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現代人は「自然に還る」ことで幸せになれるのか

1、背景

人にとって本当に価値のあるものとは何なのだろうか。私はベンチャーやスタートアップと呼ばれるような業界に10年近くいるので、「人を楽しませる」「人を幸せにする」ということはどういうことなのか、という問題意識を常に持っている。

価値があると言われる商品やサービスを企画し、作るには「価値がある」ということを明確にせねばならないからである。

科学技術の発達により、世の中は増々「安心、安全、便利、快適」の時代を目指して突き進んでいる。しかし、リオタールが1979年に『ポスト・モダンの条件』で書いているように、科学を正当化する大きな物語、つまり精神の弁証法、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、富の発展などに対して誰もが不信感を抱いている。

私もそういう流れに対してずっと疑問を抱いてきた。このままこの流れが続いていけば行き着く先は目に見える。日本のスーパーコンピュータ開発者であり次世代の汎用人工知能(AI)の研究者の齊藤 元章(1968-)によると、近い将来、「不労」と「不老」が実現される社会が到来 することになる。要は、「働かなくても生きていけて、死ぬことのない」人間が生まれる。

もし、「安心、安全、便利、快適」の行き着く先である「不老」「不労」が現実のものとなったら、われわれ人間の実存 のあり方も大きく変化するであろう。

「将来のために貯金をしよう」「あいつに仕事で負けたくない」「明日は出勤だ」「休日には何をしようか」など普段われわれの実存の中心にあるような関心がなくなったら、どうなってしまうのだろうか。そうなればわれわれにとっての価値のあり方は変わることになる。そして、そうした人間の在り方を大きく変えてしまう方向に盲進することはよいことなのだろうか。

余談であるが、映画「マトリックス(1999)」の世界観では生命維持装置に繋がれた現実世界の人間は当初、「不老」「不労」の理想郷のような仮想世界を体験しながら生きていた。しかし、エージェント・スミスによると人間はその楽園的な仮想世界に耐えられなくなり、現代のような不労も不老も実現されていない社会を求めてマトリックスという仮想世界に設定し直された。やはり、一般的に人々は、「全てが満たされた楽園に幸せはない」と考えているようである。

レヴィ=ストロース(1908- 2009)が西洋的価値観からすると、後進的、未開、野蛮などと形容されがちな未開社会の研究をしたのも、「人間とは何か」もっと言えば「人間にとって本当によいことは何なのだろうか」というような本質的な問題意識があったに違いない。

ポスト・モダン社会においては、人々は目の前のグローバル資本主義をとりあえず受け入れ日々を過ごしてはいるが、意味や価値の根拠について分からなくなっている。それゆえ、このような発展した文明以前に希望を見いだし、極端にいえばルソー (1712-1778)のいう「自然に還れ」を短絡的に受け取りそのような志向をする。

現代人を見ても分かる。競争に揉まれ社会に疲れた人は、自給自足で「自然と調和している様な生き方」が、「理想的な人間の生き方」だという考えを抱く。

わたし自身もたまに、この過剰な意味に溢れ競争し前進し続ける社会から離れたいと思う。未開社会や原始共同体的な村の生活まで戻らなくてもスローライフ や地方の田舎での半自給自足的な生活にも興味がある。

2、概要

さて、前置きが長くなったが本稿の主題は、現代人は「自然に還る」ことで幸せになれるのか、ということ。この問いを軸に「人間とは何か」「価値とは何か」について迫っていきたい。

「自然に還れ」とは、一般的に「より文明化されていない自然な生活に還ること」として考察していきたい。大都市の人が地方の田舎に移住する、或いはアーミッシュ的生活、もっといえばアマゾン奥地の未開社会に入り込むなど程度は問わない。

これに答えるためには我々人間の実存がどのような構造になっているのかをまず理解する必要がある。

ここでは、日本のフロイト研究者である岸田秀(1933−)の「唯幻論」の考え方を軸に、人間の実存の構造の在り方を想定し、現代人が「自然に還れ」的な行動をすることに意義があるのかについて一つの回答を与える。

結論を述べれば、

現代社会で生まれ育ってしまった人間は、未開社会など原始的な生活に戻っていっても、(基本的には)適応できず(=岸田的に言うと「自我」を安定させることができず)幸せ(価値)を掴むことはできないだろう。

