くなっただけだったよ」
 不眠症のウサギはソールライターの視界の断片たちを、部屋の天井に渡した麻ひもに吊るしている。天気のいい日の洗濯物たちのように。
 モアはライターの撮る写真たちが好きだ。その中には物語が綴られていて、人々は生きてそして死んでいくという事実が刻まれているから。モアは思い出す事が出来る。誰かの愛おしい思い出の日々に浸りながら、今手にしているものもいつかは無くなるんだということを。
 「そしておれはかの女の名前と、うん、目を思い出す、そしてかの女の左肩の小さなあざを、それでおれたちは悲しみ、悲しみの中に沈む、沈む。油のしみのできた部屋にすわる、トウモロコシのゆだる音に耳を傾けながら」
 ハンクがそんな言葉で一片の詩を閉じる。乾いた悲しみ。静かな孤独。饒舌とは一番遠いところにいる、言葉の使い途。それはコントロールするのは酷く難しく、いつだって手こずらされてしまうけれど。
 夜が更けすぎる前に眠ってしまおうとモアが言って、みんなはそれぞれ椅子から立ち上がって寝室へ行く。不眠症のウサギ以外は。
 「睡眠薬が切れてて眠れないよ。ねえ、知ってる? 朝方がやってくる直前が、夜は一番暗いんだ」
 「おやすみ、不眠症のウサギ」とモア。
 「おやすみ、って今夜を閉じる為の緞帳かな? それともまた明日、の兄弟かな?」
 返辞をする代わりに、キースの指たちが鍵盤から離れて、部屋の電気をぱちっと捻った。暗転。「ねえ、どっちなのかな……」
 ミセス・寝たきり・モレットが遂に死んだというニュースを、ミスター・カッテージ・チーズが持って来たのは翌朝のことだった。
 「まぁ、ほとんど死んでいたようなものだったけどな」
 コテージの外には複雑に入り組んだ足場が組まれ、それらを白い太陽光が白飛びさせている。モアの住処を少し広くしようとしているのだ。三階建てにして日の差さない部屋に本たちを眠らせる必要があるし、朝日を取り入れる部屋と西日を取り入れる部屋のそれぞれを作らなければいけない。
 不眠症のウサギが朝日に目を眩まさせられて、ぼうっとしていてくれて良かったとモアは思う。ミセス・寝たきり・モレットはウサギの叔母だから。
 モアは古い箪笥の中から喪服を引っ張りだして、虫除けの匂いの中に身体をねじ込む。多少皺になっていたが、突然のことだったし、直さずに出た。どうせ向こうは大雨だ。
 雨粒が棺桶の上でチェックマークを作っていた。手首・切り裂き・ジャックは棺桶の前に立ちながら、辞めた筈の煙草を吸っている。
 「やあ、モア。来てくれてありがとう」
 「当然じゃないか。モレットの最期はどんなだった?」
 「さぁね。深夜に彼女の部屋から音がしたんで、俺はノックをしたんだ。だが返辞がなかったから、寝返りでも打ったのかと思って俺ももう一度寝ることにした。もし、あの時にドアを開けていれば、助かったかもしれないな」
 モアは寝たきり・モレットの遺体を見つめる。それはよく出来た蝋人形のようで、なんだかモアには現実味が湧かない。もうモレットが話さないなんて。びしょ濡れの気弱そうな笑顔や、彼を慰める冷たい指先を感じられないなんて、信じられなかった。
 「モレットの写真はある?」
 「こんなもので良ければ」
 ジャックは棺桶の横に置いてあった缶からの蓋をあけて、何度も濡れてそれから乾いたのであろう皺だらけの白黒写真を取り出した。白黒写真の中でも大雨が降っていて、びしょびしょのベッドの上でモレットが悲しそうに微笑んでいるのが雨の作る斜線越しにうっすら見える。
 「俺たちの死はモアにとって良い事かもしれないよな。こんな雨の下にいる俺たちの死は」とジャックが言う。
 モアは何も言わず、濡れたモレットの写真を見つめている。全ては通り過ぎて、思い出と言わなかった言葉だけが残る。古い写真のように。
 「モア、お前は外に出て行くんだ。これから沢山の人と出逢って、お前の心の中に溢れる言葉や、物語を共有するんだ。良くなっていくさ。良くなっていくんだよ。寝たきりもレットのことは忘れてな」
 「希望的観測、か」
 「ああ、希望を持つんだ。希望は幻想や煙のようなものじゃないし、表面だけの綺麗事や嘘とも違う。お前の人生はこれからなんだ。沢山、希望を持てよ。持ちきれないほどな」
 悲しい朝が過ぎ去って、やがてまた静かな夜がやってくる。

 コテージに戻ると、ハンクはワインにくちづけをしていて、キースの指たちが鍵盤の上を滑らかに滑っていた。ミッターナハトはピアノの屋根の上。
 「カッテージ・チーズは?」
 「モンローの格好をさせたら逃げたよ」とミッターナハトが笑う。「家に帰ってステーキでも食ってるんだろ」
 「モンロー姿のチーズか。あまり見たくないな。あんまりいじめてやるなよ、可哀想だぞ。不眠症のウサギは?」
 モアはウサギのことが心配だった。叔母が死んだことは、もう彼の長い耳に届いてしまっただろうか?
