見出し画像

窓のサイズを変えるトリック


 今の街に引っ越して1年が経った。
 安いから、という理由で都心からは少し離れたところを探したのが、静かな場所が好きな自分にはちょうどよかった。
 さすがに最近は減ってきたけど、住み始めの頃は駅に帰ってくるたびに幸せな気持ちになった。夜はとりわけ静かだ。
 音の大きさを「音圧」と表すこともあるけど、音は本当に圧なのだと思う。この街では鼓膜が休んでる感じがする。雪の降る日が好きなのもそのせいだ。雪が吸音材の役割をして、街の音を消してくれるから。
 19才まで住んでいた家は踏切と電車の車庫の近くで、1時になると電車が帰ってきて静かになった。最近まで住んでいた家は車の多い大通り沿いで、夜になるとむしろスピードを上げた車の音がした。

 引っ越しの契約をしているとき、店の奥で別のスタッフが電話してる声が聞こえた。担当してる人の情報を、大家か誰かに説明しているようだった。
「はい、その点は、非常に信頼のあるお仕事をなさってる方なので大丈夫だと思います、はい。お給料も安定していますし。安心なさって大丈夫かと」
 クレジットカードも、マネーカードじゃなくてクレジット(credit:信頼)のカードでしょ。そう書いてあるのを本で読んだことがある。
 信頼かぁ。
 今でもお金はあまりないけど、金さえ払ってれば文句も言われずここにいていいんだなと思うことも増えた。月5万の金を滞らせないこと。それが信頼だ。
 一方、よく使うターミナル駅の、いつも同じ柱の下に、いつも同じ人が座ってる。通るたびに気になるけど、何もできたことがない。
 例えば、もしお暇なら、今読み終えたこの本を渡したら喜んでもらえるだろうか。それとも怒られるだろうか。どっちですかと質問すること自体、やっぱりアウトだろうか。
 実際は「喜ぶ人もいれば怒る人もいる」というのが正解だろう。誰だってカテゴライズはうれしくない。
 もしかしたら、どこかにいる非常に信頼のあるお仕事をなさってるあの人も、ぼくを見て「金をあげたら喜ぶかな、怒るかな」とか考えるかもしれない。そうシミュレートすると実際は2択ではなく、そのときの態度次第な気もする。
 月5万ちょいをギリギリで払う自分と、駅に座るあの人と、非常に信頼のある仕事をしてるあの人は、何が違うんだろう。
 creditは、お金持ちにあって貧乏にないものなーんだ! のあるなしクイズに使われるだろうか。


ーーーーーー


 帰り道に一番使いやすかった0時までのスーパーが、引っ越してすぐ21時までになった。
 でもそんなのは大した変化じゃない。
 山ほどあった変化のひとつに、去年、2020年の春、日本中でマスクの在庫が底をついたということがある。
 新型コロナウイルスが世界的に流行したためだ。
 もう黒マスクを煙たがる人はいない。キティちゃんみたいなキャラ物のマスクで通勤するサラリーマンもいた。
 少し経つと町の空き家にマスク屋ができて、通販でも50枚6000円のマスクが売られた。NHKでは布マスクの作り方が放送された。
 マスクの供給が戻ってくると、今度はどのタイプのマスクが感染防止に有効かが言われるようになった。そのとき提示されたデータで驚いたのは、どのマスクも飛沫(ひまつ)の吐き出しより、吸い込みに弱かったということ。風邪予防のためのマスクは、翌日に出番を控えた出演者よりもむしろ、周りのスタッフがすべきだったんだろう。
 そのうち価格も戻り、種類も増え、ほんのりと色をつけたマスクも出回るようになった。現在は口元が長方形に浮き出るタイプのマスクが女性を中心に人気だ。その理由はメイクが付かないからだそうだけど、単に「みんなしてるから」で選んでる人もいるだろう。
 こんなに全員に影響があるものに流行が生まれてくのを初めて感じてる。

 自由が進めば、不自由が進む。マナーが生まれる。
 というか、マナーを生む人が出てくる。そのうち「〇〇時に黒マスクはNG?」「〇〇のときはこの素材で!」なんて記事も書かれるだろう。ネタ切れのワイドショーやネットニュースがそれらを広めてしまう。
 どのマスクがとか、席の上座がとか言ってられるのは、余裕がある証拠だ。
 実際、キティちゃんのマスクをつけたサラリーマンを誰も責めなかった。災害時の避難所で「パパのあとのトイレとかやなんだけど!」と言う人はいない。ギリギリのところではYesと言うしかないのだ。否定に使えるパワーなど残されていない。

