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グッド・ウィル・ハンティングは「愛」の重要性を語る映画なのか。「親友」「さらけ出す」とは何なのか。

グッド・ウィル・ハンティングといえば、映画好きキャラが自己PRのために「好き」という映画、という認識だった。十数年前、大学生のときに観たときはなんか説教くさあいなと思っていた。友人が非常におすすめしていたので、今回改めて観てみたら、けっこう楽しめた。

一般的には、ショーン(心理学者)がウィルに対して投げかける言葉と、それによりウィルが(彼女との付き合いを通じて)変っていくところに感動する人が多いようだ。

ある感想サイトには以下のように彼のセリフがまとめられているほどなので、一般的にはそういう映画だと思われているといえる。

「本当の喪失と言うのは自分よりも愛するものがあるときに起こるものなんだ。」
「初めの一歩を踏み出すのを恐れている君は決してそのような関係を持つことはないよ。君は離れたところでマイナス面だけを見ているからね」
「君は僕に朝、愛する女性の隣で起きるという、心からの幸せがどんなものか教えることができない」
「君は完璧じゃないんだ。君が出会った女の子も完璧じゃないのさ。でも問題はお互いにとって完璧かどうかなのさ」

なぜこれに感動するか?

それは、自分の弱さや癖などをさらけ出し、それでも認めてくれるパートナーがいることが何より幸せだ、そういうパートナーや親友を持て、という誰もがわかっていつつも実現できない痛いところを突いているからだろう。ありきたりなアドバイスであるが、表現がよいということだろうか。たしかにストーリーや役者の演技は素晴らしかった。

でも、私が思ったのは、それは押し付けではないか?なぜ人に自分をさらけ出して愛すべき関係をもたなくてはいけないのか?もしそのように聞くとショーンなら「自分が経験的にそれが人生で一番重要だったから」だと答えるだろう。

そうすると、それは「あなたの経験では」ということであり、私は違うかもしれないじゃないか。という話になる。

つまり、きつい言葉で言ってしまえば「私はあなたのようになりたくない、だからあなたのアドバイスなんか聞かないほうがいい」問題が発生する。(たしか、こういう台詞が実際どこかにあった気がする)

ここが際どいところであり、よく考えるべきところだ。

ショーンはかなり客観的に物事を見れる人物だと思う。だから、そんな彼がなぜ安易に「君はこうするべきだ」という明確な方向を示すのか?

それは、やはり彼自身が心から確信していることだからだろう。

どんな人間にも当てはまる普遍的な価値として「愛」を見出している。だから、そういう体験をまずはしてみろ、とショーンに言う。端的に言ってしまえば、「数学などよりも愛のほうが圧倒的に重要だ」と言っているのだ。

このように深いレイヤーで助言をしてくれる先輩の存在はありがたい。逆に、ランボーのように「数学のプロとしての道」という具体的すぎる方向を示すことは浅いレイヤーのアドバイスといえよう。

ウィルは、ショーン のアドバイスが本気の言葉であると思ったのだろう。そして、それは人間であれば誰にでもあてはまる大事なことなのだろう。

最後にどうでもいい話だが一つ気になったところがある。

ショーンがウィルに「親友soul mateはいるか?」と聞く場面だ。

ウィルが「親友」の定義を聞くと、ショーンは

「刺激を与えるものsomebody who challenges you」

「魂に触れるtouches soul」

といっている。

ウィルが親友として「ニーチェやシェイクスピア」を挙げるが、ショーンは「それは会話できないだろう」と非難する。

私としては、上記の親友の定義は「本当 見たくないものに目を向けさせてくれるような存在」と言い換えられると思うが、そうであればニーチェでもいい気がする。それで行動が変わることもあるのだから。それがなぜ大事なのかをもっと説明してほしい。

ショーンの力点は、やはり、そのような心の深いレイヤーで人と会話というやり取りができることが重要ということなのだろうか。

深い人間関係を親友やパートナーと作ることがよいことだとは誰しもなんとなくわかっている。そして、そのためには自分をさらけ出すことが重要だともわかっている。それがわかっている大人からみたら分かりきったことである。そこまでを再認識させてくれたが、もう一歩何かがほしいと思う映画だった。

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