人間にとって、「自我」を安定させることが実存の基本ベクトルとなる。

そして現代社会で生まれ育った人間は、「自我」をその社会の文化や他者との接触を通じて築き上げてきた。どうにか「自我」を安定させるように社会や他人と調和するように「自我」を形成してきた。そうしてできた「現代社会を土台にした自我」は、現代社会とあまりにもかけ離れた環境を持つ未開社会では、「自我」を安定させることはできない。そして「自我」が崩壊し、自然に適応できなくなる。

一言でいうなら、とてもありきたりな答えとなる。現代社会で育った人は、未開社会に適応できないから幸せになれない。

3、唯幻論

ここでは、人間の実存の構造、つまりわれわれの主観的な日々の経験はどのような仕組みになっているのか、ということに一つの仮定を置きたい。日本のフロイト研究者である岸田秀(1933−)の『幻想の未来』及び『唯幻論大全』を参考に、「人間にとって、「自我」を安定させること」が実存の軸となるという唯幻論を吟味していき、これを主題を問うための土台とする。

自我

人間の生は「自我」を安定させることだ、とはどういうことか?われわれは「いま、ここ」という主観的な体験を更新しながら生きている。この実存的な生はどのような構造になっているのか。

そこには欲望やら感情やら五官の作用から受ける感覚などさまざまなものが入り乱れている。根本的には外界という自然環境に生きる動物である、という路線で考えればよい。要は、外界の刺激に反応する機械のようなものだ。犬も猫も、もっといえばアメーバやミドリムシなどはとっても単純な機械の様なものである。

人間は、それらの動物とどう違うのか?

それは岸田によれば「本能が壊れた」動物である、ということだ。本能というのには2つの側面がある。一つは「生命エネルギー」であり、個体保存や種の保存のために個体を突き動かすベクトルのようなもの。もう一つは「行動規範」であり、ある外部刺激があればこう反応するというような決まりである。

岸田によると、人間は行動規範としての「本能」が壊れてしまった動物である。この本能の代用品として「自我」という「行動規範」を発明した。

人間は、自分はかくかくの身分であるとか、かくかくの役割をもっているとか、かくかくの立場にあるとかに基づいてはじめて自分の行動を決定できる。この岸田の前提については、様々な疑問があるし、本能が壊れたなど実証しようもない物語に過ぎない。しかし、これは一つの仮説であるとして続きを見ていきたい。(大切なことはすべてを整合的に説明できることだ)

他者が「おまえは由緒ある我が家の跡取り息子だ」「おまえは女の子だからこうしなければならない」「おまえは日本人だ」などと個人の「自我」を規定するとき、その規定は伝統とか常識とかの既成の何らかの共同幻想、すなわち過去においてすでに形成されて伝わってきているものにもとづいており、この意味において過去が「自我」を形作るといえる。さらに、基本的には言語的に規定されるのですでに社会性や他者性を帯びている。

もし「自我」という規範がなければ、人間は何をどうしていいかわからず支離滅裂になってしまい、しまいには死んでしまうだろう。「自我」とは本能が壊れた人間が本能の代わりにエネルギーを方向づけ、秩序づけるために作り出したある形ともいえる。欲望が実存の根源のように見えるが、欲望とは不安定な「自我」を安定させようとする企てである。

エス

ここで、「エス」という概念を理解する。「自我」=「当人がこれが自分というものだと思っているところのもの」であるなら、エス=「当人の生命存在全体のなかの「自我」から排除されたもの」であるといえる。

当人の存在そのものでありながら、当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのものである。ある衝動も当人がこの衝動はたしかに自分のもっている衝動であると思っていれば「自我」の一部となるが、当人がそう思っていなければすなわちその衝動を抑圧していればエスの一部である。

根本的倒錯

ここで、人間の生に「根本的倒錯」が起きる。人間は「自我」こそが自分の生きた現実だと思っており、本当にそうであるエスについては無意識、無自覚である。自分に属さないものとして「自我」から排除しているのである。「自我」を他者からのコピーでつくるが、それはそのままだと現実(他者など)とぶつかるからエスへ抑圧される。

「お前は優秀だ」と親からいわれても他者は認めないかもしれない。こうして「優秀な自分」は抑圧され、「だめな自分」という「自我」になる。要するに、他者と自分が「相互に認めあったもの」が「自我」となり、認められないものはエスとなる。そして、幼少期に先行的に(主に両親から)与えられた「自我」が、現実(他者)に否定されることでエスとなるのであろう。

ここに人間という存在の根本的倒錯がある。人間の生命はエスのうちにあるのだから、生命として生きるためにはエスを解放し、表現し、エスを生きなければならない。われわれ人間はおのおのの「自我」を起点として他の人々の「自我」とかかわり、おたがいの「自我」にもとづいて日常性を築いているが、人間が日常性だけで生きることができない理由はここにある。

