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グラデーション アンド ノーピープル(うまく生きれない人の救い方)


 このエッセイは、とても長くて、できたら映画か短編小説みたいな気持ちで読んでもらえたらと思ってるのですが、もっと読んでもらいたくて、超ダイジェスト版を作りました。

 とても楽しく作ったダイジェストなので、どちらを読んでもらっても大丈夫です。読んでもらえればそれでうれしいです。


ーーーーー


[0]

※このエッセイは性質上、調べ物をいっさいせずに書いています。
 不適切発言があるかもしれないことをご了承ください。


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[1]

 ある朝、ツイッターの「その瞬間話題のワード」一覧に、あるお笑い芸人の名前があった。久々に見るその名前に反応してクリックすると、すぐに関連投稿が表示された。

「差別発言」
「この芸人は許されないことを」
「テレビ局はすぐに謝罪すべきだ」

 体がこわばる。
 どうやら朝のテレビの生放送で、何らかの不適切発言をしたらしかった。
 だけどそこから、どれだけ投稿をさかのぼっても「その発言」が出てこない。
 それはそうか。言ってはいけない言葉なのだから。

 それがアイヌに関係してるらしい、ということはすぐに分かった。
 だけど表示されるのは「アイヌの歴史を」とか「アイヌの人の気持ちが」とかそんなものばかり。肝心の発言にたどり着いたのは、ネットの検索も使って、15分もした頃だった。
 そして、きょとんとしていた。
 その発言がただの言葉遊びというか、ダジャレというか、そのたぐいのものだったから。

 その不適切発言は「あ、犬」だった。
 知識なく、これが差別的だと気づける人はいるんだろうか。
 調理実習で砂糖を手にした同級生に「ほら、さとう!」と言われた佐藤さんなんて山ほどいるだろうし。おもしろくない絡みでかわいそう、とは思うけど、差別的!とは思いにくい。
 だけど調べてくうちに、そうやってアイヌの人たちが虐(しいた)げられてきた事実があるのも分かってきた。もしかしたら、今より犬や猫に対して「下等」というイメージもあったかもしれない。

 だけど、それが言葉遊びであることには変わらない。
 というかそもそも、完全な新語で誰かを傷つけることは難しい。
 僕らが「ファックユー!」と言われてもピンとこないように、日本語の話者以外に「クソが!」と言っても別になんともないと思う。
 だから悪口には、相手も知ってるはずの言葉が使われる。
 あ、犬という発言は、当時のアイヌの人の日本語レベルと関係していたのかもしれない。仮に「藍縫い」という裁縫方法があったとしても、伝われなければ悪口にならない。
 犬というありふれた言葉は気軽に言える。
 ただの動物の名前だから、下等ともよそ者とも言ってないから、気軽に言える。気軽に言えるから、広まっていく。広まって、嫌なほうの意味が浸透していく。
 ほとんどの差別発言は、いつも青色の服を着ている人を「あの青色がさ」って言うような、悪口の意識もないレベルからスタートしてたのかもしれない。
 誰にでも思いつくし、誰にでも言えてしまう。
 だからあのお笑い芸人さんが思いつくのも、当たり前だと思う。僕だって生放送でコメントを求められたら、冗談のつもりで口に出してたかもしれない。
 だけどネット上には、壮絶な批判が書き込まれつづけていた。

 どうして教えてあげないんだろう。
 湧いてきたのはその気持ちばかりだった。どうして教えてあげないんだろう。
 テレビ局がその後謝罪したかはわからない。けど、謝罪するときはたいてい「ただいま不適切な発言がありました。訂正してお詫びします」と頭を下げるだけ。
 これでは、どの発言がどう不適切だったのかが何もわからない。謝罪すべきと怒ってた人たちはこれで、あーよかった、と思うのかな。
 どうして教えてあげないんだろう。
 あ、犬という発言は、ただの言葉遊びではなく、アイヌの人たちが蔑(さげす)まれてきた歴史に通じてしまうので、よくないとされています。ただ、その歴史を知らないと気づきにくいことですので、先ほどの芸人さんにはそのように説明をさせていただきました。我々もチェック不足にならないよう、以後気をつけていきます。
 って、どうして言ってくれないんだろう。

 確実に言えるのは「次も同じ人」が出てくる、ということ。
 無知な人が笑いを取るつもりで「あ、犬!」と言って、非難にあって、糾弾される。(きゅうだん:大勢で誰かを追放するほどの非難をすること)
 その発言も忘れられた頃、また同じような人が出てきて、糾弾されて、追放される。

 非難ばかりして、謝罪ばかりさせて、誰も教えてあげない。
 誰も教えてあげないのに、発言したら一発アウト。
 やり直しがきく社会とか、失敗していいんだよとかいう言葉は、ぜんぶ嘘だったって分かる。
 そもそも、そういう言葉がありがたがられるのは「そういう社会じゃない」という証明でもある。「好きなだけ体を洗ってもいいんだよ」と言ったところで、たいしてありがたがられない。

 もし、さっきの「砂糖」に「生き物ではない」という差別的な意図が込められてたとしたら。
 それに気づけてた人はいる?
 それを知らずに発言してしまったら、その人はアウトだろうか。
 そもそも生放送で、悪意100パーセントで差別発言なんかするだろうか。
 知らない人からしたら「犬」も「砂糖」も変わらない。
 だけど社会は激怒する人ばかりで、誰も理由を教えてくれない。
 教えてくれないのに、失敗したら自己責任。

 じゃあもう、何も言わないのがいいね。
 危機管理能力とは、何も言わず、黙っていること。

 アイヌのことを言うと激怒する人がいるらしい。じゃあアイヌについては触れないでおこう。
 そう考えるのは当たり前だと思う。そうすると詳しくない人が去って、怒る人ばかりが残る。そこにわざわざ飛びこみたいと思う人は、余計にいなくなる。
 つまり、黙るという危機管理能力が広まると、起こるのは「タブー化」だ。触れないでおこう、どころか「触れてはいけないもの」になっていく。
 差別発言だと怒った人たちは、アイヌや歴史を愛していたんだと思う。
 だけどその結果、アイヌから人を遠ざけて、文化が衰退していくかもしれないことは、どうでもいいんだろうか。

 どうして教えてあげないんだろう。
 ちゃんと教えてあげれば「その発言だけ」を部分的に取り除けたのに。ちゃんと教えてあげないから「アイヌってやばいらしい」と全体の印象にしてる。世の中にはそのテーマに関心がない人のほうが圧倒的が多い。そのことに知識のある側が気づいていない。
 ジャガイモの芽には毒があるから取り除こうね。
 そう教えてあげないから「ジャガイモはもう食べません」という対処法しか思いつかせられない。それどころか「自業自得だ!」「ジャガイモ農家がどんな気持ちで生産してると思ってるの?」「二度と料理すべきではない!」と簡単に激怒する。
 だから新規ファンや新規参入が減っていく。新規が増えないジャンルは必ず廃れていく。
 アイヌの人たちも、ジャガイモ農家も、それを望んでいるんだろうか。

 誰でも思いつくレベルの言葉が使われるのが悪口だったね。
 だから「犬」という単語そのものがいけなかったんじゃない。その「使われ方」がいけなかった、ということ。
 大事なのはWhatより「How」。何を言うかよりも「どう言うか」だ。
 単語そのものがいけないわけじゃないから、その単語だけを排除しても何も変わらない。貧困を理由に事件を起こした人だけを捕まえても、貧困が解決されなければ同じような人や発言が出てくるのは当たり前。見た目だけをクリーンにしても何も変わらない。
 あ、犬という発言が元々悪かったんじゃなくて、文化がちがうからと見下したり、蔑んだり、圧力をかけていたことがいけなかったんだよね。蔑む気持ちを込めて「このマグカップが!」と言いつづけたら、今度はマグカップが差別用語になるだけ。「女」や「男」と言わなくなってきたのもそれだけの理由だよ。女性や男性という単語のほうが優秀というわけじゃない。女や男のほうが批判的に使われてきただけ。
 個人的に「中国の人」「アメリカの人」みたいな言い方を選ぶようになってるのも、〇〇人(じん)という言葉が使われる文脈に批判的なものが目立つから。危機管理能力が、気にしすぎだと思っていても、正解かはわからなくても、不安なものを避けていってしまう。
 でもマグカップも女も中国人も。言葉が元々いけないわけじゃない。
 だから「使われ方」とか「しくみ」を教えてあげないと同じようなことは繰り返し起こる。

 それに「しくみ」が分かれば「応用」がきかせられる。
 例えばセクハラとパワハラとモラハラには、権力か体力がある側からされるという共通点がある。だから似たようなことは、現時点では名前がついてなくてもダメだって分かる。
 それどころか「しくみ」がわからないものは怖がられてしまう。
 入ったことないお店に緊張するのも、初めてのバイト面接に行きたくなくなるのもそう。つい国内旅行を選んでしまうのもそう。よく知らないものは怖がられるし、怒られそうならなおさら。
 だから「しくみ」を教えてあげれば、怖がられないで済む。
 ジャガイモ全部を捨てられずに済むし、アイヌ全体を怖がられずに済むよ。

 大人なんだから、人前に出るんだからと言う人もいるかもしれない。
 だけど他人の歴史や文脈をすべて把握しておくことは不可能だよ。
 もちろんあからさまな単語は避けておくべきだとは思う。
 だけど、さっきおかしな例として出した「砂糖」だって、実際に泣いてしまった佐藤さんもいたかもしれない。映画やマンガでは、なんでもない言葉に泣き崩れた人の過去パートが始まって、どうしてその言葉に動揺するようになったのかが描かれることも多い。マイナスな理由ではないけど、ポテチという小説では、間違えて買ってきたコンソメ味のポテチを恋人が「こっちも悪くないね」と言っただけで主人公が号泣するシーンがある。
 あなたも僕が何で傷ついてきたかは知らない。その逆もそう。
 だからコミュニケーションは、はじめから誰かを傷つける可能性を含んでる。

 いくら危機管理能力が働いたからといって、コミュニケーション全部をタブー化するわけにもいかない。
 いくら誰かを傷つけそうだからといって、全員でずっと黙りつづけてるわけにもいかない。
 じゃあ失敗は、もっと許容されてもいいんじゃないか。
 みんなが失敗や逃走にもっと寛容だったら「失敗していいんだよ」「逃げちゃっていいんだよ」という言葉の必要度は、もっと下がっていくのだと思う。

(かんよう:気にしないで許してあげられること)


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[2]

 すでにタブー化が進んでる言葉や分野はいくつもある。
 例えば、白人、黒人。言っていいか不安な人もいると思うけど、これは大丈夫みたい。
 でも外人はたしかダメなんだよね。外国人はOKだったんだっけ。
 深夜ラジオのCM明け、番組担当者が「不適切な発言がありました。訂正してお詫びします」とだけ言ってまたCMに入ったことがあったけど、それは乞食(こじき)という単語についてだった。
 別のラジオでは、電話コーナーでリスナーが「きちがい!」と叫んで、進行役がドタドタと慌てて、後日の配信でその箇所が保留音みたいな音楽に差し替えられて、そのままそのコーナーがなくなったこともあった。
 どうして教えてあげないんだろう。
 きちがいはアウトで、狂ってるは平気で、気が触れてるは微妙にアウトで。
 でも死ねや殺すはいいんだって。嘘でしょ。
 こじきがダメなら、ホームレスはどう? 路上生活者は?
 これはもう、言わないでおくのがいいね。どれが怒られるかわからないもの。
 見てみないふりしておくのがいいね。
 気にして肌の黒い人、外国の人と言ったところでどうせ怒られるから、もう気にもしないほうがいいね。
 オカマという言葉もあまりよくないらしいけど、オネエ、ニューハーフ、ホモ、ゲイ、そのうちのどれが使っていい言葉なのか、もう全然わからないから、考えないでいるほうがいいね。

 分かると思うけど、タブー化されるのは大事なことばかり。
 大事なことだから、絶対にタブー化なんて起こさないほうがいいことばかり。
 だけど大事がゆえに、許せなかったり、激怒する人たちがいて、結果的にそのジャンルから他者を遠ざけてしまう。わざと餌をまいたようで申し訳ないけど「そのジャンルっていう言葉ってどうなの?」みたいなのもそう。そこで怒ると、この話は終わってしまうよ。
 でも、どうでもいいことに人は怒らない。
 激怒してる人が「他者を排除して自分だけのものにしたい」ならそれで成功だけど、タブー化のことなんて全く頭になかったのなら、そのやり方は考え直したい。

