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フードスタディーズの視点で見る、日本人の母性

今回は台湾飲食文化の授業で触れた、フードスタディーズ、さらにフードスタディーズ観点で見る日本人の母性やイデオロギーについて考えたので、書き留めておこうと思います。

フードスタディーズ Food studies とは

フードスタディーズは、簡単に言うと食文化という軸でさまざまな分野からアプローチしていく学術分野です。栄養学や農業のような分野とは異なり、食文化を通してジェンダーや人種、社会問題などに踏み込んで行くような人文・社会学系の毛色が強い学問です。

フードスタディーズ文脈での日本語のリソースがあまり見つけられず、期末レポートを書く際、こちらのフードスタディーズに関する書籍や論文の案内に大変助けられました。フードスタディーズの実践例を知るのに非常に役に立ちました。https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/16801

今回取り上げるAnne Allisonによる「Japanese Mothers and Obento's: The Lunch-Box as Ideological State Apparatus」は、日本の母親が作るお弁当に焦点を当てた論文です。彼女は、日本の母親たちは、就学前の子どもたちに手の込んだ弁当を用意することで、国家権力のイデオロギーを再生産していると主張しています。

著者のAnne Allison氏は、米国デューク大学の文化人類学教授であり、現代日本社会を専門とされており、セクシュアリティ、ポルノ、母親の労働から、非正規労働者の不安定さまで多岐にわたって研究されています。「ナイトワーク」は、彼女が実際に東京のキャバクラで働いた経験に基づき執筆されたユニークな著書です。いずれ読んでみたいと思っています。

今回読んだのは1991年に書かれた論文なので、現代の日本におけるジェンダー観点から逸脱している部分も多少あるかと思います。ですが、読んでみたところ、かなり普遍的な内容で、現代にも通じる部分が多くあるのではと思います。

イデオロギー国家装置としてのお弁当

私たちは、「母親の作るお弁当」や母性に関する物語を、ドラマや映画などで消費しています。メロドラマ、いわゆる「母もの haha-mono」では、母親の苦労が感動的な物語として描かれます。「母さんが夜なべをして〜」に代表される「お母さん」の苦労の歌。さらに近年では、ファミリーマートのお惣菜「お母さん食堂」騒動もありました。

この母性に対して持つ私たちの感覚はどこから来ているのでしょうか?
Anneはアルチュセールのイデオロギー装置理論を用いて、日本の母親が作るお弁当の持つイデオロギー装置としての役割について指摘しています。

要約を書いて行こうかなと思ったのですが、すでにめちゃくちゃ分かりやすく書いてらっしゃる方がいました。詳しい内容はぜひこちらをご覧ください。

私のほうでもかなり端的に要約すると、、母親が手をこめて作るお弁当が、日本において文化的・イデオロギー的なメッセージを伝える手段となっているのではないか、と彼女は指摘しています。

まず冒頭で日本食について言及しています。日本食の特徴である、料理を通じて季節や文化の価値観を表現する手法は、イデオロギー的メッセージの植え付けと捉えられます。さらに、日本の保育園でのお弁当の儀式が、文化的行動や価値観の新たな秩序を形成し、学校がイデオロギー装置として機能する様子を説明しています。

その上で、日本人の母性に焦点を当て、母親たちのお弁当づくりに投入する労働が、社会的な期待やジェンダーに基づく分業を反映していると指摘しています。お弁当づくりを通じて女性が社会の期待に応え、さらにそれを通して母親たちは自らの存在を表明しているのです。また男性の家事への関心の低さがジェンダーによる分業を強化し、女性が低賃金のパートタイムの仕事に固定される一因となっている点についても問題提起しています。

ジェンダー規範とアイデンティティのジレンマ

日本的なアイデンティティ、例えば日本料理に対する美学や、「ウチ」「ソト」の概念は、間接的に女性への社会的役割の期待として機能し、家庭での役割の増長の一旦を担っていることが分かりました。

国家アイデンティティが伝統的なジェンダー規範を生み出すのであれば、わたしたちは日本人である以上、このループから逃れられないのでしょうか?
また、似たような封建制度的な考えを共有している、台湾の場合はどうでしょうか。

台湾社会における、母親に対する社会的期待とナニーさん

「母性」や「女性が社会から求められる役割」について、Pei-chia lanによる「Global Cinderellas」で言及されている点を記載します。この書籍は「世界的なシンデレラ」、フィリピンやインドネシアからの外国人労働者と、雇用主である台湾人との絶妙な繋がりについて観察しています。

この中で彼女は、台湾における「妻や母親という女性の原初的な役割を規定する、保守的なジェンダー規範」について言及しています。

ある台湾人女性はフィリピン人メイドを雇い、男性と同じように働けるような環境を整えてきました。しかし、彼女は家事労働を市場にアウトソーシングしているにもかかわらず、家事や介護労働を自分自身で続けています。

彼女らへのインタビューを通して、家事のアウトソーシング化が進む台湾においても、女性性は家事と母性という要素によって社会的に定義され、女性たちは家父長制と対峙しているのだと指摘しています。

この台湾の家事のアウトソーシングに対する価値観は思ったより似ているなぁと感じましたが、母性についてはかなり多様な見方が存在するので、まったく別物だとする意見もあります。これは今後より掘り下げたいテーマです。

最後に

Anneは最後に、「もし母性が国家によって監視され、操縦され、イデオロギーの伝達手段にされるのならば、女性たちはお弁当の再設計を通じて政治的秩序を破壊することはできるのか?」と疑問を投げます。

彼女は一人の自立した日本人女性の例を挙げて、その視点からの解放と変革の可能性を示唆していますが、単なる伝統的な価値観からの脱却と自立によって、この社会全体に存在する政治的秩序を破壊することはなかなか難しいのではないかと、個人的にはかなり悲観的な考えです。

江藤淳は「成熟と喪失」の中で、息子の視点から、日本人の持つ母性について徹底的に論じています。家は母親にとって「ただの物質ではなくて精神の延長」です。

私たちの世代の多くは、「家庭のために尽くす母」を通して、この精神の延長を経験してきたのではないでしょうか。封建的な家制度や家父長制が、依然として私たちの意識の奥底に根付いており、それが母性を再生産している、と考えることができるはずです。

上野千鶴子は解説で「成熟と喪失」を「時代の自画像を映し出す、鏡のような作品」で「その自画像のあまりの正確さに、目をそむけたくなる」と書いています。

世の中には「恥ずかしい父」と「いらだつ母」が溢れ、そしてその子どもたちの「ふがいない息子」と「不機嫌な娘」が出会い結婚する。その息子と娘はまさに自分。「成熟と喪失」はまさに鏡となって、地方の一般家庭を映し出しているのでした。ああ…これはホラーでしょうか。

「不機嫌な娘」として生まれ、どこかで成熟を手放した自分を受け入れること。そして「母性の再生産」について考えること。ジェンダーに関する今日の根深い規範について考察する際には、非常に根源的で基本的な問いに向き合う必要があると感じました。

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