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詩型論:日本語の押韻詩の詩型に関する考察

 こんばんは。Sagishiです。

 いよいよ押韻詩の詩型に関する考察をしていきたいと思います。



1 詩行の音数

 最初から残念なお知らせですが、現在のわたしは、現代日本語東京方言を使った詩歌で、詩の一行の音数を決めることは事実上不可能だと考えています。理由を以下に列挙します。


1-1 韻律単位の問題

 現代日本語東京方言は、モーラリズムの言語ですが、話中では軽音節(1モーラ音節)と重音節(2モーラ音節)が任意のタイミングで出現します。

 現代日本語東京方言の自然な日常会話において、どこにどの種別の音節が出力されるのかは完全に自由であり、意図的に書かない限りは指定ができません。例えば1行の音数を仮に7音として、詩行を書いてみましょう。

A:覆された [ku̇cu̇gȧėsȧrėtȧ]
B:宝石のよう[hȯosėkʸinȯyȯo]

 上記ABのような詩行を書いたとします。すると、ABは同じ7音なのにAは7音節で、Bは5音節ということになります。

 なぜBが7音あるのに5音節になるかと言うと、宝[hȯo]やよう[yȯo]のような、2モーラ音節(重音節)が含まれているからです。対して、Aはすべての音節が軽音節のため、7音で7音節になっています。

 つまりABは同じ7音ですが、韻律単位の数や区切れ位置が適切に対応していないということです。

 すると、同じ一行なのに音節数や音節の位置が異なる状態を許容できるのか、表現形式(アートフォーム)としてそれはどうなのか、という疑問がわきます。

 例えば、完全に韻律単位を揃えようとすると、次のように詩行を構成しないといけないことになります。

A:覆された [ku̇cu̇gȧėsȧrėtȧ]
C:静かな朝は[sʸizu̇kȧnȧȧsȧwȧ]

B:宝石のよう[hȯosėkʸinȯyȯo]
D:煙突のない[ėNtȯcu̇nȯnȧı]

 このような提案は、実は過去になされていて、梅本健三『詩法の復権』(1989年)にて音節を揃えるような詩作が試みられています。

 信濃松原湖にて

山のあいだの湖水 (LLLHLLLH)
ゆんでに魚類を釣り(HLLLHLLL)
めてにもう幸うすい(LLLHLLLH)
みんなの古い祭り (HLLLHLLL)
(以下中略)

※L=軽音節、H=重音節

 詩行8音節で、軽音節と重音節の位置を揃えています。非常に興味深いですし、この時代の文学者で日本語に軽音節と重音節があることを(完全ではないですが)理解して、それを実践に活かしているのは刮目に値します。梅本健三は間違いなく日本語定型詩の先験的な実践者です。

 しかし、韻律単位を完全に揃え続けるような詩行というのは、基本的には無理があるとわたしは考えます。常に同じ位置に特殊モーラが表示されるような表現には限界があるでしょう。


1-2 二重韻律構造の問題

 では、どうすれば良いのでしょうか。日本固有の定型詩たる和歌/短歌がどのようにしているのかを見てみましょう。

 実は、和歌/短歌は「完全モーラリズムの言語表現空間」になっています。どういうことかと言うと、和歌/短歌の世界には基本的には重音節がないことになっています。現代短歌を詠むひとのなかには、そういう前提に縛られていないひともいますが、撥音や促音などの特殊モーラも1音節として数えるのが、和歌/短歌の表現形式です。

 和歌/短歌の言語表現空間というのは、日本語の基礎韻律単位であるモーラに完全にリズムを揃える世界です。現代日本語東京方言は確かにモーラリズム言語ですが、基礎韻律単位(モーラ)のうえにさらに軽音節と重音節の韻律単位が乗っている二重並立の韻律構造をしています。

日本語の二重韻律構造の図

 和歌/短歌は、この二重韻律構造の二階建て部分をないこととするような表現形式です。よって、現代の日常的な会話空間とは違う世界を展開するような詩型だとわたしは理解しています。

 じゃあ新しく考える詩型というのも、和歌/短歌と同じように、日常会話とは切り離されたような、撥音や促音を独立した1音節として数えるようなスタイルにすべきかと言うと、現在のわたしはそうは考えません。

 現代詩はもとより、和歌/短歌の韻律空間からの脱却を志向することで、成り立ってきた歴史があります。なので、和歌/短歌の韻律空間を採用し直すというのは、もちろんすべてを否定するものでは全くないですが、本質的には先人たちの営為とは違うことをやることになるとわたしは考えます。

 歴史的な経緯を踏まえれば、現代詩における押韻詩(定型詩)の一行も、日常会話に等しいような表現形式、言語表現空間であるべきだろうとわたしは現在考えています。その意味でも、梅本健三氏が軽音節と重音節を取り入れるような詩型を目指したのは非常に評価できると考えています。

 このように現代日本語東京方言は二重韻律構造を保持しており、かつその二階建て部分の韻律単位は、どこに軽音節や重音節が表示されるのかは完全にランダムという特質があります。