 生理休暇みたいな話が進まないのも、性をタブー化しすぎてるせいだと思う。
 隠すと見たくなる。だから生理と聞くとニヤニヤする人たちが現れる。「生理痛がつらくて」と言いにくいのは当たり前。
 教室を男女でわけないで、恥ずかしがらないで、ちゃんと教えればいいと思う。
 性教育も同じ。偶然いいパートナーに出会ったラッキーな人だけが愛と性を結びつけられるなんてもったいないと思う。
 なんで若くして子どもを産むのは勧められないのか。実際お金はどのくらいかかるのか。それはその年齢でどのくらい働いたら稼げるお金なのか。離婚率は成人とどのくらいちがうのか。避妊がどのくらい拒絶されたせいなのか。無知はどのくらい影響してたのか。
 ちゃんと教わってないのに「もう子どもじゃないんだからそのくらい分かるでしょ」とか言われるのって、つらいと思う。ちゃんと教えないくせに「ネットの情報は危険だからね」とだけ言うのって、変だと思う。
 隠すと見たくなるから、女性だけの全身水着もそのうち変わると思う。さすがに女性が上半身裸になるわけにはいかないだろうから、男性の全身水着が普及するような気がする。両方隠せば、わざわざ隠してる感じがだいぶ減るから。男児ではすでに広まりつつあるみたいだけどね。
 それと、女性器だけが放送禁止用語扱いなのもずっと変だと思ってるから、男性器のこともそのうち言わなくなっていくと思う。もしくは別に両方言ってもいいと思うんだけど、性はタブー化されているので誰もそれを口に出せない。

 ちなみに、成人年齢が20才から18才に引き下げられても、飲酒年齢が20才のままだったのは、健康面から? それとも18才が精神的に未熟だからかな。
 20才はそんなに成熟?
 最近はSNSの普及でだいぶ気をつけられていると思うけど、それでも高校を卒業したらなんとなく解禁になる雰囲気は、正直ある。それを芸能人だけが律儀に守らされてる感じが、どうしてもする。でも彼ら彼女らが「変ですよね」と口にすることは、それ自体がルールを破ってる、もしくは破りたいという証拠になるから、言うことができない。
 18才と20才と22才で、アルコール処理の数値はそんなにちがうのかな。
 18才には自制心がなくて、酔いつぶれた大人にはそんなに自制心があるのかな。
 処理能力に年齢差があるのなら、きちんとデータで示せばいいと思う。示さないということは‥? と勘ぐられずに済む。
 仮に処理能力に決定的な差がないなら、推奨はしないけど猶予期間として高校卒業から20才までは1杯程度をオーケーにするとか、あるいはそんなに心配なら、高校卒業の3月にアルコールの授業を入れればいいと思う。真面目な人ばかりが損してる感じはやだ。
 ちゃんとした説明をせずに「ダメ」とだけ言えば、ルールを破るのが楽しくなってる人には破られて当然。ちゃんと教えれば、なーんだってなる人もいるよ。
 賭け事の話も、ハザードの使い方も、教えてあげればいいと思う。

・・・

 こじきもきちがいもアイヌも。
 謝罪時にその単語に触れないのは「危機管理能力=黙る」がすでに働いてる、とも言える。
 具体的に触れてしまえば、その発言が改めて注目されて、もっと問題になるから。
 それは「ちゃんと謝罪した人が世間から消えて、何も言わない人がいつまでも堂々としてる例」がいくらでもあるせいだと思う。
 壁に穴をあけた自分の子どもには「ちゃんと謝りなさい!」と叱りつけるくせに、自分たちは決して謝らず、認めず、なんとなくうやむやに、うまくいけば時間に解決させようとしてる。言う必要のない個人的な恋愛を謝罪する必要はないけど、いずれにせよ静かに、普通にしてる。
 一方で、きちんと話そうと勇気を出した人は、責任を負って追放される。
 このしくみを、小学生に説明できる人なんていない。

 小学生に説明できない社会のしくみなら、小学校を変えようか。
 それとも社会を変えようか。
 人は誰でも失敗する。コミュニケーションは誰かを傷つけてしまうかもしれない。全分野の歴史を把握しておくこともできない。きっと次は自分が失敗する。
 だから失敗しないことは大事なことじゃない。不可能なことは大事じゃない。
 大事なことは。
 僕は、失敗を受けいれて勇気を出した人の側(がわ)にいたい。
 失敗してないふりして、ずっとえらそうなほうがおかしいって言いたい。

 そうじゃないと、黙ってる人に都合のいいように進んでしまうよ。
 黙れば「タブー化」が進む。当然それを、自分の都合のいいように使う人だっている。
 いろいろな値上げも原子力発電も、なんとなくタブーっぽい感じにしといて、誰かが何かをすんなりできるようにしてる可能性はある。余計な議論を起こさないように、説明も訂正も謝罪もせず、しれっとやってる可能性はある。説明責任は、果たさなければ問われない。
「でも後々面倒だから、説明はサイトの隅にでも小さく、見つからないように載せとけよ」
 賢くやれという言葉が「うまくごまかせ」と同義になる。バカ正直に謝る人は「バカなやつ」になる。そんな社会で本当にいいのかな、と思う。

 だから、学校側がいじめの問題を隠蔽しようとするなんて当たり前なんだよね。
 その学校だけの責任じゃない。失敗を許さない雰囲気が、失敗の報告を極端に怖がらせてる。車の事故を起こして、ついその場から逃げてしまう芸能人の気持ちは、本当はみんなに分かると思う。
 みんな怒られるのが怖くてしかたない。
 だからできることなら報告せずにこのままでいたい。割れたコップは隠しといて、バレなければそのままにしたい。
 失敗が許されない雰囲気では、そうやって「ズル」が横行するようになる。
 有給申請を出すたびに理由を聞かれるから、もう体調不良ってことにして当日欠勤するだけ。無茶な締切ばかり押しつけてくるから、馬鹿なふりして持ち出し禁止のPCを持ち出すだけ。運転するなって言っただろって怒られるから、こっそり車を出すだけ。唐突な荷物検査は、何だかわからないけどタオルで隠しとくだけ。
 防犯カメラに映らない死角とか、あの社員が来ないタイミングとか、そういった情報が流通して、同期の間でも「ズルしないほうがバカだよ」という雰囲気が蔓延する。「みんなやってるよ」の言葉を安心材料にする。
 その風潮に「これはおかしい」と気づく人も当然いたと思う。だけどそれがただの疑問だとしても、口にすれば反乱分子として見なされる。
「その質問をするってことは、そうしたいって思ってるってこと?」
 それが面倒だから、上には言わずこそこそするようになるだけ。

 ただ、それを繰り返してるうちに、当然取り返しのつかないミスや大事件に発展することもある。それは誰の責任?
 チームの雰囲気づくりにミスはなかったよね。
 隠蔽したくなる雰囲気にはしてなかったよね?
 風通しの悪い空間では、こんなふうに簡単に何かがよどむ。外から見えるころにはとんでもない事態になる。だからできれば意見ボックスみたいなのがあって、それも匿名で送れるといいんだけど、それもなかなか設置されていない。
 結局、部下は部下同士、上司は上司同士で不満を溜めていく。

 でもこれら全部、失敗が許されない雰囲気が緩めば解決することなのにな。
 怒らないであげて、タブー化を避けてれば大丈夫だったことなのにな。
 だけどその指は今日もアンチコメントを探してる。


・・・


 そもそも、部下や後輩のミスで怒るのは、上司や先輩のミスだよ。
 怒るのは二流とか、感情をコントロールできないのが未熟とか、そういうレベルの話じゃない。ミスを想定してないからだ。
 上司や先輩からすれば、知識も経験もたりない部下や後輩がミスをするのは当たり前で、それを分かって採用したり一緒にやってる以上、ミスが起こるのは当たり前。だってその仕事は、自分ひとりではできない仕事量なんだよね。ミスする可能性を差し引いても、いてくれたほうが助かるって判断したんだよね。
 だから、ミスをしたときに怒るのは、ミスを想定していなかった上司や先輩のミスになる。
 仮に自分と同レベルの人として扱ってたとしたら、給料を上げるか、その態度を変えるかしないと変だよね。たりないって分かってたはずだし、自分にもたりない頃があったんだから、本当はうまくいかない気持ちだって分かってあげられるはず。
 知識がある人はやさしくできる。なのにそうしないのは怠慢だ。(たいまん:なまけてること)

 吹奏楽部に所属していた中1のころ、先輩はずいぶん楽そうに見えた。
 遊んでばっか。命令ばっか。でもちょっと練習すれば演奏できるし、気楽に合奏も参加できる。
 だけど実際に自分が先輩になると、プラスされるのは後輩の指導だけじゃなかった。先生とのやりとり、学校とのやりとり、それに雰囲気づくり。自分がされて嫌だったことはしたくないし、そうすると頭で考えなきゃいけないし、演奏だってもっとうまくなりたかった。つまり、めちゃくちゃ大変だった。楽しようと思えばいくらでもできて、やろうと思えばいくらでもやることがあるのが、先輩や上司、つまり知識や経験がある立場なんだと学んだ。
 楽をしてる人の言葉は届かない。
 届かないと、よりイライラして、頭での理解をあきらめて体で押しつけて、より反発を生む。
 そんな人の言葉は届かない。
 そして「あいつらわかってないよな」と先輩は同期どうしで結束を強くして、「先輩ってひどいよね」と後輩も同期どうしで結束を強めて、代が変わってもそれをくり返すだけ。同期の結束が強いのは、先輩との断絶が大きかったからだよ。
 でも、たった1年だけのちがいで、えらそうにできる人はたくさん見てきた。相当な意識がなければ、みんな楽なほうへいってしまう。そのことも、その頃に学んだ。
 みんな見てきた景色のほうへいってしまって、くらってきたきつい目を、平気でくらわせる。

 そうやって、部下や後輩のミスが許せなくて説教してる最中に発した言葉が、相手のトラウマを呼び起こしてその人は会社に来なくなるかもしれない。
 どこに誰の文脈があるかわからないんだから。
 後日こちらから謝罪しても、ずっと話を聞いてくれなかった人のことを、もう部下や後輩は許さないかもしれない。
 へんてこな発想だけど「それだけは言われると傷ついちゃうんです」って言ってもらえる雰囲気づくりができていれば、それ以上のトラブルにはなりにくかったんだと思う。


ーーーーーー


[3]

 何かに反対するなら、過激な賛成派になるといいって聞いたことがある。
 その逆もそう。何かに賛成なら、過激な反対派になるといい。

 ハロウィンに反対なら、いっそハロウィンにコスプレして車ひっくり返したりすればいい。嫌いな団体がいたら、いっそそこに入って過激な行動をアップロードして非難の嵐に巻き込めばいい。好きな政治家に票が入らなそうだったら、いっそその人に危害を加えるくらいの行動をして同情票を集めればいい。
 ただ、分かると思うけど、これを意図的にやるのはめちゃくちゃに難しい。
 実際には、意図しない「過激な賛成」で、その逆の「反対意見」の味方をしてしまうことばかり。
 さっきのアイヌもそう。たとえばフェミニズムもそう。
 もっと近いところだと、卒業式で隣の同級生が大号泣してたら冷静になってしまったり、電車の遅延に向こうで人が駅員に怒り狂ってたらむしろ駅員側に同情しちゃうのもそう。歴の長いファンに注意されてファンになるのをやめてしまうのもそう。
 その瞬間の許せない気持ちは分かるけど、猛烈に怒ると、結果的に他者を遠ざけたり、むしろあざ笑われたりする。それは本意じゃないと思うから、グッとこらえるのも時には、ううん、大体いつも必要だ。

 ちょっと不思議な話を聞いたことがある。
 宗教では、信者に積極的に家族や友人を勧誘させることがあるけど、勧誘をくり返せば煙たがられるのは目に見えてる。あれは、意図的な場合があるらしい。その信者を孤独にさせることで「やっぱり分かってくれるのはこの場所だけ」と思わせる作用があるらしい。
 家族や友人が、強引な勧誘のせいで連絡を避けるようになるから。
 過激な賛成が、反対意見の味方をしてしまう。

