計画経済に向かって最適化が進む非楽園、閉じる意識を前提にどう生きるか
前の記事で、『天才性が見つかる 才能の地図 』という本を紹介した。
この本をどう読むかは人それぞれだが、社会全体的な視点で考えると、人を適材適所に配置すれば、WIN-WIN-WINの三方良しが達成できる、というもの。
この本は、個人向けに、どうやったら能力を活かせるか?よく生きれるか?のような視点で書かれているが、雇用する企業や、さらに社会的な観点でいえば、人的リソースの効率化以外のなにものでもない。
各個人としての人間にラベルをたくさんはって、世界中の必要なプロジェクトにアサインしていくような世界観である。
このことを以前以下の記事で書いた。
つまり、行き着く先は計画経済である。
神的な視点を持つ政府が、世界中の状態を常にリアルタイムで把握しており、一方で世界中に存在する数十億人の具体的な特徴も理解している。そこで最適なマッチングをしていくというもの。
もちろん、現実は複雑系のカオスなので、これは不可能に近い。
個人データの取得や蓄積はまだまだ足りないし、こうした最適化のために必要なデータや分析能力はまだまだ足りていない。
計画経済への道は遠い。。。
ただ、計画経済のような最適化を理念として、その理想像へ近づく方向にむかっているのは間違いない。
では、その理想像は素晴らしいものなのか?
それについて、以下の記事で書いた。
つまり、あらゆることがスムーズに進んでいく楽園的な人生を人は臨んでいない、ということ。
その到来を早めよう!ということには心は踊らない
さらに、突き詰めて考えれば、以下でまとめたように、
我々は意識を閉じていくことになる。
そんな理念に向かって努力などできるはずもない。
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では、我々は一体どこに向かっていきていけばいいのか?
太陽の寿命50億年が到来するまで、どこか太陽系以外の星や世界を見つけ出す、という目的ならいいのか?
そんなことにわくわくしない。
では、いったい、何に向かって生きればいいか?
人間は日々、可能性をうっすら感じながら生きている。これが現象学的なつ突き詰めた生の構造。
やはり、われわれは感情の奴隷である。クオリアという今、ここの奴隷だ
コンマリのようなときめく何か、spark joy的な可能性を主観的に追い求めるしかない。
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