人間は、「自我」だけでは、日常性だけでは「過去と他者に規定された道」をあるかされているに過ぎず、まさに生ける屍であって、肉体としては生きていけるかもしれないが、生命としては生きることができないのである。

(ここの論理は少し飛躍している)人間の生命はエスのうちにあるのだから、生命として生きるためにはエスを解放し、表現し、エスを生きなければならない。しかし、エスを解放することは、「自我」、日常性を崩し、擬似現実への適応、肉体的生存を危うくする。人間は「自我」を守らなければ(擬似)現実に適応して肉体として生きてゆくことができないし、「自我」を崩さなければ生命として生きることができないというディレンマを抱えている。

さて、ここから社会との関係の考察に移る。

日常性と非日常性(エスの解放)

何はともあれ、肉体的生存を確保できず、肉体的に死んでしまえば元も子もなく、エスの解放も何もあったものではないから、いかなる文化、いかなる社会も、基本的には「自我」を支え、日常性を保つことに主眼をおき、そのかたわらに非日常的な時間または空間を設け、そこでエスの解放を許し、このディレンマに何とか対処している。

これは生命として生きる立場からすると本末転倒(疎外)であるが、人間は本能が壊れ、人間の生命そのものが狂っている以上、やむを得ないだろう。人間の本能が壊れておらず、肉体として生きることと生命として生きることが矛盾していなかったとすれば、そもそも「自我」なんかつくる必要はなかったのだから。

原始共同体

さて、「自我」が生まれた人間は、最初原始共同体で生活を始める。原始共同体においては、一年に一回か何回かの定期または不定期の非日常的時間が祝祭として設けられていた。この期間中は、日常的には禁じられているタブーを破り、財を蕩尽し、エスを解放することが許されていた。それ以外の日常的時間はタブーを守って地道に生活し、労働し、財を蓄積する時間であった。つまり日常性と非日常性とが時間的に分けられていた。

原始共同体における個人は単一の集団に所属しており、個人の「自我」はこの共同体によって支えられ、そしてこの共同体は共同体のメンバーの共通の祖先と見なされている何らかの超越的存在(トーテム神、祖先神、氏神など)に支えられていた。

いわば、個人は集団的「自我」をおのおの分有しているようなもので、共同体のメンバー全員のおのおのの「自我」はおたがいに大して違っておらずしたがって当然のことながら各人のエスも共通していた。エスが共通していたから、全員共同の非日常的時間を設け、そこで全員が一緒におのおののエスを解放できたわけである。

日常的時間と非日常的時間を交互に繰り返し、日常的時間において「自我」を守り、非日常的時間においてエスを解放する原始共同体のシステムはバランスのとれた、かなり安定したシステムであって、各人の「自我」およびエスがお互いにたいして違ってないから個人と個人を区別する必要なく、いわゆる近代的個人が出現する余地はなかった。いわゆる未開社会はこのような安定した状態で長い間続いてきた社会であるように思われる。

岸田の説明は抽象的なので、具体的に考えてみたい。例えば、狩猟採集を中心にする数十名規模の原始的な共同体があったとしよう。彼ら各個人は祖先などを超越的存在として「同じ祖先を持つ集団の中の一人」というような同じような「自我」を持っている。といっても、両親から養育された子供は「食料を好きなだけ食べる」「規範なく自由に他者と交流する」など幼少期に先行的に与えられた「自我」を土台としてもつ。しかし、幼少期にできたことがそのまま成人になっても許されていれば社会を存続できなくなる。こうして幼少期に形成された「自我」が「エス」となり、これを解放するために「祭り」で蕩尽するのである。これは、集団の大部分が同じような幼少期と成人の生活形式を持ち同じような「自我」を持っているためである。

近代社会

では、現代のわれわれの社会ではどうか。原始共同体であろうが、近代社会であろうが、どのような社会であろうと、人間は「自我」とエスとに分裂しており、一方では「自我」を守り、他方ではエスを解放しなければならないことに変わりはない。

原始共同体では、「自我」を守る日常性とエスを解放する非日常性を時間的にわけていたが、近代社会のように各人の「自我」およびエスがおのおの互いに異なるようになれば、そのような分け方はもはやできない。別の分け方をしなければならない。

