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憂いを含んで、きもちがいい

 1

 横幅は百四十センチほどあるのだが、奥行きが五十センチほどしかない。それに高さや材質の問題もあるからなぁ、と高階綺麗(たかしな・きれい)はメジャーを手にううむと唸った。窓から差し込む橙色の西日が、彼の座るいすの足下を照らしている。
 仕事机を新調したいのだが、なにせ毎日使うものなので、氣に入ったものを購入したい。近所の量販店にも行ってみたのだが、そこまで安くもなく、かといって物が良いわけでもないそれらの品々を、綺麗は好きになれなかった。
 部屋の外から子供たちが騒ぐ声が聞こえる。パパー、と綺麗を呼ぶ声が、きゃあきゃあという甲高い笑い声の合間に混ざる。扉をあけると、叫び声と笑い声をあげながら、小さな火の玉のような命たちは綺麗のふとももに飛び込んで来た。
 「楽しそうだねぇ」
 子供たちは上気した頬をやっと春を迎えた雪国の林檎のように染めて、綺麗の周りをぐるぐると追いかけっこしあう。綺麗はただ佇んで、ゆっくりとそれを見つめていた。
 綺麗が結婚したのはもう十年も前のことで、なんだかそれは信じられないことのように思える。
 つい最近まで、学生だったような氣がするのに。
 もう長女は七歳になるし、下の男の子は五つになる。自分なんかが人間を育てられるのだろうか。八年前に妻に妊娠を伝えられた時に、綺麗は少し不安になった。妻も何も言わなかったが、きっと彼女も不安だったに違いない。
 しかし氣がつけば子供たちはすくすくと育って、自分は書斎に置く机の心配などしている。不思議なものだ。
 台所から漂ってくる美味しそうな馨りと音が、しっとりと綺麗の肩にしなだれがかっている西日を、更にゆっくり蕩けさせていった。

 その週の土日は、特に晴れていて、綺麗は子供たちの声で目を覚ました。
 まずは、いいてんき、パパ起きて、でかける、ふるほん、という単語たちの断片だけが暗闇の中で聞こえて、そして暗闇に裂け目が出来て、そこから大量の色と光と現実たちが津波のように雪崩れ込んで来た。
 「パパ! てんきいいから、つれてって!」
 男の子の笑顔としっとりとした小さな手の感触。ベッドの端で飛び跳ねている、長女の笑い声。つれてって! つれてって! 
 「パパ、まだ寝てるじゃない。起こしたら可哀想よ」
 妻の声が遠くで聞こえて、綺麗は枕元に置いてある眼鏡をかける。
 「おはよう。大丈夫、起きたよ。まずは順序立てて、説明してくれるかな」
 じゅんじょ! てんき! つれてって! きゃあ! あはは!
 ことばたちはひらめいて、清々しい休日の朝の天井近くを飛び交う。子供の手はなぜこんなにしっとりしているんだろう。綺麗は男の子に頬をぺたぺたと触られている。子供たちからは甘い匂いがする。角のない、まあるい食べ物の匂い。
 「天気がいいから、何処かに行きたいんだって」
 ベッドの上で上半身を起こした綺麗に妻が言う。身体が重い。まだ頭が起きていないようで、いちいち行動するのに時間がかかる。
 「公園かな、どこかな」
 ふるほんやー! 長女がそう叫んで、男の子が続く。へるほにゃー!
 「ヘルホニャ、じゃなくて、ふるほんや、ね」
 綺麗はそう訂正したが、子供たちはおもしろがって、へるほにゃ、へるほにゃ、と叫んでいた。綺麗は頷いて、着替える事にする。ヘルホニャに行く為に。

 古本屋へは大通りを真っすぐ進めば行けるが、大通りは車が多いので綺麗は裏道を通る。裏道は車も少なくて、子供たちが自由に歩ける。家々の庭に咲いた花を眺めたり、同じように車や人混みを避けてやってきた野良猫との邂逅なども楽しみのひとつだ。
 子供たちは猫を見つけると、指先を出して舌を鳴らす。昔に綺麗が教えたことがあるのだ。野良猫が逃げるのは、君たちが大きな声で騒ぎすぎるからだと。それ以来、彼らは猫を見つけても騒がない。まるでその道のプロのように、長女が男の子を制して、二人で腰を落とす。そして手を仰向けに人差し指を差し出して舌を鳴らすのだ。
 ちっちっち。ちっちっち。
 綺麗はその光景を見るのが好きだ。小さなダンサーたちが、腰を落として舌でカウントする。ちっちっち。猫は遠くから目を丸くして、その様子を伺う。道の端からビッグバンドが飛び出してきて、眩いばかりのショーが子供たちと猫によって行われる光景を想像して、一人ほくそえむ。
 ちっちっち。
 擦り寄ってきてくれる猫もいれば、さっと逃げてしまう猫もいる。猫にも様々な性格がある。懐っこい子や、警戒心の強い子。臆病な子に、勇敢な子。
 子供たちは明るく優しく育ってくれている。ちっちっち。嬉しさに顔を綻ばせる父親と、しゃがんだ子供たち、そして欠伸をする猫。裏道の咲き始めの梅の花が、それら全てを黙って見つめていた。

