誰かが失敗をしたとき、社会は試されてるんですよ。たんにそいつがやらかした、ではなく、じゃあ社会はどうあるべきかと試されてるんです。

これは以下の通り、哲学者の千葉雅也氏のツイートだ。

私このような態度で物事を見ている。言語化され、はっとした。

誰かがやらかしたとき、例えば凶悪犯罪が起きたとしよう。私自信、テレビで犯罪のニュースが報道されたりすると嫌悪感を抱くが、その犯人に罰を与えても世の中よくならないと思う。死刑は犯罪抑止にほとんど寄与しないとも言われている。癌に対する局所療法的な処置のようなもので、これでは問題の根本解決にはならない。

そもそも人は生まれたときはほぼ白紙状態だ。神秘的な偶然である物理的条件(地球のある場所である身体で)と社会的条件の下、生まれてくる。その後のその人の時間的、空間的な経験によりその人の価値観や世界観が作られる。

人の自由意志により環境は変えられるとはいうものの、社会は一定の価値観を持っているので、生まれた環境で有利不利は十分にありえるし、時間の経過とともに大きくなりうる。その最初の「偶然」は、未だに全く解明できていない謎であり、所与である。

それゆえ、この偶然性ゆえに、この偶然性はみんなで引き受けなければならない。個人の責任を追求し過ぎてはならない。

ロールズという学者は、無知のベールという考えで、自分がどんなやつの立場でも耐えられるような社会の理念を唱えたが、どんなやつの範囲を広げすぎたら現実的ではない。私がアフリカの貧困問題に問題意識は感じるが、そこに責任を取ることは無理がある。

「われわれ」という連帯感のある範囲で責任を取るというのがコミュニタリアン的な考えだ。この連帯感がないと、犯罪者はいつまでも減ることはない。なぜなら、その問題は放置されるか、極端の安易な処置で問題の根本解決は見送られる。

「じゃあ社会はどうあるべきか」を考えることが必要だ。その人はなぜそのような行為をしたのか。生い立ちから考えて、「われわれ」で話し合い対策を取らなければならない。

凶悪犯罪でなくても、もっと日々のミクロなやらかしについても同様だ。身近にいる横柄な態度な者やネガティブな言動を繰り返す者も同じだ。ネトウヨやクレーマー、ツイッターしか発言の場がないさもしい輩たち。彼らはそうなるべくしてなっている。社会の問題だ。

だから私は、変なことを言ってくるクソ野郎にイラッとしても、そうした感情はすぐに収まる。彼らに切れ返しても何の意味もないからだ。

経営の問題だって同じように考えることができる。なぜ従業員がミスしたりアウトプットがよくないのか、それはその人個人の問題だけではない。仕組みやインセンティブ、やりがい、など様々な要素の検討が必要だ。

私は「従業員みんな、起業家精神をもて」というような押しつけが嫌いだ。従業員は、従業員としてそこで働いているのだがから、株式や役員報酬、社会的地位、成果への責任などにおいて、経営者とは全く違う環境にいる。むしろいくら頑張っても報酬やその他のリターンは変わらないのだから、いかに楽して仕事するかが大事になることは、少し想像すれば分かるだろう。

千葉氏風に言えば、誰かが失敗をしたとき、会社は試されてるんですよ。たんにそいつがやらかした、ではなく、じゃあ会社はどうあるべきかと試されてるんです。ということになる。こういう意識は経営者はもちろん、従業員やステークホルダー全体で共有されるべきだ。

多様性への寛容とは、こういう態度だと思う。人々の初期の物理的条件、社会的条件は自分と異なる、これを前提に、この「異なる」がどうやって問題にならないかを建設的に考えていくこと。



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