身分によってわける分け方というのもありえる。さらに、貴族なら貴族という一部の特定階層をつくり一般の人たちには許されないことを彼らに許し、彼らに非日常性を代表させて、代理的にエスを解放させる。現代の芸能人と同じである。そして、現代の主流は「貨幣」。カネをかせぐために働くことが日常性、カネを使って遊ぶのが非日常性である。

4、現代人は自然に還って幸せになれるのか

現代人

さて、これでわれわれの「現代人は自然に還って幸せになれるのか」という問いに答える準備ができた。われわれの実存は「自我」を安定させることが目的となっているので、一般に「幸せ」と言われている実存にとっての「価値」を「自我の安定」と定義できる。

そして、「自我」はエスと分かれ、自分であるエスを解放させる必要があり、日常性の他に非日常性が必要となる。未開社会などの原始共同体であれば、みな同じような「自我」とエスをもっているので一緒に祝祭という非日常性でエスを解放する。

しかし、現代人は個々人がバラバラの経験をし、「自我」とエスが各人で異なる(むしろその多様性が推奨される時代)。そこでわれわれは貨幣という日常性と非日常性でエスを解放させる社会にした。

ここで岸田がエスの解放といっているものがどのようなものか分かりにくいので具体的に考えてみる。一般的に言われる「ストレス解消」に近い意味であろうが、文脈にそっていえば、例えば「一流企業に入りたい」と思っていても現実には入社することができず、抑圧された「一流企業の社員である」という「自我」がエスとなる。これを解放するとは、お金を使って一流企業の社員が着る服を着てみたり、高級レストランやバー、海外旅行など一流企業の社員の振る舞いをすることに当たるのだろう。

岸田の場合、『唯幻論大全』で次のように書いている。「要するに、母の愛情を信じ続けて強迫観念に苦しむか、それとも、強迫観念からは解放されるが、偽りの自我の安定が崩れ、押し寄せてくる不安と恐怖に耐えるかの二者択一に直面していた。」

母親は自分に愛情を注いで育ててくれたというのが「自我」で、実は母親は自分のことしか考えてない偽りの愛情で私を育てていたというのが「エス」である(ということは、幼少期などに先行的にそのような「自我」があったことになる)。「エス」を解放してしまえば、自我の安定が崩れ現実に適合できなくなる。一方、現在の「自我」にしがみついていればエスから常に突っつかれて実存は揺らぐ。

自然へ還れ

こうした固有の「自我」とエスを持った現代人が、祝祭しか非日常性がない原始共同体へ行ったらどうなるか。致命的なのは、祝祭でエスを解放できないことだ。気分を高揚させ、祭りで踊り、暴飲暴食したところで、現代社会で築かれたエス、例えば、「グローバル市場で活躍するビジネスマン」「紅白出場歌手」「プロ野球選手」などのエスが解放できるわけがない。こうしてエスが行き詰まり、実存は枯れ果てていく。

しかし、別の観点から言えば「自然に還る」ことが自分の「自我」の安定に寄与するのであればそれは実存にとってよいことである。例えば、田舎で大学まで育った者が、大都会東京の生活に疲れ、空気がよくのどかな田舎生活に戻る。「人間とは何かを探求する哲学者」が、原初的な生活を体験するために未開民族の中で生活するなど、うまく「自我」に位置づけられればいい。ただ、現代人にとって、未開民族社会での生活を「自我」に位置づけるのが一般的には難しい、ということだ。

現代人は「自然に還る」ことで幸せになれるのか?多くの人は「幸せ」になることを望んでいる。今まで感じたことのある「幸せ」という漠然とした実存の状態を再発させたいと思う。しかし、岸田の唯幻論でいえば「幸せ」を目指すという発想自体が本質的でないことが分かる。唯幻論では人間の実存にとって自我を安定させ現実に適応することが人間の関心の中心になる。人は生まれてから他者とのコミュニケーションを通じて自我という物語を形成し現実を生きる。都会育ちの人間が人間の本来の姿を求めて簡素で原始的な生活で自我の物語を安定させるのは難しい。

「幸せ」とはそもそも何か。それは自我の安定により得られるというより、究極目的は自我を安定させることであり、極端なことを言えばある自我の安定にとって、その物語に「幸せ」がなくてもよいのだ。もちろん、ほとんどの物語にとって重要な要素であるが、自我の安定ということが土台にありここから欲望が生まれ、冒頭で問うた「価値がある」というのも自我の物語にどれだけ貢献するかということで生まれる概念である。このような観点に立てば、なぜ欲望は限りがないのか。人により価値観が異なるのかも理解することができる。


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