 みんなで何かに丁寧に反対してたはずが、批判ががーっと集まると、必ず生命に関わるような暴言を吐く人が出てきて、話し合いはそこでおしまいになる。訴訟とか裁判の話になって、意見はもう伝わらない。
 ある大会の審査員の自由さに腹を立てて「聞いてるかクソババア」と言った関係者も、昔の自分のイメージと変わってしまったミュージシャンに「死ねばいい」と投稿した人も、批判してたつもりがみんな自らが批判の対象になっていった。それが仮に必要な意見だったとしても、意見はもうおしまい。
 どうでもいいことに人は怒らない。大事なものや記憶が傷つけられて許せなかったんだと思う。だけど瞬発的で過激な行動が、長期的な逆効果を生んでしまう。

 たしかに、話が通じない相手に、攻撃的だったり、暴力的な手段を使いたくなるのも分かる。聞く耳を持たなかったほうが悪いと思うこともある。
 自分と相手だけの個人的な問題だからいいだろ別に。それも分かる。
 だけどどんな小さなニュースでも、心を一致させて悲しむ人はいる。その攻撃は、どうしても社会を巻き込んでしまう。


・・・


 過激に攻撃できてしまう理由のひとつが「自信」かもしれない。
 自分はまちがっていない。相手はまちがっている。だから強く叩くことができる。
 あらゆるフィクションには不道徳な人が出てくるのに、それらを完全な別人として楽しめてしまう。状況や環境がちがったら、自分も同じことをしていたかもとは思えない。
 状況や環境が、たまたまラッキーなだけだったと思えない。
 ラッキーどころか、それを「自分の実力」だと思ってしまう。だから相手も、偶発的な理由ではなく「実力不足」と決めつける。
 たまたま顧問が優秀だっただけで、自分たちが優秀だと勘違いするみたいに。
 たまたま顧問がそれなりだった他校生を、下等だと思ってしまうみたいに。
 たまたま経済発展が早かった国に生まれただけで、民度の高い低いが評価できると勘違いするみたいに。

 たとえば不倫だって、最初から「不倫そのもの」がしたかった人はいないと思う。ただ目の前の人を好きになったか、ただ欲求に負けただけ。出会うか出会わないかの差は大きいし、タイミングの問題もあったと思う。だけど「自分は絶っ対にありえないから!」と切り離せる。
 そうやって不倫を汚らわしく感じてる人は、出会いを「不倫」にカウントすることはできない。だから出会いは「運命」になって、むしろ余計に溺れてしまう。

 自分もそうかもしれない。
 へんてこだけど、そう構えておくことが「そうしないための」一番の対策なんだと思う。
 たまたま出会ってないだけかもしれない。たまたま殺意を抱かずに済んでるだけかもしれない。そういう心構えがない人に、新しい感情は響きすぎる。不倫するわけがないから運命だとか、この私が殺したくなるならそうされてもおかしくない人間だと、のめり込みすぎてしまう。
 あらゆる物語やニュースを別人と思ってきたから。予習してこなかったから。
 ニュースの「容疑者はどうやら小さいころに両親の不仲があったそうなんですね」という原因らしきものに、よかった、自分とは関係ないや、と安心してきたから。

 そもそも、強く叩くこと自体が正しくない気がする。
 逆効果という意味でもそうだし、暴力という意味でもそう。
 失敗したり不倫した人がメディアから追い出されて、メディアには自信のある優秀な人ばかりが残る。だけど優秀な人の「こうすればいいじゃん」「なんでできないの?」は、普通の人には届かないよ。
 それができてたら失敗してないもん。
 優秀な人が正しいときの正しい言葉は、そのときどうしてもそうあれない人には暴力になる。でも「状況と環境がちがえば、自分もそうだったかもしれない」と思えたら、言葉は自然とやわらかくなって、切り離されたと傷つく人を減らしていけるよ。
 全員を傷つけないコミュニケーションは存在しないかもしれない。だけどなるべく頑張りたいと思っておくことはできる。

 本屋を歩いてると、そのときの世間の関心事が分かる。
 整頓術のことだったり、節約術のことだったり。お金と自己啓発の棚は必ずあるけど、社会系の棚はそうでもないことだったり。
 心についての本もよく平積みされてる。
「人付き合いはこれだけ!」とか「これさえ守れば大丈夫!」みたいのが多くて、まあそういう答えが欲しい人が手に取るからいいんだろうけど、どうして「自分の場合は」って言わないのかなっていつも思う。「自分の場合はこれがよかったです」って、どうして書かないんだろう。
 どうして自分の経験だけで、人のことも分かった気になるんだろう。
 わかるよ。強い言葉には惹かれるし、キャッチフレーズとはそういうものなんだと思う。手に取ってもらえなきゃ意味ないしね。だけどそれは釣りでしかなくて、釣ったあとのことが考えられていない。だったら、心の本なんて書かないでほしいと思っちゃう。
 なんだ子育てって大変じゃないじゃん。
 そう思って生んだ二人目にはやたら手のかかることもある。一度の経験で付けた自信は結構危ない。その人が一人目だけのときに「えー。子どもなんて抱っこしてれば勝手に寝ない? 抱っこのしかたで検索してみたら?」とアドバイスのつもりで言ったことで、友達は帰ってから泣いたかもしれない。
 優秀な人が正しいときの正しい言葉は、そのときどうしてもそうあれない人には攻撃になる。

 自信がない人のほうがいいと思うことが多い。
 ワイドショーは、ワイドショーに向いてないと思う人だけが向いてると思うし、政治家は、政治家に向いてないと思う人だけがなってほしい。自分は向いてます、完璧にできますと言える人は、僕なら怖いし、そういう人に人の弱みを語ってほしくない。
 人前に出るんだとしても、大人だとしても、人前に出る自覚が完璧な人のほうが怖いし、完璧な大人や親がいると信じてる人のほうが怖い。
 コミュニケーションはきっと誰かを傷つけるから。
 最近は「自信のなさ」や「自己肯定感の低さ」がすごくテーマにあがるけど、自信満々で誰かを攻撃するくらいなら、自信ないほうがずっといいと思う。
 完璧を押しつけないほうが、完璧に立ち回れないほうが、ずっといいと思う。
 カウンセラーを目指してた知り合いが「患者の悩みは持ち帰らないようにするの。自分が引っ張られたらおしまいだからね」と言ってて、そういうケアは絶対大事だと思った。だけど少なくとも僕なら、その人には何も話したくない。
 ワイドショーで何を言っていいかわからなくなって頭を抱えてる人がいたら、その人なら信頼できる。
 国際線で見た、着陸時に窓の外をのぞいて「うわあ!」っていう表情をしてたベテランのCAさんとか、葬儀場で見た、明らかに声がうわずっていたスタッフの人に、自分は憧れる。そういう人になりたい。


・・・


 だけど自信のある人たちが簡単に激怒するので、大事なことが続々とタブー化されていく。
 向いてる人、理解してる人、と思ってる人だけが残って、余計に他者を排除していく。怒ってる人ばかりだから、怒ることが正当化されていく。
 そして残念なことに、怒ってる人は我を忘れてしまう。
 人の心はオセロの終盤みたいには自分と同じ色にならないのに、そのことがどうしても気に入らない。いい社会のための正義だったはずが、正義のための正義に変わっていって、その正義のためなら暴言や暴力をいとわなくなる。
 よく見れば、周りには、同じ状況で怒ってない人もいるのに、そのことにハッとできない。むしろ、気づいてないのは馬鹿だからだ、気づいてるのは自分だけなんだと、その使命感を増幅させてしまう。怒りすぎていることを、視野が狭くなってる証拠ではなく、正しさの証拠に使ってしまう。
 そしてもっと残念なことに、それは元々考える力があったはずの人に多い。そういう気がする。
 正解を出しつづけてきたせいで、自分が間違える可能性には目がいかないのかもしれない。
 人を傷つけるための思考力なら、捨ててしまうのがいいと思う。

 ひとをぶってはいけないこと。
 わるぐちをいわれたらきずつくこと。

 4才で覚えるようなことを、忘れずにいれる人が、頭のいい人だと思う。
 だけど、身につけてきた知識の草むらで、そのスタート地点が見えなくなる。
 考えすぎて「人は結局滅びるものだからさ」とか「人間って争う動物なんですよ」とか「俺らってただの分子の集合なわけ」とか言って、人の話に耳を傾けない。誰もそこまで前提の話はしてないのに。
 やさしくできない思考力は、固執のための思考力は、思考力じゃないんだと思う。
 どこにでもいけるのが思考力なのに、あなたはずっと同じ積み木を積み上げている。

「たしかにそうかもしれないですね」
「ちょっと持ち帰って考えてもいいですか」
「もしかしたら間違えてたかもしれないです」

 そう言うことは負けじゃない。そもそも対話が勝負じゃない。
 どんな場合も、相手が何を言っても、間違いを認めるつもりがない人との話は対話にならない。それは世直しじゃなくて、攻撃。
 知識があるなら、穏やかに教えてあげればいい。もし間違えてたら、穏やかに認めればいい。
「だって向こうが!」
 ちがうと思う。知識のある人はやさしくできる。選択肢が多いんだから。
 その選択肢の多さを使って工夫すればいい。
 伝えたかったはずなのに相手を黙らせたり怒らせただけなら、それは勝利じゃなくてやり方を間違えたってことだよ。「あのさあ」とか「出たよまたこういうやつ」みたいな口調で、ふんふん頷ける人もいない。「こんなこともわからないのか!」って、そんなこともわからない人に言うのは変だよ。

 知識がある人が、好きなものを愛でつぶしてる場合じゃない。
 作戦としてもっと気軽に質問できる雰囲気にしておくほうが、怒鳴るよりずっと分かってもらえるよ。
 強い口調を避けて、タブー化を避けて、存続可能にしていこうよ。


ーーーーーー


 このエッセイはここで折り返しです。
 2つに分けるか、2つ以上に分けるかで悩んだ結果、分けないことにしました。
 長いぞ、ちょっと疲れたぞ、という方は、休憩するならこのタイミングです。
 ただ、この文章はここからさらにうねりをあげていきます。
 読むぞ、と思えたら、続きをどうぞ。


ーーーーーー


[4a]

 数年前、年末のお笑い特番で、ある芸人さんが黒人のまねをしていた。
 番組の意向ではあったけど、肌は黒塗り。それを見た瞬間、やばいかも、と思った。
 そのあとネット上には黒塗りに対する非難が次々と流れていき、すぐに「炎上」というやつになった。結果的に海外メディアも取りあげる事態となったらしい。
 だけど本当は、黒塗りがどのくらい悪いことなのかがわかっていなかった。
 正直なところ「危機管理能力」が働いただけ。肌の色の問題は怒られそうだから「やばいかも」と思っただけ。でも例えば、尊敬する黒人ミュージシャンの格好を真似たくて肌を黒く塗るのも、同じくらい悪いことなんだろうか。
 黒塗りの何がいけないのか。それをずっと考えてた。そしたら、白人か黒人の人が顔を黄色く塗って「I’m Japanese!」と言ってきたらたしかに嫌かもしれない、というところにまでたどり着いた。そこでやっとこの問題を少し理解できた気がする。

 じゃあ、ものまねでセロテープを使うのは?
 じゃあ、ものまねで眉を太く塗りつぶすのは?
 じゃあ、ものまねでカツラを被るのは?
 じゃあ、ものまねで声色を変えるのは?