 基礎韻律単位(モーラ)だけに合わせるのも十分ではなく、かと言って二階建て部分の韻律単位を完全に揃えるのも非常に困難です。現代日本語東京方言の韻律単位を捜索しても、詩の一行の音数を決めることはできないと、わたしは考えます。


1-3 長短律の問題

以前の記事で、和歌の長短律は、外国の定型詩の脚韻と同等の機能を保持しているといえる、と書きました。

 これは非常に示唆的で、要するに日本語の新しい詩型を考えるときに、長短律になるような詩型、長短律であることが強調されるようなスタイルは望ましくないのではないか、と考えます。

 長短律の詩型では、機能的に脚韻が不要になってしまう恐れがあるので、脚韻詩を書くのであれば、なるべく長短律を志向しないような詩型であるべきです。


1-4 文節/アクセント句に音数の制約がない問題

 これも非常に重要な問題と言えますが、日本語には「文」の下位単位に「文節」というものがあり、この文節に日本語のトーン(アクセント)の1まとまりの単位がほぼ相当するというような特性があります。

 このような日本語のトーンの1まとまりの単位は、アクセント句(AP)と呼ばれています。ちなみに文に掛かるようなトーン特徴が現れる単位は、イントネーション句(IP)と呼ばれます。

 で、これがめちゃくちゃ問題なのですが、日本語の文節/アクセント句には音数の制約がありません。そのような統語構造になっています。

 例えば、以下のような文節を用意します。すると、アクセント句も文節の単位で生成されます。

E:イントネーションは
NNNNFFFF
F:イントネーションだから
NNNNFFFFFF
G:イントネーションは疑問文だと
NNNNFFFF・NNNFFFF

N=トーン非下降区間、F=トーン下降区間

 単語に後続する助詞や助動詞も含めて、文節の単位でアクセント句が構成されることが分かるかと思います。Gを見るとより分かりやすいですが、文節の切れ目で、トーンの1まとまりの単位(アクセント句)も区切れています。そして、文節/アクセント句には音数の制約は特にありません。

 これの何が問題かというと、文章を構成することそのものや、脚韻するときの強力な制約になります。

 例えば英語なら、ストレス(アクセント)が置かれる音節は1音節で完結します。フットの単位で見たとしても、弱強や弱弱強のように最大でも3音節程度で1つのアクセントが実現されます。

 イタリア語も若干特殊なところはありますが1~3音節でストレス(アクセント)が実現されます。中国語なら全て1音節でトーン(アクセント)が実現されます。

 要するに、上記のような外国語のアクセントの実現単位には事実上の音数の制約があるのです。なので、その制約のなかで文章を組み立てることが求められますし、押韻をすることも求められます。

 しかし、日本語には文節/アクセント句に音数の制約がないので、文章を書くたびに文節/アクセント句の構成も内容も異なるという事態が発生します。時には2音だけの文節があったり、時には10音以上の文節があったり、自由自在です。

 また、日本語の押韻というのはアクセント句を揃えたほうが「響く」し、そっちのほうがより良いだろうということが分かりつつあります。

H:暗く
I:碧落

H:暗く
J:辛く

I:碧落
K:疫学

 HIのように音数(アクセント句)が揃っていない押韻よりも、HJやIKのように音数(アクセント句)が揃っている押韻のほうが効果的に作用しますし、日本語の構造に沿っているといえます。

 しかしそうなると、文章を書くたびに文節の長さが可変するし、脚韻の長さも可変するという、日本語のこの特性は非常に扱いにくいです。

 例えば、詩行の末尾で必ず3音節の脚韻をするとします。そうなると、理想的には毎回同じ位置で文節が区切れることになりますが、文節が常に一定の位置で区切れる文章がずっと続くのはどう考えても不自然です。

 このような現代日本語東京方言の統語およびアクセント生成構造の特性からは、詩の一行の音数を決めることに、何か合理的な設計ができそうな要素は見当たりません。


1-5 詩行の音数のまとめ

 というように、韻律構造の面からも、統語およびアクセント生成構造の面からも、脚韻の実現という観点からも、現代日本語東京方言からは詩の一行の音数を決めるための合理的な設計要素が見当たりません。

 むしろ一定律にすることが非常に難しい要素ばかりです。何で短歌が57577なのかも現時点で謎ですし、このことから現代日本語東京方言を使った詩歌で、詩の一行の音数を決めることは事実上不可能だと、現在のわたしは考えています。

 なので、基本的には詩の一行の音数は長短律がないような自由律か、特に合理的な理由はないにせよ、例えば1行10モーラなどを決めて詩作してしまうか、そのような二択ではないかと思います。


2 連構成(ストラクチャー)

 連構成ですが、現時点では合理的な設計の想定がありません。

 これまでわたしは、ソネット連構成(4433)や四行四連構成(4444)、またテルツァ・リーマ連構成(3333…)を実作してきましたが、個人的にはソネット連構成よりも四行四連構成のほうが効果的に感じます。