 マナーやルールは村を作るための手法だ。
 その内容は、実はどうでもいい。
 その存在自体に「ふるい」としての機能があり、多少極端なルールを課してでも、それを守れる「安全な人」を村の中に残す仕組みだ。安全な人。
 守れない人は、それが誤ったルールだろうが、言い分が正しかろうが、今後も村の規律を壊す可能性がある。そういう人には「ありえないよねー」「ねー」と集団で噂にしておこう。
 残念ながらルールは、一度決められると簡単には見直されない。「どんなルールだろうが守る安全な人」を探すふるいだからだ。

 だからマナーや伝統の行き過ぎた押しつけは排除と同じ。
 伝統的にと言う人も、歴史的に考えてと言う人も、たいてい好きな歴史を選んでる。だから「石器時代の頃から私たちはずーっとね」と話し始める人はほぼいない。伝統は意外と数十年程度だ。
 無作法だとご先祖様に失礼と言う人もいるけど、あなたのご先祖はずいぶん心が狭いんだなとも思う。父母で2人、祖父母で4人、曾祖父母で8人。ざっくり300年、10世代遡るだけで先祖は1000人だ。その1000人が、全員怒ってることなんてあるだろうか。
 自分の祖先に感謝するのは確かに大事かもしれない。だけど自らのちょっとした行動で仮に激怒する先祖がいるなら、それをなだめる先祖がいたっていい。10世代で1000人、20世代なら100万人なんだから。その優しい先祖も引っ張り出してきて「怒られるよー? 怖いよー?」と言うのも、なんだか失礼な気がする。

 コロナ禍で普及したばかりのリモートワークでさえ、すぐにマナーが登場したから、これからも新しいものには必ずマナーが現れるだろう。
 これは多様性とは真逆のムーブだから、できればみんなで気をつけたい。
 だって、本当にえらい人が座席くらいで怒るはずがないんだから。
 ちょっとした漢字ミスやスペルミスだって、内容が合っているならもう×を付けなくていい。


ーーーーーー


 コロナ禍の「か」の字は、もうみんなが読めるようになった。
 忖度をそんたくと読めるようになったときと同じで、ニュースで散々聞けば、会話でもエッセイでも、使えるようになる。
 せっかく引っ越したから、コロナ禍じゃなければもっとみんなに遊びにきてほしかったけど、今までも自分の部屋では、来た人全員居心地が悪そうだったのが問題だった。
 もっとくつろいでよと言ってもくつろいでもらえず、ラグマットを敷いても大して変わらず、うーんと困ってたときに「テーブルが必要なんだ」と気づいたのはなかなかいい発見だった。
 テーブルがなければ、正面で向き合うか、テレビを平行に見るかしかない。けどテーブルがあれば、まるで焚き火を囲むように会話ができる。なるほど!
 それまではご飯も床で食べていたけど、引っ越しのタイミングで1000円ちょいの小さなテーブルを買った。これで居心地が向上したのでは! とわくわくしてるうちに1年が経った。
 コロナ禍関係なく、気軽に連絡できる友達がだいぶ減っていたようだった。

 本当は、有名人や表現をする人が「友達がいない」と言い過ぎるのがあまり好きじゃない。
 孤独は共感を生みやすすぎるから。
 毎日詩を書いて、もうすぐ10年になるけど、書き始めた頃、特に意識していたのは「暗いだけの詩は書かない」ということだった。
 詩を、楽しい気持ちのときに書き始める人はいない。
 だから暗い詩を書くなんて簡単だと思った。それは表現じゃない。そこにおかしみや光を加えていくのが創造だと意気込んだ。
 それにやっぱり、暗い言葉は、闇の力は、人を引きつけすぎるから。
 今若者に人気のバンドという触れ込みで出てくるミュージシャンのほとんどが闇の力を引き連れてくる。孤独や苦しみ、死を連想させる。
 実力や魅力があるがゆえの引力だとは思う。けどそうして売れていったバンドが、売れたあとは感謝や希望を歌うようになる。「みんな生きててくれ」って。
 いちど闇落ちしなければ、希望は歌えないんだろうか。
 孤独や悲しみを表現やお笑いに昇華できるのは素晴らしいことだと思う。だけどそれだけじゃつまらないじゃない。嫌な青春過ごしたもん勝ちになってしまうし、それでは結局嫌な青春を肯定してる感じがしてそれも嫌だし。
 経験には敵わないこともある。だけどそれでも、その差を想像力で埋められたらとは思っていたい。いじめられないといじめられた人の気持ちがわからないなんて嫌すぎる。
 説得力は想像力からでも作りたい。