 メディアでのコンプライアンスが厳しくなるのも分かる。
 言語化できない面白さより、傷つけるロジックのほうを優先するのも仕方ないのかもしれない。
 だけどそこに立ってる、何の変装もしない、素のままのものまねタレントは、そんなに悪いことをたくらんでたんだろうか。

 黒塗りを非難していた人も、黒塗りを非難していた記事も「どうして黒塗りがダメか」を説明したものはなかったと思う。
 仮に「ものまねはいいけど黒人だからダメなんだよ」とか「黒人はそういう問題に敏感だから」とか言ってしまったら、それ自体が差別発言になることに気づいてるだろうか。
 説明できないということは、黒塗りとものまねの間に確実な線引きはできないんじゃないか。
 線引きできないものに、激怒は変なんじゃないか。

 別に境界をはっきりさせたいわけじゃない。
 曖昧でいいものはあいまいでいいし、矛盾してないとやってけないこともあるし、そのほうが楽しいと思う。というか曖昧にしかできない。線はあいまいにしか引けないから。
 向こうとこっちを、厳密には分けられない。
 実際は、そのニュースを見ても怒らない黒人の人もいたと思う。正直、海外メディアって数件だろと思ってる。
 だけど、眉を太く塗られて真似された中学生は泣いてしまうかもしれない。
 相手で変わることに、共通のルールは適用できない。
 もし「砂糖」で佐藤さんをからかうことに「生き物ではない」という差別的な意図が過去に存在した場合、それに気づかずに発言した人は糾弾された。だけどさらに30年後、「無生物も不可欠な要素であり、差別対象にするのはおかしい」という風潮が生まれていて、今度は怒るほうがアウトになってるかもしれない。
 時代で変わることに、永遠のルールは適用できない。
 曖昧だから、調整しつづけていくしかない。あいまいだから、激怒は向いていない。

 曖昧だし、変動するけど、たしかに存在してる境界線。
 安全策として、黒塗りもものまねも、いっそ全部禁止にしとけば安心かもしれない。だけどそれは「人は争うものだからいっそ全滅しときましょう」というくらいダサい思考なの。
 全部はなくせない。だけど人を傷つけるのもいけない。
 だとしても笑いはなくならない。感情は、境界の淵で揺さぶられるものだから。
 ボーダーを攻めない笑いは、実はあまり存在しない。


・・・


 また少し前、「身長170cm以下の人は人権ないから」という発言がとんでもない炎上を生んでいた。女性プロゲーマーが生配信中にした発言で、頻繁に起こるネットの炎上の中でも、これは相当な燃え方だったと思う。
 だけどおかしな炎に見えた。そんなこと言う人なんていくらでもいるのにな、と思った。好きなタイプを聞かれて「まず身長が高くて〜」なんて言う人はいくらでもいる。みんなも聞いたことがあると思う。
 なのにこの発言は燃やされつづけて、異様な大きさの炎になっていた。

 もし今回の発言が「170cm以下は終わってる」だったらどうだろう。
 じゃあそこに「人として」を付けて「人として終わってる」だったら?
 少し危ない気もする。だけどこれが「恋愛対象外」とか「私は好きにならない」とかだったら、全く問題にならなかった気がする。
 でもこれはみんな同じことを言ってるんだよね。
 どれも「背の低い人は好きにならない」と言ってるだけ。
 ただの言葉のグラデーションじゃん。そうとしか思えなかった。
 だからこの問題は言葉選びの問題なのであって、実は内容の問題ではなかったのだと思う。

 たしかに「人権」っていう言葉はよくなかったよね。
 だけど、この発言をした人は何かにイライラしていたのかもしれない。それで一番強いカードとして「人権」という単語を選んだだけだと思う。人権という言葉や発想が、大事で、そんなふうに使ってはいけないカードだとは知らなかったのかもしれない。
 なら、教えてあげればいいだけなのに。
 この人は、この炎上で過去の発言まで洗い出されて、その中には死ねみたいなあからさまにひどい発言もあった。だけどその発言は問題にならなかった。でも今回は大炎上。
 ということは、ただ「引きのある言葉」に反応しただけじゃない?
 死ねとか殺すは聞いたことあるけど「人権ない」なんて聞いたことないもん。キャッチーな言葉に引っかかっただけだと思う。必死に内容を指摘してるつもりが、実は言葉に釣られただけだと思う。
 けれど炎上はやまない。激怒してる人は自らを振り返れない。

 仮にその批判が的確だとしてもだ。
 大人は馬鹿だから、反省するのが恥ずかしいと思ってるから、過激な言葉で指摘すると余計に頑固になって、もっと話を聞かなくなる。さっきの発言が吹き飛ぶほどの差別発言を重ねてしまうかもしれない。
 遅刻した人に「遅刻するなんて最悪だな」と言っても逆効果だって知ってるはずなのに。
 馬鹿なことをした人を過剰に攻撃して、その結果イライラや孤独感を余計に強めさせて、もしかしたら、自殺を考えさせてるかもしれない。そうさせるのは、馬鹿じゃないのかなって思う。
 いいんだよこいつは攻撃しても。そういう意図が仮にあったとしたら、それは「170cm以下はどうでもいい」というのと全く同じ。全く。同じ。

 そうやって堂々と攻撃できる側は、だいたい匿名。
 企業やクラスまで特定しておいて、死なせたり、そのくらいの思いをさせる側はいつも匿名。
 匿名の人から攻撃されると、外に出れなくなるよ。
 外にいる知らない人全員が、その匿名アカウントの保持者の可能性があるから。
 みんなが自分のことを見てる気がする。みんなが自分のことを笑ってる気がする。みんなが自分のことを攻撃してくる気がする。世界のどこにでも、自分を嫌ってる人がいる気がする。
 コンビニの店員、赤信号の向こう側の人、駅の改札ですれちがう人。
 気分転換のはずが、ずっと下ばかり向いて歩いて、結局部屋に戻ることになる。友達が送ってくれた「たまには外に出たほうが」という優しいメッセージに、なんて返信していいかわからなくて、悔しくなる。
 代償だ、反省だ、というには、あまりにむごい精神の渦。
 そのうち特定罪という罪も出てくると思う。反省すべきだとしても、無関係な人に反省させられる必要はないんだし。だけど残念なことに、関係ないから、過剰に攻撃できるんだよね。状況と環境がちがえば、もしかしたら友達だったかもしれないのに。
「みんな、本当にマンガとか読んできたのかなって。そうやってネットにちまちま書き込みをする人って、物語で一番ダサい人だよ」
 ある芸人さんがそう言ってた。
 失敗に気づいて痛くて謝る人の前で、なぜか大勢の人が笑ってる。実体のある人をキャラクター化して、炎上を祭りとさえ呼んで、楽しいから攻撃とも思わないまま、みんなで黒ひげ危機一髪みたいなゲームをしてる気さえする。ギリギリ死なせないようにするゲーム。ギリギリ犯罪にならない程度にしとくゲーム。
 ギリギリ死ななくても、ギリギリ死にたかったかもしれない。


・・・


 そもそも、知らないってそんなに悪いことじゃないと思う。
 成人した人のほとんどが「これで大人になれちゃうんだ」と思ったはずだし、親になった人のほとんどが「親って完全じゃなかったんだ」と知ったはず。年齢や状況で、ゲームのレベルアップみたいには中身は変わらないって、もうみんな気づいたと思う。
 アイヌのことは知らなくても、ポケモンは全種類いえるかもしれないし、きちがいって言っちゃっても、プログラミングの天才かもしれない。みんなおんなじに育ってきたわけじゃないから、知ってることと知らないことがちがうのは当然なこと。
 だから知らないことに関しては「子ども」って考えていいと思う。だってアメリカンが薄味のコーヒーのことだって知ってる? 本来は薄いんじゃなくて浅いらしいけど、知らなくても全然恥ずかしくないよ。恥ずかしがらせるほうが恥ずかしい。忘れたことももう知らないのと同じだよ。また学べばいいだけ。忘れたことを「なんで分からないんだ」と責める先生や大人は好きじゃない。
「いやだからさ、お前はプログラミングだけやってればいいんだから、口出すなよ知らないくせに」
 と言う人は必ずいるだろうけど、その考えこそがタブー化を起こす原因になる。
 無知な人が自由に発言したり質問できる雰囲気にすること。スポーツ実況に無知な人を一人いれるのもいいかもしれない。そういう雰囲気づくりは、風通しもよくするし、居心地もよくするし、タブー化も起こさないし、いいことしかない。
 一瞬の我慢ができるかどうかに、今後の展開は大きく左右されるんだと思う。

 無知な人が「アニメって普通子どもが見るもんだろ」とか「高校って普通制服だろ」とか言うと、「こいつ何も知らないのに!笑」とあざ笑われたり怒られたりするけど、そもそも「普通こうだろ」っていうのが「知ってる普通の数」の少ない人の言葉。
 普通の数が増えれば、絶対が減って、比較できるようになってくる。
 子どもから大人になるにつれて「アンパンマンがせかいでいちばんつよいの!」とか「ママだけがだいすき!」とか「こっちってSuicaじゃないの!?」という大声が減っていくのは当然なこと。
 だから現時点で無知な人が大声になるのは当たり前なんだよね。知らないほうが大声になる。
 無知な人から「ミステリーって全部同じだよね。笑」とか「魚釣って逃して何がしたいの?笑」って言われたら腹を立ててしまうかもしれないけど、そのしくみに気づいてグッと我慢したい。
 だから残念だけど「自分の経験だけで人のことが分かったような気になる」のも「一度の経験がむしろ視野を狭くする」のも当たり前なんだよね。
 知らないほうが大声になる。そういう人には穏やかに教えてあげるか、干渉しないかのどちらかだ。経験が浅ければその時点ではわからないこともあるし。

 これからは、今のスタイルが合ってるかどうかより「アップデート力」のほうが重要なんだと思う。
 それは今はよくないとされてるんですよって言われたときに、素直に聞いて、もうしない選択ができるかどうか。だから一度の失敗には寛容(かんよう)でいたい。知らないことを失敗するのは当たり前なんだから。
 そのアップデートには周りの対応も重要になってくる。もちろん本人の理解力も大事だし、ひどい発言に声をあげることを否定はしてないけど、たいていの場合、素直になれるわけもないような追い込み方をして、反発からむしろアップデートを拒絶させてしまう。より暴走させてしまう。あーなるほどなーと思わせるかどうかは、こっちの腕にかかってる。わからないことを理解することは、そんなに簡単なことじゃない。
 不理解に我慢できず、激怒してしまえば、いいことは起こらず、タブー化が起こる。


・・・


 失敗を許せず、糾弾して、排除して。お掃除できたつもりになって。
 誰かを打ちのめしたら、それでおしまいじゃない。
 むしろ「その人以外」を、その激怒で、その排除で、怖がらせることになる。

 みんなやめてしまうよ。
 ミスした人に厳しくしすぎたせいで、みんなやめていく。
 愛か正義を理由に糾弾された人の横で、あなたが応援してるアイドルが震えてる。次は私かもしれない。今度は俺かもしれない。
「ううん、君は特別だよ」
 ちがう。人は誰でも失敗する。何を発言しても爆発するかもしれないし、過去の何かが拾われて爆発させられるかもしれない。たった一度の、視野の狭い恋が、いつ暴かれるともわからない。知り合いにもマネージャーにも相談できない。話せば、認めることになるから。
 周りには爆死した仲間、先輩、後輩。メディアには優秀で自信のある特殊な人ばかり。
 自分には、ついてけないや。この世界はとても。
 だからみんなやめてしまう。
 歌手も声優も芸人もアイドルもモデルもタレントも役者も作家も配信者も経営者も。
 だってこの世界は攻撃される世界。だってこの社会はやり直しのきかない社会。生き返らない仲間たち。あーあ。ここでは生きていけないや。
 そう学習して、現時点では攻撃されてないはずの大好きな人も、ため息をついてやめていく。

 焼け野原に残るのは、スマホとPCを持ったネットの住人だけ。
 嫌いなやつを攻撃してたら好きな人もいなくなる。クリーンを求めてたら誰もいなくなる。守りたかったのは何だったっけ。それさえも燃えていく。正義はそのうち正義のためになり、攻撃はそのうち攻撃のためになる。
 一度始めた攻撃は、そのやめ時さえ攻撃をする。

 許さないぞ、と復讐に燃える主人公はかっこいいけど、その復讐の炎を握りつぶす人はもっとかっこいいと思う。正当なはずの復讐は、なぜか復讐を呼んでしまうから。
 僕らはもっと、不祥事があっても続けることにしたバンドとか、危機があっても別れなかったカップルとかに、心の中で拍手をしていいと思う。もっともっと身近なところで言えば、超絶つまらなかった映画のことを「言わない」と決めた人もいる。
 世の中に怒りはたくさんあるけど、握りつぶして粉々にした人、飲みこんで許すことにした人、言わないで広めないことにした人、その人たちのおかげで、怒りはこの程度にとどまってるとも言える。
 ニュースは崩壊ばかり扱うし、文句や糾弾の大声に、その瞬間は負けてしまうけど、この穏やかな波がきっと必要な日がくると信じた人たちがいる。

