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自分の専門領域に執着せずに<世界>と向き合おう

私は以前、日中のゲームに関わる仕事をしていた。そのとき、幸運なことに世界的に有名なゲームプロデューサーの上海でのアテンドをさせていただく機会があり、いろいろなお話を聞くことができた。

一つ印象に残っている話がある。

その方は、世界中にファンがいるあるゲームを制作したプロデューサーだが、ゲームをほとんどしないし、他社ゲームも遊ばないし、見ないということ。

それよりも海外を旅行したり、本を読んだりするという。

ゲームというのはある世界観を作るものであり、それを創造する土台となるものは世界でいろいろな経験をするところにあるわけで、ゲームの中にあるわけではない。

私はこれに非常に共感した。

自分も革新的な体験を生み出すウェブサービスを創りたいと思ってはいるものの、既存のウェブサービスを見ようとはしない。もちろん、使ってみたりするが、そこには創造を促す何か凄いものはない。もっと実用的な何かしかない。

だから自分も海外での生活であったり、哲学の研究領域に何かを求めて生きている。

もちろん、一定の専門的な知識やスキルがないと他の経験をしてもそこにまた戻って何かを創造することは難しいだろうから、まずは軸があるべきだとは思う。

でも、

われわれは、ありとあらゆるものの総体である<世界>に開かれた存在である。

人間社会のコミュニケーションで身につけたものの見方で、日々<社会>で生きているが、その先には<世界>がある。

その<世界>は絶対的にわれわれを惹き付ける。

社会学者の宮台真司氏はこういう現象を次のように説明している。

絶えず再現前化の働きを示すエクリチュールのなかであるいは絶えず内部イメージを更新するシステムのなかで二元論から逃れて一元論に回帰することは圧倒的に不可能だが、一時的にその一元論的世界に触れること。

同じようなことを別の言い方でいう哲学者は多い。

いずれにせよ、平たく言えば、

未規定なもの、予定調和的でないもの、こういうものを沢山経験したい。


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