 ちなみに「暗いだけの詩は書かない」という縛りは、そのうちに少し緩くなった。
 楽しいときに詩を書かないのだから、詩のスタートは基本暗くなる。そこに光を加えようとすると、どうしても「ダメな自分と最悪な世界。それでもこの世に希望はあるから、不格好でもひたすら走っていこう」という物語性を持つ詩が多くなった。
 これはMr.Childrenの桜井和寿さんやBUMP OF CHICKENの藤原基央さんがよく使う手法で、曲が進むほどに興奮が増していくから大好きだ。だけど毎日書いていると、どの主人公も走り出すのでちょっと飽きてきた。

 もっと写真みたいに、一瞬の感情を切り取れないかな。


 そう思うようになってからは、辛い気持ちも、ただの不満も、あとあと恥ずかしくなったり、塗りつぶしたくなるような気持ちも書けるようになった。
 この変化がよかったかどうかはわからない。
 だけどずっとそこにはいられない。
 どの表現者にも「初期のほうがよかった」というファンがいるのは当然で、受け手としては僕も「もっとあれみたいなやつを作ればいいのに」と思うこともある。だけどそれを作り手が思うのは難しい。
 でも、それがファンでも結婚でも何でも、変化の可能性ごと愛せたら最高だと思ってる。初期とはまったく、姿かたちが変わったとしても。
 それは、口で言うのは簡単だが、とても難しいことだ。「あなたが私を愛さなくなったとしても、私はあなたを愛してる」ということだから。
 それはまるで手の届かない星のような愛。
 手が届かないからこそ、満点を出せないからこそ、最高だと思ってる。


ーーーーーー


 毎日詩を書いてきたのは、せめて言葉だけでも上手に扱えるようになりたかったから。
 それももうすぐ3200篇になる。いやいや続けた日もあるけどなんとか、タイトルを考えるだけでも、1日じゃ不可能な量にまでしてこれた。
 そうして書いてきた詩の中に「言わないところに本音があるの」という詩があった気がする。

 例えば今までに恋人が3人いたとする。
 飲み会で過去の恋愛話になったとき「高校のときはね!」「専門の彼氏は最悪でさー」と笑って話すこともあるかもしれない。でも、もう1人いる。
 その人こそ、今でも忘れられない人か、もしくはもっと最悪だった人かもしれない。
 言わないところに本音があるの。
 家族の話ができない人もいれば、年齢や学歴を言いたくない人もいる。「あー、そっかー」しか言えないときは、嫌な記憶に触れてるときかもしれない。今まさに浮気してる人も、それはなかなか言えないね。
 それに、本当に好きなものほど言いたくないことだってある。本当に好きなものほど、馬鹿にされたり、乱暴に侵食されたくない。
 言わないところに本音があるの。

 透明人間ごっこ、を小学生の頃にした人もいると思う。
 目の前の人を透明人間扱いして「あれ、どこ行った?」「見えない見えない!」とキョロキョロする、どっちかと言うといじわるな遊び。家族でもしたことがあるかもしれない。
 あれ、本当に透明人間扱いをするなら、まっすぐその人の方を向きながら「あれ・・どこ?」と言ってもいいはずだ。
 だけどそうする人はいない。
 みんな左右に首を振って、キョロキョロと斜め後ろの方を見回しながら「あれー? どこにもいないんだけど!」とオーバーなリアクションをする。
 その、見ていない方向が、その人のいる場所だ。
 見てないところにその人がいる。言わないところに本音がある。
 引っ越す前は親と暮らしてたこと。売れてないのに35才を超えてしまったこと。
 言わないところに本音があるの。
 俺はそんなことで人を馬鹿にしないけど、他人はそうじゃないから、と思ってる。他者を信じていないのかもしれない。実際は俺も馬鹿にするのかもしれない。だから言わないでいた。
 なのに人前に出ようとしてる。本音を隠して、愛してもらおうとしてる。
 でもオードリーのラジオを聞いてれば分かる。本音をちゃんと言葉にできる人こそ信頼されるということ。不得意や苦手を受けとめられる人だけが面白い。
 隠そう隠そうとせず、コンプレックスを自ら笑える人は、人に好いてもらえる。失敗話は、本当は面白いからだ。
 親との生活や年齢を隠して、こそこそしてる人にはそれなりの支持しかつかない。2年前から白髪染めだってしてるのに。
 ちなみに「言わないところに本音があるの」という詩は、書いたことがないらしかった。