 なぜそう思うのかはまだ適切に言語化できていないですが、ソネット連構成だとドラマを構成しにくいと感じます。四行四連構成のほうがドラマチックな構成に、詩歌を持ち上げることができると、直感的に感じています。

 起承転結的な構造を現代詩で展開することの意義や意味、効果性を適切に判断はできていないですが、ここは将来の設計や実作から判断をしていきたいと思います。


3 脚韻構成(ライムスキーム)

 ライムスキームですが、これまでわたしは主に交叉韻式(ABAB式)や抱擁韻式(ABBA式)、テルツァ・リーマ式(ABA/BCB…)、また独自に行列韻式(WX/YZ/WX/YZ式)を試してきました。

 これまで試してきたなかでは、率直な意見としては、抱擁韻式が最も自然で効果的なように感じます。これも、なぜそう思うのかはまだ言語化できていないですが、押韻の距離関係やスタイルそのものに理由があるように感じます。抱擁韻式のほうが優しく意味のある詩歌を構成しやすいと感じます。

 行列韻式はテクニックの高度さや、詩歌の文脈性をより複連的で広範囲に展開できるのが優れていますが、「響き」や構造性の分かりやすさという観点では劣後するでしょう。

 今後は、対句韻式(AABB)を試み、カプレット性や文脈をより重視した詩作にも着手しようと考えています。


4 脚韻クオリティ

 少し前述していますが、脚韻のクオリティを上げるためには、以下が必要になります。

①2モーラ以上の脚韻とする
②音数(アクセント句)を揃える
③アクセント曲線を揃える
④脚韻としての意味/文脈性を高度化する


4-1 量的クオリティ

 日本語はモーラリズム言語であり軽音節中心の言語です。よって1モーラだけの脚韻だと応和する単音要素が少なく、脚韻の時間長も短くなります。海外の定型詩は基本的に2モーラ以上で脚韻しているため、標準的なレベルに倣う必要があります。

 また、日本語は文節/アクセント句に音数の制約がないため、可能であれば5モーラ7モーラそれ以上と脚韻の量を増やすことが可能です。

冗談を交わす [zʸȯodȧNȯ/kȧwȧsu̇]
瓢箪を触る  [çȯotȧNȯ/sȧwȧru̇]

※量的な多さ(6音節8モーラ)がある脚韻例

 高度なレベルの脚韻を見せるために、より量的なクオリティを追究するのも良いでしょう。


4-2 構造的クオリティ

 日本語の脚韻は、音数/文節/アクセント句を揃えて脚韻するのが基本になります。「暗く/碧落」「部屋に/鮮やかに」のようにこれがズレていると、効果的な「響き」のある脚韻にはなりませんし、脚韻していることが見えにくくもなります。

薄氷 [hȧku̇çȯo]
渇望 [kȧcu̇bȯo]

冗談を交わす [zʸȯodȧNȯ/kȧwȧsu̇]
瓢箪を触る  [çȯotȧNȯ/sȧwȧru̇]

※音数/文節/アクセント句を揃えた脚韻例

 部分的になら、音数を揃えて、文節/アクセント句をズラした脚韻というのもありだとは思いますが、これを標準的なスタイルとするのは基本的には避けたほうが良いでしょう。

手を浸した [tėȯ/çitȧsʸitȧ]
背伸びは嫌 [sėnȯbʸiwȧ/iyȧ]

※音数を揃えて、文節/アクセント句をズラした脚韻例


4-3 音声的クオリティ

 日本語のトーン(アクセント)は地方によって生成システムやトーン自体が異なるため、一概にすべて揃えたほうが良いというわけではないですが、脚韻の「響き」に影響するため、トーンを揃えたほうがより音声的な精度の高い、「響き」のある脚韻になるでしょう。

L:
兄弟 NFFF
後悔 NFFF

M:
兄弟 NFFF
公開 NNNN

 東京方言において、Lのペアはトーンが揃っていますが、Mのペアはトーンが揃っていません。そのため、LよりMのほうが脚韻として「響き」が悪いということになります。


4-4 意味的クオリティ

 これは言うまでもないですが、脚韻としての意味/文脈性があるかは非常に重要です。なぜそのペアで脚韻をするのかはよく考慮するべきでしょう。

 読者をより驚かせるような脚韻や、面白い脚韻、含蓄に富む脚韻、詩歌の創造性に寄与する脚韻のほうが、より価値が高いといえます。


5 まとめ

 日本語の押韻詩(定型詩)の詩型について、ようやくここまで考えが進んだなと感じます。これまで色々と押韻や韻律について考察をしてきましたが、すべては日本語の詩歌で押韻詩を作るためです。

 この記事に書いてあることは、理論科学ベースのものと、推測考察ベースのものと、また実践的な感覚から得たものが混ざっていますが、いずれにしても神学論的な議論ではなく、こうしたほうが良いはずだ、という生産的な方向にまとめるようにしています。

 日本語の特性を確実に理解し、前提を間違えなければ、そこに想定されうるような詩型が導けるとわたしは考えています。

 今後も、理論と実践の両面から、詩型を追究したいと考えています。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/