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語学教育における「科学」と「先生の経験」の脆さ #英語 #中国語

語学サービスが「科学的」という言葉を使うのは問題ないと思うが、少し慎重になるべきだ。

語学で「効果が科学的にある」という結論はどこからくるか?
もちろん、それはそれを実証するための実験から。

例えば「音読」の効果を実証する実験。

被験者である学習者をAとBに分ける。
そして、Aには「音読」をさせ、Bにはそれをさせないで違う練習をさせる。
Aのほうが「あるテスト」でよい点数をとったら、音読は科学的に効果があるといえることになる。

こんな緩いものなのだ。

もちろん、もう少し厳密に実験はなされているだろうが、ツッコミどころの本質は変わらない。

AとBが実験期間中に他の学習をする可能性もあるし、実験者が把握している学習に対しても音読以外で何かを見出しレベルアップすることだってありえる。

Aは海外ドラマを見て、モチベーションが上がってBより沢山勉強したかもしれない。そもそもAは別の外国語を高いレベルで習得済みで語学の素養があったかもしれない。それくらいは調べるかもしれないが、(少し離れて)母国語の国語力等も語学の習得の過程に大きな影響があるだろう。

実験の最後にする「あるテスト」とは何か?それで語学力を測ることが適切なのか?音読と直接的にリンクするような能力を測るのなら、そりゃ高いスコアが出るだろう。

こうして導かれた「音読には語学上効果がある」という結論は、かなり脆いと思われる。

実際、こういう実験よりも通訳経験者などが自らの学習経験を細かく綴った語学日記のようなもののほうが圧倒的に真実に近い気がする。國弘 正雄氏の『國弘流英語の話しかた』などいい例。

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こうした実験以外にも、「先生の経験」も吟味が必要だ。

特に大学や語学スクールで、大人数にざっくり教えている先生たちの経験だ。

こうした先生は、語学サービスを提供しているときに何の課題を解決しているのか。

「そこまで語学に熱中しているわけではない人に、学習における僅かな接点において、知識を教授する」ということがミッションである場合が多い。前段から説明すると、特に大学の第二外国語の授業などはやる気のない学生が多い。そうすると、先生はこういう人たちに何とか興味をもってもらおうと授業をする、はず(しない人も多いが)。すると、それで興味をもってもらえれば価値ある授業だが、それはそういう人たちには価値があるというだけの話にもなりうる。やる気があってどんどん先に進みたい人からすると、よい授業ではないかもしれない。

また、後段の意味は大人数に教授する場合、週1などで知識を教えてることが中心になる。中国語なら、ピンインの読み方などの知識であり、それを“使える”ようにするためのトレーニングのやり方や具体的な指導はほとんどできない。(その場で一二回程度発音してもらい指摘くらいはできるかもしれないが少ない)

そして、一番の問題は接点が僅かなこと。学生とのコミュニケーションが限られていることだ。中国語の授業をしていれば生徒は上達していくが、それに対して先生はどの部分でどれだけ貢献できたかはわからない。週1に合うだけで、学生が家でどれだけ、どのように学習をしたかはわからない。密接にコミュニケーションをすれば聞き出せるかもしれないが、限られるだろう。

つまり、一般的な大学や語学スクールの教え方における「経験」は2つの問題がある。

1.来ている学生の意識がバラバラなので、何の課題を解決しているか分かりづらい

2.学生の学習過程に関われる程度が少ないので十分に経験を法則化できない

ということだ。

語学における科学は、もちろん物理や数学のように数値化して厳密な検証をすることはできない。しかし、それでもやり方次第では、つまり学習法や学習者とのコミュニケーションをしっかり取れるやり方でやれば科学的なノウハウは蓄積していくだろう。

語学教師、コーチ、先生、講師、呼び名は何でもいいが、語学力を高めるノウハウをつけるなら、語学力を定義し、できるだけ学習者と接点を持ち、どんな課題を解決しているかの仮設思考を持ってPDCAを回していくことが大事。


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