ーーーーーー


 引っ越す前も、今よく使ってる電車には何度か乗ったことがあった。
 その度に「窓の大きな電車だなぁ」と心が落ちつく風景だった。
 大きな空に白い雲がたゆたってるのが気持ちよくて、詩さえ書いたのも覚えてる。

 だけどそれは間違いらしかった。
 引っ越して何度も乗ってるうちにそれに気づいた。都心まで乗り入れてるこの電車が、都心から離れたときだけ窓の大きさを変えているなんてありえない。
 窓が大きいんじゃなく、建物が低かったのだ。
 こんなに空が大きいのに、窓は大きくなかった。
 なんだよ、錯覚かよ。なーんだ。
 でも、例え電車が空いていたとしても、その比較写真をどこかに載せることはしない。

 新しいこの街で、きれいな風景やおかしな看板を見つけて写真に残すこともある。
 でもその写真もどこかに載せることはしない。
 個人情報漏洩防止のためだ。
 個人情報を漏らさないために、せっかくの楽しい写真の、子供の顔のところにスタンプを重ねてからアップする人もいる。せっかく希望を込めて付けた子供の名前を、絶対に載せない人もいる。
 気に入って住んだ街のことを言わず、愛してる子供のことを言わず。
 言わないところの本音がたまってく。

 そもそもアップしなければいいじゃん。その意見はもっともだ。
 特にスマートフォンが普及してから「オフラインの時間をつくりましょう」とよく言われるようになった。ネットに接続しない時間を作る大事さは僕にも分かる。
 だけどもう、全員がオフラインになることは不可能なのだ。
 自分のオフラインの幸せな時間が、誰かにアップされるかもしれない。オンラインを見ないふりはできても、ないことにはできない。
 だから、オンラインが必ず存在している以上、アップしようとする脳をこれから完全に削除するのは、簡単じゃないと思う。

 この街のことが話せるようになるのは、この街を出てからだ。
 その恋の話ができるようになるのは、その恋が終わってから。
 一生懸命書いたこのエッセイにも、わざわざフィクションの要素を足している。書き直してるうちになんか腹が立って「〇〇駅だよ、〇〇」と締めくくった下書きもあったけど、それもやっぱり削除した。
 言わないところに本音がある。
 他の街に行ったときはいくらでも写真を載せられるから、そうして5年分くらいデータを集めて地図上にピンを刺していったら、ピンが刺さらなかった場所こそが今住んでる街かもしれない。
 言わないところに本音があるの。
 だから頭のいい人は、あえてフィクションに本当を混ぜたりする。頭を使うカードゲームなんかで使われる上等なテクニックで、嘘と本当の境界をグチャグチャにしておけば、相手の推理を停滞させることができる。
 でも、何のために。
 個人情報には気をつけなよー? と誰かが言うし、僕も言う。
 でも正直うんざりしてる。
 住んでる街の写真を載せなかったり、女性が好きな格好を諦めたり、荷物を離れたコンビニに配送してもらったり。
 自己防衛とか危機管理能力は絶対必要だけど、確かにそうだけど、ときどき、大人なふりをするのが面倒になるときはある。うるせえ!

 いつかこの街の話をしてるときのことを想像してみた。
 すると、あとどのくらいこの街に住むのかなと思うようになった。
 今歩いているこの道が、いつか懐かしくなればいいと斉藤和義が歌う。
 懐かしくなるのかな。
 数年後、話せなかったこの街の話を、存分にしてるんだろうか。
 そのとき住んでいる街のことは、秘密にしながら。




※このエッセイにはフィクションが含まれます。
※そのうち「タブーと危機管理能力」のエッセイを書く予定です。お楽しみに。


→ 書きました(1年半後)。




■ギリギリのところではYesと言うしかない

■内側では独自のルールが生まれやすい

■今まで書いた詩のタイトル一覧

■最近書いたメッセージ文章「ちゃんとしなくちゃと思う人に」

■今回のエッセイを書いたときのこと、ラジオで話しました

■別のリアルタイムエッセイ

■「タブー化と危機管理能力」

  ラジオバージョン


□他のエッセイはこちら
https://note.com/yasuharakenta/n/n24a3c79136c4

YouTube
Twitter
Instagram
詳しい自己紹介



サポートは、ちょっとしたメッセージも付けられるので、それを見るのがいつもうれしいです。本当に本当にありがとう。またがんばれます。よろしくおねがいします。