 親子は、いつまで経っても近寄ってくれない猫に別れを告げて、先に進んだ。行きつけの個人経営の小さな喫茶店を通り過ぎた先にある、年寄り犬を飼っている家の近く。「あれなに?」と子供たちが叫んだ。
 近づいて見てみると、それは壁に立てかけられた杖だった。足の悪いご老人が買い物帰りに立てかけて、忘れて帰ってしまったのだろうか。杖を持ち上げて見てみると、持ち手の近くに小さな札を見つけることが出来た。達筆な文字で書かれた、名前と電話番号。
 壊さないように、と忠告して子供たちに杖を渡し、綺麗は携帯電話で杖に書いてあった番号に連絡をした。もしもし。静かな声が受話器の向こう側から聞こえた。これこれこういった場所で杖を拾って、ご連絡した次第なのですが。ああ、良かった。どこにいったかしらと困っていたところなんです。ありがとうございます。
 「どうやら、おばあさんが忘れていった杖らしい。この近くだそうだから、一旦届けに行ってあげようか」
 電話を切った綺麗がそう言うと、男の子がヘルホニャと不満げに言ったが、長女はそれをたしなめるように注意した。ふるほんやはいつでもいけるわ。でもおばあさんは杖がないとこまるのよ。足が痛いんだもの。
 長女の成長もさることながら、その一言で自分の楽しみを押し殺して頷ける男の子の賢さにも綺麗は驚いた。自分だったら、こんな年齢の時にこんな事情を理解し飲み込むことなど、到底できなかっただろう。

 2
 杖を忘れたご婦人の家は、小さな一軒家だった。庭先に美しい桜の木が一本生えている。杖を届けると電話越しに聞いたのと同じ静かな声で、婦人は礼を言った。どうぞおあがりになって、お茶でも。綺麗はとんでもないと断ろうとしたが、婦人の飼っている猫が玄関近くの階段から降りて来てしまい、子供たちが乗り気になってしまった。ちっちっち。
 婦人が猫を抱き上げて、子供たちに手渡す。長女が代表して抱いた。姉を羨ましそうに男の子が眺める。お父様も是非。綺麗は諦めた。いやはや、申し訳ないです。それでは失礼します。
オダマキです。彼女はそう名乗った。それが織田麻紀という名前だと認識するのには、少し時間がかかったが。彼女は藤色の美しい着物をさらりと着ていて、その着物は彼女の皮膚であるかのように彼女によく似合っていた。まるで何も着ていないかのように、自然で着心地もよさそうに。
 猫は大人しい猫で、子供たちに静かに抱かれて長女の顔をまあるい目で見つめている。
 「その子はコットンという名前。綿のような毛でしょ」
 老婦人は台所に向かいながら、子供たちにそう告げた。子供たちがコットン、と小さな声を出す。コットンは震えるような声で、ニャ、ニャ、と短く返事をした。
 返事をしてくれた嬉しさに、男の子は大きな声を出しそうになって、自分の口をその小さな手で抑える。そして指の隙間から、お姉ちゃん、とだけ言った。長女は頷き、大きな橙色の微笑みでそれに応えた。
 「珈琲? 紅茶? 煎茶が良いかしら」
 煎茶を戴きます。薬缶に水を入れる音と、火を点ける音が響く。綺麗は生活音が好きだ。傾きかけの西日が入ってくるダイニングは、よく片付いていて清潔だ。ダイニングテーブルに腰かけて、部屋を見渡す。リビングの硝子キャビネットの中に、幾つかの美しい食器。
 ダイニングは庭に面していて、桜の木が和風に揺らされ心地よさそうに目を閉じているのが見える。
 「美しいお家ですね」
 「散らかっていて、ごめんなさいね。元々は夫と子供たちと四人で住んでいたんですけれど、子供が独立して夫と死別してからは一人暮らし。あたしみたいなお婆ちゃん一人には、広すぎるの」

 織田麻紀女史との付き合いは、それが始まりだった。徐々に休みの日の子供たちの催促が、ヘルホニャ、から、コトンになり、女史の「子供たちがいると賑やかで嬉しいから」という言葉にも甘える形で度々家へ伺うこととなった。
 何度目かからは妻も付き添い、夕食を一緒にとったり、何か食べ物を分け合ったりと、高階一家と織田女史の親交は更に深まっていった。
 コットンは白い美しく物静かな猫で、子供たちと一緒に遊ぶというよりは、子守りをしてくれているように見えた。いつもコットンは少し高い位置に寝ており、高階一家が来るとそこで薄目を開けて尻尾をぱたん、ぱたんと振った。
 綺麗は女史の淹れてくれる煎茶が、とても好きだった。澄んだ味で、ごくごくと飲んだ後には、必ず不思議な柔らかい甘みが一陣の春風のように味蕾の上を駆け抜ける。なので必ず、彼は女史の家に行くと珈琲でも紅茶でもなく、煎茶を頼むのだった。
 氣付くといつも子供たちはコットンと一緒に眠ってしまっている。庭に面した硝子戸から西日が差し込んで来て、それが随分傾いた頃に高階一家は織田家を後にする。帰りは妻と綺麗で、二人の子供を背中におぶって。
 「その時間は一瞬だから、大切になさい」織田女史は言った。
 子供たちが小さくて、夫婦の傍にいてくれる時間。そして夫婦共に若く、お互いが共に家庭を造り上げることに一生懸命な時間。
 それは春のように、あっという間に過ぎ去ってしまう。確かにその後には楽しい夏も、美しい秋も待っている。けれど人生の春は振り返ってみれば短い期間で、過ぎ去ってしまえばとても羨ましく思える。だから今を大切に慈しみなさい。彼女に言われた言葉を夫婦は噛み締めながら、夜になりかける町を家路につく。子供たちの高い体温を背中に感じつつ。

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