 「セクシーかと思ったんだ。彼って、肉付きが良いだろ?」ミッターナハトは声を殺して笑う。キースの指先の社交ダンス。「ウサギは昼過ぎから見てないよ」
 モアはコテージ中を全て探して回ったが、不眠症のウサギはいなかった。心を病んでいて、真っ赤な目をした可哀想な小さい気弱なウサギ。誰もいない部屋の暗さと薄ら寒さが、モアの不安を増大させる。一体どこへ行ってしまったのだろう?
 「ミッターナハト、ウサギがいないんだ」
 氣がつくと、ハンクも揺り椅子の上からいなくなっている。キースの指たちも。音のしないグランドピアノの屋根によりかかって、ミッターナハトは読書をしていた。
 「ハンクもいない、キースの指先たちも、みんなどこへいってしまったんだ?」
 「モア、落ち着けよ。人生にはそういう時もあるのさ。因果律を通して見ろって、絵の中の紳士に言われたろ?」
 「でもみんながいなくなってしまった」
 「いなくなったりしないさ。ハンクの代わりに康成が来たり、ファンテやルシアやソーンダーズ、春樹、洋子、香織、色んな人々が訪ねてくれるじゃないか。人生には色んな場面があるんだ」
 「でも、ウサギは叔母さんが死んで悲しんでいるかも知れないのに……」
 「あのウサギは叔母さんにいつも酷い目に遭わされていた」
 「そうはいっても、それでも肉親じゃないか……」
 モアが窓の外の暗闇を見つめてそう言ってから振り向くと、ミッターナハトももういなかった。夏の懐に帰ったのかもしれない。なにせ今夜は寒すぎる。沈黙するグランドピアノの滑らかな曲線。
 誰もいなくなったコテージの部屋に静寂が訪れた。イツモ通りの青い服。
 「見て、窓の外を見て。窓の外に未来がやってきてる。未来は真っ暗だわ。でも目を凝らせば、よーく目を凝らせば見える筈よ。あなたは多くの人と多くのことを語り合えるようになる。私があなたの元を訪れる機会がなくなって、拗ねてしまうようになるほどにね。多くのことを語って、多くの人の話に耳を傾けて、自分の答えを見つけるのよ」
 希望的観測と因果律の横に、二冊の古びた本。
 暖炉に火がついて、揺り椅子の上にヴォネガットが立ち現れて、茶目っ気たっぷりの笑顔で話し始める。
 「今ではどんな人類も、人生の意味を自分の中に見つけ出す術を知っている。しかし、人類がいつもそう運が良かったわけではない……」
 モアは静寂と一緒にそれに耳を傾けて、因果律について考えを巡らせる。バタフライ・エフェクト。一見関係のない物事同士が繫がって、ひとつの絵を浮かび上がらせる。
 ウサギが吊るした写真たちがすきま風で揺れた。誰かの人生の切れ端。今はもうその四角い窓の中にしか存在しない、一瞬たち。その奥で大雨の中で笑うミセス・寝たきり・モレットがいる。
 人間は一貫などしていない。表と裏と右と左が組み合わさり、ひとりの人間を構成している。様々なモアは矛盾しながらも組み合わさり、そして時折痛みを伴って乖離しながら、なんとかバランスをとっている。
 星空はその全てをを記録している。モアの始まりから、終わりまでも。夜はまったく宇宙とよく似ている。今夜はよく眠れそうだ。

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