 流れを断ち切れる人が、本当にえらい人だと思う。
 簡単じゃないことは分かる。
 でも、それが簡単じゃないということは、怒りに任せるのは簡単、ということだから。

 その糾弾の手を止めること自体が、現代の救いの手だ。


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[4b]

 身長の発言をしたプロゲーマーは、その翌日くらいに所属団体を解雇になった。
 僕は、この即時解雇が苦手だ。

 昔好きだったミュージシャンを思い出して検索していたら、その人が一時期逮捕されていたというニュースが出てきた。酔っ払って、触らないセクハラみたいなことをしたらしい。
 驚いてもう少し調べると、その人が次の日に所属団体から除名されていたことも分かった。
 見せてしまった人がいるそうなので「別にいいじゃん」とは当然思わない。だけど次の日って、何が分かるんだろうとは思う。そういう信頼度だったから、そういうことをしてしまったんじゃないか、とさえ思う。
 さっきのプロゲーマーもそのミュージシャンも、ただの性格や癖の問題である可能性は高いだろうけど、もしかしたら心に不安やトラブルがあったかもしれない。生配信中、ゲーマーの人はいつも暴言を吐いていたみたいだから、誰かが止めてあげたり、気をつけてあげることはできなかったのかなと考えてしまう。
 チームの雰囲気づくりにミスがあったかもしれない。その人はただ最後のボタンを押しただけかもしれない。
 だけど全部まとめて「自己責任」で片づけられてる感じもする。

 入社するときも、アルバイトをするときも、最初に同意書を書かされる。
 ○○はしません。〇〇をした場合は私の責任です。会社側はいっさいの責任を負いません。
 半分脅しのような同意書に、戸惑いながらサインをする。疑問を口にすると、採用取り消しになりそうだからサインをする。サインしないと、働けなさそうだからサインをする。しかないじゃん。同意とは言えないような気もする。
「あとこの保証書はですね、ご家族の方にサインしていただいて」
 会社からすれば「リスク回避ですよ」と言うのはわかる。でも「自分ら見る目ないんで。とりあえず入れてみるけど、ミスしたらお前の責任な」と言ってるようにも聞こえる。
 いっそ3日ぐらいかけて食事したりしてからバイトを雇うとか、そういうことをすればいいのにとずっと思ってきた。「現実的じゃないよ」と言われるのはわかってるけど、それでも、そういうペーパー的な信頼度だからそういうことをしちゃうのでは、とどうしても思っちゃう。
 理想かもしれないけど、結婚だって「何があっても引き受ける覚悟」みたいのが必要だと思ってる。一緒に生きていけば、幸せ! 幸せ! だけではいられない。そうと分かって、それでも一緒に生きていくと決めるんだから。採用だってそうだと思う。
 未知のマイナスに出くわしても、この人とだったらと腹をくくること。
 ミスしたやつ切って追加増員、とは真逆の発想。

 前に、知り合いの高校生が線路で友達と写真を撮って退学になった。
 退学になったのは線路に降りたその人だけ。全員ピースしてたけど、退学になったのはその人ひとり。
 わかるよ。危ないなんてもんじゃないし、責められて当然だと思う。
 高校生になりたてだったその人は、学校名からクラスまで特定され、拡散され、笑われた。その人は「悪いし、仕方ないよ」と別の高校に行く準備を始めてて偉いなと思った。この人が気を病んで死んだらどうするつもりだったんだろう。その人の横で僕は思ってた。
 何より嫌だったのは、その私立高がその人をすぐ退学にさせたことだ。
 わかるよ。私立は評判が大事だからね。でも、なら学校業をやめちゃえばいいと思う。やめちゃいなよ。
 教育って、見放さないことだと思ってる。
 みんながみんな、すべてがすべてを上手にできるわけじゃない。
 見放した大人の目線を、子どもは絶対忘れないし、見放さないでくれた大人の視線を、子どもはきっと忘れない。
 さっきのゲーマーやミュージシャンの解雇は、大人なんだからという点では、納得せざるをえないところも、なくはない。だけど教育機関が真っ先に見放すってなんなのって今でも思う。教えてあげればよかったじゃん。

 大事なことは。
 大事なことは、ミスをしないことじゃない。ミスを致命的なミスにしないことだ。
 ケンカしたら謝ればいい。レジ前で困ったら「少し待ってもらえますか」って言えばいい。
 子どもには、失敗させないように失敗させないようにと全部守ってあげるのではなく、ほらよく見てないと失敗しちゃうよと警戒させつづけるのでもなく、失敗しても笑顔で帰っておいでよ、という姿勢のほうが大事だと思う。
 ミスをしないなんて不可能なことが大事なはずがない。

 失敗に対する警戒が強くなると、ノーミスを求めて、完璧主義になる。
 完璧主義になると、人の失敗に厳しくなる。うわ、あんなのもできないんだと人を簡単に攻撃する。だけど自分は、むしろ挑戦をしなくなっていく。挑戦しなければノーミスのままでいられるから。攻撃されないでいられるから。他人からも、自分からも。だからちょっと宿題を忘れただけで、もう学校に行きたくなくなったりする。
 そのミスは致命的なミスじゃないんだよ。
 そう態度で示していれば、失敗するのが怖くなくなる気がする。
 完璧主義の氷が溶けて、外の世界に出るのが怖くなくなる気がする。

 見放さない。切り離さない。
 その姿勢は子どもにだけじゃなくて、全員に必要だと思ってる。大人にだって「子ども」の部分があって、みんなミスをするんだから。
 なのに見放さないどころか、吊し上げて、この時代に生け贄みたいなことをしてる。
 他人のミスを「致命的だ!」と指さして炎上させてゴミ箱にいれて。それでクリーンな社会だなんて。
 それが正しいとは、これっぽっちも思わない。
 言葉の使われ方に触れないで、その言葉だけ排除してクリーンだとか、何がいけなかったかを教えないで、その人だけ排除してクリーンだなんて、都合がよすぎると思う。
 部屋がきれいにディスプレイされてる人は、必ず何かを捨ててるんだから。
 自分の部屋なら構わない。けど世界は、その人の部屋じゃない。
 きれいで、おしゃれで、すてきなかんじ。でも次の模様替えで要らないと排除されるのが、今度は自分かもしれない。そんなのいやじゃん。

 そういうことをくり返してたら、やめてしまうのは有名人が活動を、じゃないかもしれない。誰かが生きることを、かもしれない。
 人はWhatよりHowを見てる。一生忘れないよと書かれたっきりのメッセージより、ちょくちょく連絡をくれる友達からのほうが受けとるものが大きい。やり直しのきく社会という言葉より、誰かが打ちのめされていく様子のほうが当然、印象に残る。
 だから自分が攻撃されてない人も、この世界にうんざりして、ため息をついてるかもしれない。

 大丈夫だよ。
 親や身近な大人に見放された気がしてる人たち。見放さない人は必ずいるからね。
 それは現実の人かもしれないし、過去の小説家かもしれないし、フィクションの中の登場人物かもしれない。だって物語が、その時代への批判的なニュアンスなく描かれることはあまりないよ。みんな、今を生きる君に、心を必死に物語にこめてる。
 そのどこにかはわからないけど、君にとって大事な人はいてくれる。会ったことない人のほうが圧倒的に多いんだからね。今まで会った人だけで君の「普通」を決定しないで。
 見放す人、怒る人の大声は目立つけど、見放さない姿勢を頑張ってる人はいたるところにいる。穏やかな波を守って君を待ってる。錯覚に負けないで。
 なかなか誰も見つかんなかったら、先に自分でなるのもいい。先に誰かを救うのもいい。
 あと残念な話だけど、もしかしたら、大人だと思ってた人は、実は子どもだったのかもしれないよ。残念だけどね。「子どものくせに」って見下されて悔しかったと思う。だけどそれは「大人のくせに」って怒るのと実は似ていて、どっちが先に抜け出せるかだよ。たぶん君だよ。
 君の心のほうが先に大人になったら、君がやさしくしてあげればいい。それが無理なら、無理して近づかないでいい。それなりの距離でいい。いい子すぎなくていい。けど悪い子じゃなくてもいい。嫌いな人を原因にするのはもったいないよ。それなりでいい。
 君が誰より投げ出したかったことは、きっと分かってあげられる。よく頑張ったと思う。
 愛は誰からでも学べるし、生み出せるよ。家庭や先生に問題があったことを理由にしないで生きていける。復讐は全部が済んだとき、むなしくなるから、他に大事な人を探したほうが早いし、多いよ。
 まずは誰かと仲良くなってみて。意外とがんばって主張しなくても仲良くなれるから。
 仲良くなると楽しいよ。楽しいと生活がうれしいよ。

 高校のときの頑固な感じの数学の先生。正直あまり好きじゃなかった。
 当時の僕は寝坊ばかりで、その先生の4限の授業さえ、さんざん遅刻や欠席をくり返した。
 おー、また遅刻か、と言われて、ヘラヘラするのが情けなかった。
 決して授業数の多くなかったその授業。さすがに落としてるかもしれなかった。
 そうだったらどうすればいいんだろう。
 学年末、そう思いながら通知表を開くと、遅刻欠席の欄に「0」としか書いてなかった。
 0、0、0。
 遅刻や欠席は一度や二度じゃない。記録ミスだとしても「0」はありえない。でもどう見ても、遅刻と欠席が何も記録されていない。
 なんでだという気持ちのほうが、大きくなっていく。
 そうだきっと、記録を付けるのが面倒だったんだ。適当な感じの先生だったもんな。だから好きじゃなかったんだし。そうだそうだ。
 だけど許されたことは、ぜったいに忘れない。
 その先生がきちんと記録を付けていたら、僕はその先生をより嫌いになったと思う。自分勝手としかいえない。だけど自分の不出来を受けいれてくれたことが、いや、気にしないでもらえたことが、本当はすごくうれしかった。
 忘れないのは、許されなかったことだけじゃない。連鎖するのは、復讐だけじゃない。
 面倒が理由でも、許せたら、その人も次は誰かを許してあげたくなる。
 その次の誰かが、あなたかもしれない。


ーーーーーー


 

[5a]

 妹が小さいころ、右の鎖骨(さこつ)を「うこつ」と言って笑われてた。
 でもそんなにおかしくないと思う。英語圏の子どもも「children」じゃなくて「childs」って言っちゃうみたいだし。いっぽん、にぽん、さんぽんみたいに言ってしまうのは、おかしいしかわいいけど、まちがってない。ルールはちゃんと頭に入ってる。
 一生懸命を笑うな! とかそういうことじゃなくて、笑って空気が和むならそれでいいんだけど、別にまちがいだとは思わないということ。

 子どもが呼び捨てにしてきても、いらいらしない人のほうが多いと思う。
 敬語のルールを知らない人にそのことで怒るのは、怒るほうが悪いもの。
 逆に、敬語を覚えた中高生が、気を許す大人にはわざとタメ口で話すことがあるけど、それはまだ「敬語=距離の遠い人に使う言葉」という印象が強いだけ。「ちゃんと敬語使いな〜?」みたいに茶々を入れる人もいるけど、そんなのだんだんと学んでいけばいいと思う。
 敬語の使い方より、人を信頼してみることのほうがずっと大事。
 大人だって、サッカーを一度も見たことない人ならボールを手で掴んでしまうだろうし、それを笑ったり怒ったりするのは変だと思う。上手に教えてあげて「サッカーって怒られるな」よりも「サッカーって楽しいな」って感じてもらうほうがずっといい。

 僕は平成天皇、今の上皇が、穏やかで優しそうで大好きなのだけど、これも怒られそうな気がして一度も言ったことがないです。伝わるよね。天皇に関連することも、タブー化がすごく進んでるものうちのひとつだと思います。
 好きって言っていいかもわからないし、本心としては天皇陛下じゃなくて「天皇さま」とか、もっと言えば「天皇さん」って呼びたい気持ちがあるけど、それが失礼かもわからない。英語圏の子どもがchildに複数形の「s」を付けたくなるように、好きな人には「さん」を付けるルールで親しみと尊敬を込めたくなるだけなんだけど。お寺さんとか、仁王さんとか。
 だけどかなりダメそうな気がする。
 ただ、もし直接「平成天皇さんのことが好きです」と言っても、ぜったいに怒られないと思う。上皇さまご本人には。だけど周りの人には、再起不能になるくらいめちゃくちゃに批判されそうだ。だからきっともう言わないと思います。好きな人を好きだなんて。
 でも、知らないルールで怒らないでほしいな、とも思います。


