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先生になる、ということ。

先日、教職に就こうと考えている大学生の半日インターンを勤務校で受け入れた。学校や教育理念の説明の後、校舎や授業を自由に見学してもらい、最後に質疑応答の時間を持った。

その際・・・

誰にでも新人時代はある。経験が少ないが故に自信が持てなかったり、生徒や保護者から十分な信頼を得られないこともある。でも、その一方で年齢的にも生徒に近く、それが魅力になることも多いし、組織に新鮮な風を吹かすこともできる。
経験の長さはメリデメ両面あって、経験が少ないことをプラスに活かすことこそ新人時代に大切なこと。違和感を大事に、常に「変化し続ける部分」を残しておいてほしい。
反面、教員生活が長くなれば、その経験値から身につくことも多く、自ら学ぼうとしなくても「いっぱしの教員になった」と錯覚してしまう。それこそ、最も恐れなければならない「安定感」だ。

そんな話をした。

1年ごとにリセットされ、繰り返される営みが多い学校現場は、教員という仕事が「経験」というルーティーンで回せる「予定調和」が色濃く反映され、そこに「変化や成長」を阻む要因が潜んでいる。

もちろん、どんな仕事でもそういった側面はある。ただ、少なくとも単年度ごとにこれほど同じことが繰り返される組織は少ないだろう。社会の動きや相手が変われば、その内容はどんどん変化していく。それが世の常であり、社会一般のありようだ。

でも、学校は違う。相手が変わっても、学年ごとにやるべき内容は決まっていて、その同一性・画一性(=それが平等という解釈)を担保すること。つまり「同じように教える」ことが求められる。性格も特性も違う教員に「同じである」ことを最優先に課し、それが優れた教員だと評価されることが多い。

だから、何度も同じことを経験することが一番の成長であり、それをめざすべく、研修と称して事象をパターン化し、その対応を身体に染みこませる訓練を繰り返す。

学校という中で起きた事象に対し、常に同じ対応ができる人になれ。私自身、幾度となくそんな指導を受けた。でも、残ったのは大きな違和感だった。

同じ対応をすることのみに長けた人が、果たして模範的な教員なのだろうか。いや、そんなはずはない。

学校で起こることだって、背景や原因がすべて異なる。学びのペースや理解も児童生徒一人ひとり違う。状況や気分、行為に至る流れはその時々で千差万別であり、それを踏まえた上で「適切な」判断をすることが「差が出ない対応」だと思う。

それは、決して「同じ」である必要はない。むしろ「同じ」であってはいけない。

先生になるということは、経験を踏まえて(=前例に倣って)「同じ対応」ができるようになることではない。「適切な判断」に基づく「異なる対応」ができるようになることだ。

そのためには、自分自身の感度を保つこと、違和感を忘れないこと、疑問を見過ごさないこと、当たり前を疑うこと・・・

変化し続ける自分を持ち、学び続ける
常に「素」の自分で物事に対処する

それが、「先生になる」ってことの第一歩だと思う。

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