・・・


 やっぱり、あからさまな暴言や暴力以外で、何が失礼かは難しい。
 よく、先輩のお酒はなくなる前に注文するのが礼儀みたいに言われるけど、僕ならそんなことしないでほしい。だから僕自身は勝手に先輩の注文をしたくないけど、そのせいで「何で注文しないんだ」と怒られるかもしれない。
 マナーやルールが流行るのもわかる。マナーに則っとけば大丈夫そうだもんね。そうするのが「一般的に」いいとされてるから、で行動しておけば怒られずに済むもんね。
 だけどマナーやルールは、目の前の人の感情より優先されるので万能じゃない。
 マナーやルールは、たいてい理由をうしなって、理由があるからではなく、マナーやルールがあるから、になる。
 どういう理由でそのマナーやルールが生まれたか知らないから応用がきかない。応用がきかないから質問に答えられない。質問に答えられないから「とにかくそうすればいいんだよ!」と押しつけることしかできない。
 徹底のための徹底。ビジョンなき模倣。
 質問すれば「素直じゃない」と怒られたり、少し前の時代なら殴られたり。誰かを怒らせたりしないためのマナーやルールで、こちらが怒られるという謎。礼儀ってそれでいいんだっけ。
 僕が先輩の立場なら「ありがとう、でも次からは自分で注文するから大丈夫だよ。メニュー見るの好きだからさ」みたいに言うと思う。嫌なことはさっと言えばいいし、嫌かどうかはさっと聞いてしまえばいい。だけど「暗黙が美学」とされてるのがまた厄介だ。
 後日、結局我慢できなくて怒るくらいなら、伝えておけばいいのにね。

 そんなことしてないって人も、だいたいしてるよ。
 説明できないマナーやルールを、だいたいしてるよ。
 神社の鳥居は端っこをくぐるべきだよとか、葬式のときはネイルを隠すべきだよとか、美容師は居残りをして練習をするものだよとか、アイドルは恋愛をしないものだよとか。
 説明できてそうで、できてないものばかり。「走ると危ないよ」とは、全く性質がちがう。
 もともとは一部の怒る人を避けるためだったことが、いつの間にか一般的なマナーやルールのような顔になる。気にする人だけが気にしておけばよかったことが、なぜか生まれる前から存在してたマナーやルールのような出で立ちになる。
 だから通常は疑われもせず、そういうものだから、という言葉で片付けられる。

 そういうものだから。
 それこそがマナーやルールが理由をうしなってる証拠でもある。
 だけど「そういうものだから」という雰囲気は「そういうものなの?」という疑問を持つ人を変な人扱いにして、簡単に排除して、どんどん力を付けていってしまう。「それ放送禁止用語だから」と、ろくに教えずに糾弾したりして。
 舞台や発表会の差し入れは、食事を自己管理しているから不要な人もいると思う。だけどみんな持っていくので、たとえゴミになっても「一般的なマナー」として優先される。
 お祝いごとのお金も「そんなことより会いに来てくれることがうれしい」と考えてる人は少なくないと思う。だけどそれがないと本当に怒る人もいるから用意しといたほうがいい。暗黙の美学に反するから「お金は本当にいいからね」とも「必ず持ってきて」とも言ってあげられない。お金がない人は、そういうことのひとつひとつに除外されていく感覚を覚えるんだと思う。

 美容師さんが基本、終業後に練習を何年もして成長していくシステムなのが、本当はずっと気になってる。「これって変じゃないですか?」と思った人はやめてって、「そういうものだから」と思える人だけを残すシステムなこと。「そういうものだから」と言える人だけが先輩になっていくこと。
 そういうものだからは「それしかない」という意味の、選択肢を与えない言葉。
 本当にそれしかないんだろうか。
 もし、もっとゆるくやりたかったという人を残せるシステムにしていたら、人が充実して、休みの取りやすい環境になってるかもしれない。営業時間後に何年も何年も練習する必要があるなら、2年の専門学校が短すぎるか、楽すぎるのかもしれない。
 新人に革命は起こせない。言うことを聞くか、やめるか。そのふたつしか、話を聞いてくれない場所では選択肢がない。でも先輩たちが力を合わせれば「そういうものだから」に、本当は選択肢を与えられると思う。
 増えた選択肢を選ぶかどうかはまた別の話。4年制の新設校を選ぶかどうかはまた別の話。本当に「それしかない」のか、ということ。
 美容師になったあと、染め剤などが肌に合わなくて、手荒れがひどくなってやめた人をふたり知ってる。どうして受験時にパッチテストみたいなことをしないんだろう。また、手荒れをする人でも働けるしくみを作ってもよかったと思う。
 それぞれ今は楽しそうに働いてたけど、別に転職を選ばさせられる必要はなかった。結果オーライかどうかは、排除した側が決めることじゃない。

 そりゃあ先輩も「そういうものなんですね!」と言ってくれる後輩のほうが使いやすいだろうし、ちゃんと練習もするから成長も早いとは思う。
 だけど思ったことをいえない雰囲気は、同調圧力の強い空間を作ってしまう。おそらく、練習だからと給与が発生してなかったり、残業手当がついてない場合もあると思う。だけどそういう質問を口にしにくい環境。
 文句じゃなくて気になっただけなのに「文句があるってこと?」って言われそうな雰囲気。実際に言われるかどうかじゃないよ。「言われそう」な雰囲気。それだけで十分。あまり言いたくないけど、やりがいの搾取じゃないかなと思う。
「これって変じゃないですか?」
 そういう面倒な意見は、風。風通しをよくしてくれる。
 ただの文句の場合もあると思う。だけどもしかしたら、その場に染まってないからこそ出てくる、まったく新しいアイディアかもしれない。未払いのせいで大ニュースになっていた可能性を防いでくれていたかもしれない。
 アイディアの採用不採用はまた別の話。まずは聞くしくみを整えるだけでいい。ただの文句だとしても、不満のたまった若手全員にやめられたら困るはずだし。
 意見を聞かないで、質問を許さないで、考える人を排除するシステムはすごくもったいない気がする。「そういうものだから」に不満を抱くのは、やる気のないやつじゃなくて、ルールを点検させてくれる貴重な存在。その部屋のにおいや汚れは、その部屋に住んでる人には気づけない。
 もし本当に大事なルールだと分かったら、点検したあとに「やっぱりこのままでいこう」って決めればいいだけ。意見を聞かないのは、点検を拒みつづけてるのといっしょ。危ないよね。時代で変わることに、永遠のルールは適用できない。
 アルバム1枚だけ残していなくなる天才ミュージシャンだって、世の中には必要だと思う。
 体力的な理由かなんかで、週1でしか働けないような人も、いていいと思う。

 その業界だけで「そういうものだから」となってること。
 部外者が口出すなよ、新人が口出すなよと風通しを悪くするせいで、見直されにくいこと。
 こうしてくれたらありがたいんですけど、と言ってきたお客さんをクレーマー扱いにするせいで、いつまでも変わっていけないこと。
 せっかくアイディアが溢れているのに「ねえ、床がよごれちゃうじゃん」みたいなことばかり言うせいで、従うしか選択肢を与えないこと。

 美容師だけじゃない。服代でいきなりお金がなくなるアパレルとか、準備が大変な割にいつも同じことをくり返す定例会とか、それぞれにあると思う。「そういうものだから」という風潮が強い職場での会議は、あくまで「そういうもの」の徹底が目的であって、アイディア交換にならない。あれはきちんと守れてるか、それはきちんと守らせるように。そんなことばかり。
 そうやって意見や疑問を言わせない雰囲気にしといて、そのくせ革新的なアイディアを求めたりしてる。そのおかしさに気づけない。革新的なアイディアは、非常識からしか出てこない。
 お客様のため、と上司は言うかもしれないが、誰かが意見すら聞いてもらえず、何かを強いられた上で行うサービスは嫌だなと思う客のことは、なかなか考えてくれない。

 恋愛しちゃって活動を休止するアイドルに「うんうん、ちゃんと反省して心入れ替えて帰ってきてね」というやさしいコメントがあったけど、僕は心入れ替えなくていいぞと思ってた。
 だって恋愛しない心に入れ替えるってどうやってやればいいの。
 たっくさん感情を振りまきながら、実際の感情は殺すって、どうやってやればいいの。
 多くの人が十代では初恋をしているし、ほとんどの歌や物語が恋愛に関係してる。
 しないようにしてもしてしまうのが恋って知らない人はいない。
 そもそも恋愛禁止というルール自体が、変なことにみんな気づいてるよね、と思う。そんなキャッチーなだけのルール、古くから存在してたわけがない。
 それが分かってて、ファンと恋人の境界を曖昧にして、おたがいに疑似恋愛を楽しんで、その甘みをみんなで味わってたんだよね。そのことはどうして忘れられちゃうんだろう。
 即時解雇もそう。後輩のミスを怒る先輩もそう。
 プラスのこともたくさんあったよねってすごく思う。なのにいつもマイナスのことばかりに笛を吹いて、警告や退場にして、クリーンにしたつもりになって、プラスのことを簡単に見過ごしていく。
 恋愛解禁! これからは何でも自由です!
 というのが理想じゃないのは分かってる。やっぱり、推しのアイドルが異性やその人の恋愛対象となりうる人との写真をたくさんアップしてたら、心地よくはないと思う。
 アイドル本人だって、不特定多数の人に愛をばらまく職業に、個人の恋愛がじゃまなことくらい分かってる。本人なんだから。
 でもそれでもしてしまうのが恋。
 ある意味、元に戻っただけなんだから。不自然に我慢してた恋愛が、自然な心に戻っただけなんだから。人の恋愛を、他人は失敗とは呼べない。
 あいまいでよかったものに線を引いて混乱したのはそっち。
 だけどその恋愛ですごく怒られて、そのアイドルもやめてしまったよ。

 あのグループってファンがやばいんでしょ。
 静かに応援してる人の声が、許せないと騒ぐ声でかき消されて、そういう噂が回っていく。そうなれば新しいファンは付きにくくなって、ファンが減ればグループは活動をやめてしまうかもしれない。守りたいとか許せないって、何の話だったんだろう。
 泣いたり笑ったりが好きなくせに、泣くようなメンタルの人を消していく。
 全員いなくなっちゃったけど、誰に、何を入れ替えて帰ってきてほしかったんだろう。


・・・


〈信号を渡るたびに指を針で1回刺される〉

 というルールがあったとします。
 各信号には「指刺し」と呼ばれるスタッフがいて、必ずその人に指を刺されてから渡らなければなりません。針は1mmにも満たないもので、まあチクっとして少し血が出る程度。
「痛いよ! なんだよこれ、やってられないよ!」
 あなたが横断歩道を渡ってるあいだ、向こうで誰かが叫んでるのが聞こえます。
 その様子が撮影され、ネットに拡散されました。

「弱いねー。そういうものなんだってまだ理解できないんだ」
「最初はみんな痛いのが普通」
「そんなんじゃ社会で生きていけないね」
「私たちは何の文句も言わずやってきたのに」

 叫んだ人は、そのまま部屋にこもってしまいました。

「ほらやっぱり弱い」
「最近の教育がおかしいんじゃない?」
「こんなんじゃ親もたいへんだ」
「生きていくってこうやっていろんなことを受けいれていくことなのに」

 叫んだ人は後日、自殺したそうです。

「分かる、孤独ってつらいんだよ」
「もしかしたら不器用だっただけじゃないかな」
「でも俺も変だと思ってたよこのルール、意味わかんないもん」
「今度はみんなでこの悪習にNOと言わなきゃいけないね」

 メッセージは、死んでやっと受けとられます。
 でも、死んだ人は生き返りません。


 これが何の例え話かは、きっと分かってもらえると思います。
 理由のなかった「そういうものだから」は、改革後は、何でそうしてたんだっけ? と不思議に思うことばかり。
 だから指刺しは、決して極端な例じゃないです。
 大なり小なり、いろんな場所で「指刺し」みたいなことが今日も行われてる。
 変更後は、何であんなこと? と笑われるようなことばかり。
 でも、その「あんなこと」で、話を聞いてもらえず、排除されていく感じに耐えられなくなってる人がいます。
 一方で「そういうものだから」と言える側は、権力側だったり、ハラスメント側にいる可能性があります。嫌いだったあの人みたいになってる可能性がある。だからよく注意したい。

 死ぬなというメッセージを送るんなら、死なないと伝わらないメッセージはなくさなきゃいけないと思う。あの人が仮に「弱いだけ」だとしても、話は聞いてあげるべきだったのだと思う。
 多様性の時代や、やり直しのきく社会は、実は当人の問題じゃないんだよ。
 むしろ「当人以外」が騒ぎたてないであげて、怒らないであげて、聞いてあげて、見といてあげて、でもそんなに気にしないであげて、必要なら教えてあげるところからスタートするんだと思う。
 お前ら勝手に堂々と生きろよ、ではないんだと思う。
 お前ら勝手にやり直せよ、であるはずがないんだと思う。


ーーーーーー


[5b]

 それでも、あまりにストレスやフラストレーションが溜まっていくと「そういうものだから」に抗議の声があがるようになる。セクハラとかパワハラとかがそうだったのだと思う。
 だけど不思議なのは、みんな自分にプラスのものにはあまり言及しない、ということ。(げんきゅう:わざわざ言うこと)

 サッカーでファウルを訴えるのは、だいたい倒された側のチーム。野球でセーフを主張するのは、だいたいアウトにされた側のチーム。
 試合を見てると、正義なんて簡単に変わるんだなーってことがよく分かる。
 女性だけが割引になる映画館のレディースデーも割と最近までつづいていたし、そもそも牛豚鶏は殺して食べていいのも変だよねってことも、あまり言及されない。

 言及しないことで、わざとタブー化を起こしてる。利益をそのまま得ようとしてる。
 選挙活動で、服を乱して叫んでるのは、だいたい政権を持たない野党(やとう)側。
 政権を握る与党(よとう)側はだいたい、きれいな格好をして、ニコニコして手を振ってる。説明責任は、果たさなければ問われない。汗をかかないその作戦は「あら清潔な人」と思われて、意外なほどに票を集める。
 野党側はそろそろ、作戦として叫ぶのをやめたほうがいいと思う。
 だけどあらゆる物語で、悪側のボスは声を張らず、綺麗にスーツを着てることが多い。そっちが権力側、というのは覚えておきたい。叫んで倒しにくる主人公が現れない限り、その権力はつづいてしまう。

 権利があることは、主張しなければ議論にならない。
 電車で先に座ってた人が、目の前の知らない人に「交代交代にしましょうか」と提案することはない。でも町内会の面倒な役回りは交代交代になる。ちょっと、不思議な気もする。
 歴史に詳しくないから予想でしかないけど、昔の豪族とか権力者の結構多くが「こっからここまで俺の領〜〜地!」ってやったんじゃないかと疑ってる。
 先に獲得してしまえば、あとは黙ってるだけでその権利が持続する。

 犬や猫は食べないのに、牛や豚や鶏は殺して食べていることの説明は、誰もできない。
 見つめると混乱するし、言及すると食べれなくなりそうなので、考えないようにしてる。子どもに質問されてつい無視してしまったようなことも、全然あると思う。
「やっぱり、肉を食べるのって変だと思うんだけど」
 もしそう聞いたら「それはそうだけどさ、それが生きるってことなんだよね。だから『いただきます』って言うんだから」みたいに返されそうな気がする。
 でもそれって、女性差別や黒人差別が当たり前だと思われてたときの構図と、ほとんど変わらない気がする。「そういうものだから」は改革後は不思議に思うことばかり。女だから、黒人なんてどうせ。不思議どころか、気持ち悪いとさえ思うようなことばかり。
 40年後くらいにはもしかしたら、魚含め肉食全般が禁止に近くなって、代替の食品が流通してるかもしれない。

 自分のプラスが侵害されると予感すると、人は考えるのをやめてしまう。
 だから障がいのある人が自分のマイナスを訴えてても聞く耳をもたない。なんかはりきってるね、くらいに感じてしまう。駅のエレベーター設置工事に舌打ちしてるかもしれない。
 だけど誰かのためにわざわざ設置されたエレベーターは、自分が足をケガしたときに役に立ってくれる。「誰か」はいつか「自分」になる。他人のためだとやる気がなくなるくらいなら、自分のためだと思ってて全然いい。
「今日から自由に生きるんだ!」
 と心に誓って、行きあたりばったりで降りた駅には案内図がある。通りに出れば標識がある。公園に行けばトイレと水飲み場がある。そこまでの道はずっと舗装されている。いつか誰かのために、その日のあなたのために設置されたものばかり。


・・・


 もうひとつ気になってること。
 昔のスポーツマンたちが「あの頃は先輩からのしごきがひどくてさ」と言うときに、誰ひとり「してた側」の話をしないこと。あの話には「された側」しか存在していない。

 みんな自分にプラスのものにはあまり言及しなかった。
 だからといって、さすがにしごきを「してたこと」をプラスにはカウントしないと思う。
 でも「されたこと」がマイナスなのであれば、相対的には「してたこと」がプラスになってしまう。(そうたいてき:「どっちも安いけど相対的にはこっちのほうが高級」と比べてみること)
 自分が先輩のときはどうしてたの?
 言えないなら、正当なしごきや、愛のある体罰なんて存在しない。

 ファウルも、レディースデーも、しごきも。
 不平等は、マイナス側からしか見えないような錯覚が起こる。
 しごきやいじめをしてる側に自覚が発生しにくいのはそのせいだ。だから誰かを虐(しいた)げてる側が「自分はこんなに虐げられてるんです」と主張することはそりゃあある。「小さいころいじめられてたからね!」と言いながら平気で人を排除する。

「そういうものだから」
 そう説き伏せられてきた人が「そういうものだから」と誰かを説き伏せる。
 復讐にも似た、リレーのような、いらない連鎖。
 その連鎖をなくすには「そういうものだから」という発想自体にダメージを与えないといけない。
 都合よくマイナスだけはなくせない。
 自分のプラスを捨てる覚悟があってはじめて、マイナスは消すことができる。


ーーーーーー


[6]

 2021年の東京オリンピック直前、ある芸人が23年前のコントをネットに投稿され、問題になり、翌日、開会式の責任者を解任された。
 大学生のころDVDを全部買って、ICレコーダーをテレビに繋いで全部録音して、公演ごとに音楽のアルバムみたいに編集してiPodに入れて、夜眠るときにいつも聞いてた芸人さんだった。
 なにがおもしろいんだろうと思う。
 くくく、と半笑いで投稿した過去動画がまさかここまでの事態になるとはおそらく投稿者も予想してなかったはずで、その反響の莫大さに震えただろうとは思う。
 だけど人を笑わせようとして失敗したことの、なにがおもしろいんだろう。

 時代が変われば、文脈も変わる。
 この前再放送されていた20年前の名作ドラマでも、未婚女性に対して「俺と子ども作るか」みたいな、今では採用されないようなセリフが普通に出てきたし、10年前の作品であっても探せば見つからないほうが難しいと思う。もちろん当時だって嫌がってた人はいただろうし、そのときはオールOKだったなんて思わない。
 だけど、文脈を度外視したやりかたは、かなり危ないと思う。
 ボーダーを攻めない笑いはあまり存在しない。物語がその時代への批判的なニュアンスなく描かれることもあまりない。感情は、境界の淵で揺さぶられるものだから。そうやって、変動していく境界線に挑戦する表現が、数年後問題になるのはある意味で当たり前。問題にされれば、だけど。
 もし40年後に本当に肉食が禁止されていたとして「昔は平気で食べてたんですよね」というドキュメンタリーを見た孫から「まさかおじいちゃんも食べてたの?」なんて聞かれて、苦笑いしない人はいないと思う。

「ねえ、まさかなんとも思わず殺した豚とかを食べてたわけではないよね?」

 返答に困らない人なんていないと思う。目線をそらしながら「そーんなはずないよ。気にはなってたよね、みんなね」とか答えるかもしれない。
 でもそれは「まさか昔だからって女性社員にセクハラなんてしてなかったよね?」と言われて動揺する、現時点でのおじさまがたとあまり変わらない。

 正解と不正解の境界はグラデーションで、今のことだけを考えても、とても難しかった。
 そこに過去のことを含めてしまえば、全員を不正解にするのなんか簡単。未来の特定罪と特定関連罪で、とりあえず現在のネットユーザーはみんなアウトにできる。
 だけどオリンピック直前は、なぜか「清廉潔白」みたいなのが重要視されて、いろんな人の過去が暴かれた。
 ただのスポーツ大会なのに。
 そういう気持ちにもなる。オリンピック憲章に載ってるからとか今そういう話をしてないんだよ。批判と非難は意味がちがうとかも今はどうでもいい。批判は正しい方向に導くアドバイスって書いてあったりするけど、正しいって思ってること自体がもう厄介なんだよ。
 正しさが変動する以上、ずっと正しくあることは不可能なのに、どうしてみんな自分の正しさと他人の不正解をそんなに大声で指摘できるんだろう。正しさが変動する以上、自分だって間違えるかもしれないのに。きっともう間違えてるのに。
 何の意識もなく送った「まじでおつかれ〜!」というLINEは、100年後「現在では差別的とされる表現を含みますが、当時の背景を考え、修正をせずそのまま表示します」と注釈を付けられた上で、歴史的な資料として扱われてるかもしれないのに。


・・・


「最近の高校生にはこれが流行ってるんです!」
 自分が高校生のころは、そういうニュースを鼻で笑ってた。そんなことしてる人なんて周りにはひとりもいなかったから。だから実際には、チョベリバって言ったことのない高校生も、深夜ラジオを聞いたことのない高校生も、たくさんいたんだと思う。
 だけど自分が高校を卒業してずいぶん経つと、まるでニュースが100パーセントのような気がしてくる。まるで高校生全員がYouTuberが好きで、まるで高校生全員がTikTokで踊ってるような気がしてくる。
 でも実際は当時の自分たちと同じ。してる人もいれば、してない人もいる。絶対にそう。
 絶対にそうなんだけど、でもその場にいないから、文脈を知らないから、それが「どのくらいなのか」は実感としてはわからない。
 タピオカの列に並んだことのない高校生はどのくらいいたのか。
 次に来ると言われてたバナナジュースはどのくらいまで来てたのか。
 ABEMA TVの恋愛番組はどのくらいの人が見てるのか。
 加工アプリはどのくらいの人が使ってるのか。
 油断するとつい、ニュースの文字が高校生そのもののような気がしてくる。

 オリンピック直前のあのニュースで、当時の発言を知って「またこんなやつが」とか「こんなのが責任者を」とか言う人もいた。
 その発言があったのは本当だし、いけないことはいけないんだと思う。
 だけどそれは100パーセント正解のニュースじゃない。
 文脈を知らないとニュースが100パーセントのように感じるだけ。だからいつも「それってあの悪いことした人でしょ?」と簡単に言えてしまうだけ。
 死ぬほどコントを見てきた僕らには、それ以外の側面が分かる。あのニュースが1パーセントにも満たないことを知ってる。
 しくみが分かるから、応用がきかせられる。
 だからタピオカを飲んだことのない高校生のことも知ってる。写真の加工がなんだかわからない高校生のことも知ってる。
 だから、過激な怒りかたをする人たちが、家族には優しかったり、将来で悩んでたりすることも知ってる。
 側面はその人だけど、側面だけがその人じゃない。

 もう、許しあって、呼吸をしやすくして、楽しくいこうよ。
 深い呼吸は、怒られそうなところではできない。
 息のしやすい社会が、生きやすい社会だよ。


ーーーーーー


[最後]

「何でも拡散される世の中。
 怒られそうな話題には触れないでおきましょう。
 誰かにとって大事なことは見ないふりをしておきましょう。
 それが危機管理能力です。それこそがコミュニケーションです。
 はみ出さないように、侵食しないように。境界の内側にいましょう」

 だけど一度もはみ出さずにいることなんてできるんだろうか。
 他人をぶったことのない子どもはいないと思う。ご飯を投げたことのない子どももいないと思う。アリを命ごと潰したことだってあるかもしれない。
 最初から適度なLINEの量を知ってる人もいない。好きすぎて多すぎたり、気にしすぎて少なすぎたり。それは経験しながら調整していくもので、一度もはみ出さずに境界線を知るのは不可能だ。
 勇気のない人たちが境界線のずっと内側でわいわいしてる間、ある意味で馬鹿な人たちが線を超してしまうこともある。だけどその線は、その人が超えたから可視化された線でもある。
 最初から見えてたようなふりするなよ。
 食べられるキノコが分かるのは、誰かが毒キノコを食べてくれたから。ジャガイモを捨てずに済んでるのは、誰かが芽を取って食べてくれたから。ある意味で馬鹿な人たちが「ここまでは大丈夫だってさ!」って教えてくれたおかげで、そこまで行けるだけ。
 交通ルールだってそう。200キロ出る車作っといて、最初から50キロ走行にしましょうはありえない。音楽だってそう。YMOやきゃりーぱみゅぱみゅみたいに、誰かがはみ出してくれたからそこまで行けるって分かっただけ。スティーブ・ジョブズだって大谷翔平だってそう。ダメージジーンズだって自撮り棒だってそう。
 はみ出す人がいないと、世界は広がっていかないし、ルールが見直されていかない。

 現時点では当たり前の、男女平等の投票権も、卵かけごはんも、眼鏡をオシャレとする発想も、無料通話も、誰かがはみ出してくれたから手に入れたもの。
 1900年代に「電話が無料ならいいのに」って言った人は笑われただろうな。
 職場でのセクハラに驚く新入社員に「我慢するものだよ」と教えてあげた女性上司も多かったんじゃないかと思う。悔しかったはずだけど、「そういうものだから」と知らせてあげることでしか部下を守れなかったのかもしれない。
 だけど「やっぱり変です」とか「こっちに行きましょう」ってはみ出てくれた人たちが世界を変えてくれた。常識を非常識にしてくれた。無知な人が大声になるのは当たり前。世間知らずがおかしなことを言うのは当たり前。その非常識を、頑張って革新的なアイディアにしてくれた。
 LINEだって、絶対に通信会社の敵だったと思う。だけど元々は東日本大震災のときでも繋がるツールを作ろうと立ち上がってできたものだって聞いたよ。異常事態が気づかせてくれることもある。そのおかげでコミュニケーションはがらりと変わって、夜中に高校生がビデオ通話をしながら勉強したりしてる。
 残念だけど、今の社会で「そういうものだから」と怒ったり、諭(さと)したりする人に未来を見る力はない。だけどそういう人たちが「そうは思わないんです」と主張する人に圧力をかける理由もない。
 だって自由にやらせて、もし社会が動いたら、それは自分にとってもラッキーなんだから。

 だけどはみ出す行為には必ず失敗がつきまとう。
 起こった革命より、起こらなかった革命のほうが絶対に多い。見えない線への挑戦は、帰ってこれるかわからないような冒険になる。だからといって「そうは思わないんです」と主張する人全員が、強いメンタルを持ってるわけじゃない。むしろ、どうしてもここにいられない弱いメンタルが、冒険を選ばせてる可能性はある。
 アイディアを怒ったり笑ったりしないであげれば、いったん自由にやってみなよって穏やかに送り出してあげれば、困ってたら話を聞いてあげれば、ミスして帰ってきても絶望しないように迎えてあげれば、もっとはみ出しやすくなって、もっと冒険が進んで、もっと自分にいいことが訪れるよ。
 他人のためだとやる気がなくなるくらいなら、自分のためだと思ってて全然いい。
 そもそもはみ出すことは、この同調圧力の強い社会では、外にいるだけで負担がかかる。普段白か黒の服を着てる人は、全身真っ黄色の服で外に出てみると分かるよ。動く視線と、動く口元。はみ出す人は、はみ出ちゃうことがほとんどで、全員が強いメンタルを持ってるわけじゃないよ。
 その、ただでさえかかる負担を、増やすか、減らすか。
 見放さないというのは、ずっと見守りつづけることでもない。手を繋ぎつづけることでもない。ただ自由に泳がせて、いざとなったら、隣にいてくれたらいいだけ。基本、何もしなくていいだけ。
 それをわざわざ「そういうものだから」で種ごと冒険を潰しちゃうのは、あまりにもったいない。

 アリの行列には、必ずその列からはみ出すアリがいるそうです。
 餌を見つけるとアリは蒸発するフェロモンを出して巣に戻るので、そのフェロモンに従って他のアリも行列を作っていくのだけど、その行列をなぜかわざわざはみ出す馬鹿なアリがいるらしいんです。
 でも進化の過程でそのアリは排除されてこなかった。なぜか。
 それは、そのはみ出しアリが「より近道」を見つけてくれる可能性があるから。
 フェロモンに誘導されているだけのアリには、それが異常な遠回りだとしても気づく力がない。電車で150円の距離に、700円もかけてるかもしれない。だけどはみ出したアリが近道を見つけてくれると、そっちにはもっと蒸発されていない濃いフェロモンが残されるから「こっちのほうがいいルートだぞ」と気づくことができる。そして150円のルートには自動的に行列ができる。
 はみ出しアリが排除されてこなかったのは「必要」だから。これが答え。

 忘れちゃいけないのが、最初の行列を作ってたアリが「常識アリ」だった、ということ。
 700円もかけてた馬鹿なアリに見えるのは、150円のルートを知った未来から見てるせい。たった1匹のはみ出しアリが現れるまで「700円かかるものだから。危ないことしないほうがいいよ」が常識だった。「そういうものだから」は、改革後は不思議に思うことばかり。
 馬鹿と常識はいつだって入れ替わる。
 将来的に70円のルートが見つけられるまで、常識アリはきっと「150円かかるものだから」と言いつづける。

 優秀な常識人だけの集団は、意外と非効率になる。
「そういうものだから」という枠組みの中で優秀な人は、枠組み自体が見直せない。「700円かかるルート」の中でいかに効率的に動けるか、みたいなことに特化してしまう。
 だから、枠組みを点検させてくれるはみ出すやつは、ノイズだと思われてた余計なものは、実は重要でしかない。
 つまり多様化は、みんなにとって助かることでしかない。多様性の時代や、やり直しのきく社会は、そういう意味でも当人の問題じゃないんだよ。メリットがあるのは当人だけじゃない。自分のためだと思ってて全然いい。
 はみ出しアリを排除してクリーンだなんて、成熟とは言えない。

 へんてこだけど、出来の悪いやつがいてくれると効率は意外とよくなる。
 この世には、教えてるうちになぜか、自分のほうの理解が深まったことのある先生しかいない。
 わざと経験の浅い作家にネタを出してもらう芸人さんもいる。その未熟なネタを「それはこうしないとウケないよ」「ここで振っておけば後で効いてくるよ」と直してるうちに面白いネタになるそうだ。
 はみ出してくれると線は可視化される。動いてみると線が見えてくる。
 だから本来はノイズだと思われるような経験で気づくこともある。
 最初に就職した職場がつまらなかったときに初めて、自分のやりたいことが見えてきたりする。

 安全なルートからはみ出すような危機管理能力のなさは、たしかに馬鹿と言っていい。
 胸をうたれて募金したらそれは詐欺かもしれない。写真をアップしたらそこは立入禁止区域かもしれない。このマンガおもしろいなーと驚いてたらその作者は過去に問題を起こしてるかもしれない。この時代に検索すらしない、危機管理能力をいつまでも身につけない、たしかに馬鹿な人たちかもしれない。
 だけどそんな人に救われることもある。
 よくわからないけど困ってたから、と募金した人は、本当に困ってたかもしれない。額がたりなかったとしても、支えてくれたという事実だけで、今後も生きていけるかもしれない。
 何かしっぺ返しがくるかも、と警戒しない人にだけ、救える人がいる。
 タブー化なんて怖がらないで突っこんできた馬鹿のおかげで、その分野にはまた人が気にせずに集まってきてくれるかもしれない。
 危機管理能力のなさは、信頼と言いかえてもいい。

 当然、列をはみ出したアリには危険がともなう。
 もう二度と餌は見つけられないかもしれないし、もう二度と巣に戻れないかもしれない。
 そもそも、誰かのために動いたわけでもなく「勝手に列からはみ出したアリ」でしかない。勇気というより無謀なだけなのかもしれない。
 だけどそのアリがいてくれるおかげで、世界を変えるような革命が起こる可能性が、どうしてもある。その恩恵をありったけ受けとってる。批判してた人も笑ってた人も含めて、まるごと助けてもらってる。そのアリを、さすがにもう馬鹿だと笑ったり、自己責任だと見放したり、統率をくずすやつだと激怒したりは、しないでいいよね。
 言語道断だなんて、言ってあげないでいいよね。

 あらゆる物語にははみ出す人が登場する。世界ははみ出す人を待ってる。
 あとはみんなに、怒らない準備ができているかどうかだ。




[目次]

 グラデーション アンド ノーピープル(うまく生きれない人の救い方)

[1] やり直しのきかない社会(危機管理能力とタブー化)
[2] 起こるタブー化、起こすタブー化(ズルを推奨する雰囲気づくり)
[3] ずっと同じ積み木を(自信が逆効果を生む)
[4a]グラデーション アンド ノーピープル(現代の救いの手)
[4b]見放さないことだと思ってる(追放と同意書)
[5a]そういうものだから(美容師と恋愛禁止)
[5b]黙っていさえすれば(隠されるプラス)
[6] 側面(生きやすい社会)
[7] うまく生きれない人の救い方(一度もはみ出さずになんて)


[参考にしたもの]

・「ポテチという小説」
 ポテチ(伊坂幸太郎・著)
 フィッシュストーリーという小説集に入っています。映画もあります。

・「感情は、境界の淵で揺さぶられるものだから。」
 指揮者のニコラウス・アーノンクールさんがオーケストラのリハーサル中に「美しさとは、失敗との境目にあるんだと思う」と言っていた動画からの影響です。 https://youtu.be/7W0wSIDX64I

・「流れを断ち切れる人が、本当にえらい人だと思う。」
 参考にしたわけではありませんが、進撃の巨人の「森の子ら」という話がとても好きです。

・「部屋がきれいにディスプレイされてる人は、必ず何かを捨ててるんだから。」 
 ご本、出しておきますね(現・BSテレ東)での「人の本棚でその人のセンスを決めない」という長嶋有さんのお話が印象に残っていて、使わせていただきました。お父さんが「友達がくれた自分のセンスとは無関係なお土産を、なんとなく飾る人が好きだ」と言っていたからだそうです。「普通に生きてたら貰うノイズのようなお土産を、完璧な部屋な人は捨ててるんだ」と。

・「はみ出しアリのはなし」
 単純な脳、複雑な「私」(池谷裕二・著)
 10年以上前に買ってそのままだった本を、2022年の終わりにやっと読みました。タイミングって不思議です。


[エッセイの元となったラジオ]

・タブー化と危機管理能力と愛【音だけラジオ 2021年7月23日】
 https://youtu.be/47nDsOx1JQQ
・言葉のグラデーションと契約解除【音だけラジオ 2022年2月18日】
 https://youtu.be/3KPawHDwgF0



[関連エッセイ]

・「大事なのはWhatよりHow」
https://note.com/yasuharakenta/n/n434f3ae05999
・「風通しの悪い空間では、こんなふうに簡単に何かがよどむ」
 「普通こうだろは、知ってる普通の数の少ない人の言葉」
 「ノーミスを求めて完璧主義になる」
https://note.com/yasuharakenta/n/nf8b2559e3eb1
・「だけど自分が先輩になると、プラスされるのは指導だけじゃなかった」
https://note.com/yasuharakenta/n/n2e97dc553a90
・「わからないことを理解することは、そんなに簡単なことじゃない」
https://note.com/yasuharakenta/n/n2d77667c0c73
・「一緒に生きていけば、幸せ! 幸せ! だけではいられない」
https://youtu.be/c3o9PfaRHrg
https://ptpk.exblog.jp/26881093/


 こんな長いエッセイを、読んでいただいて本当にありがとうございました。2ヶ月半、このことばかり考えて書きました。一緒に心を行き来させてくれてたらうれしいです。


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サポートは、ちょっとしたメッセージも付けられるので、それを見るのがいつもうれしいです。本当に本当にありがとう。またがんばれます。よろしくおねがいします。