認知能力を育てる意味

こんにちは、ヤッシーです。前回の投稿から時間が空いてしまいましたね。とはいえ、空いている間に書きたいテーマもいくつか見つかったので、ちょこちょこ書いていこうと思っています。

さて、今日は「認知能力」についてです。

認知能力、ご存知ですか?

認知能力とは簡単に言うと、テストのように数字で能力の程度が測れるものとされています。数学のテストで○○点とった、といった具合です。現在の公立の学校はおおよそこの認知能力を育てて測っています。

これに対して、教育界隈全般では「非認知能力」という言葉に注目が集まっています。認知能力ではないものですので、数字で測れない能力ということになります。例を挙げると創造力やコミュニケーション能力になります。

非認知能力による我々の生活への影響ですが、所得に直接関係はないものの、健康には大きな影響を与えるようで、非認知能力が高いほど健康でいられるようです。テストや受験ではなく仕事は非認知能力が非常に重要とされているのは、こういった理由があるからかもしれません。

また、非認知能力は認知能力に比べて、比較的年を取った人でも能力の向上が認められるそうです。このあたりは今後リカレント教育(社会人が教育機関で学びなおす)につながっていくかもしれませんね。

そこで本題の「認知能力を育てる意味」について検討したいと思います。ここまでの非認知能力についての話を聞くと、「認知能力ってそこまで必要ないのでは?」と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

確かに、人間は社会性の生き物なので、コミュニケーション能力や創造性があれば社会で生きてはいけます。しかし、重要なポイントはそこでしょうか?

この記事で皆さんにお伝えしたいことは「最低限の意思疎通を行うためにはある程度以上の認知能力が必要である」という点です。

私は先日の記事で「定量的」という言葉を使いました。実際にこの言葉自体を知らなくても何となくの意味はお分かりかと思います。しかし、それは皆さんがしっかりとした認知能力をお持ちだからこそです。

悲しいことに、世の中には物事を「直観的」「主観的」「感情的」に判断・指示・指摘される方がいらっしゃいます。これらは「定量的」とは遠く離れた存在であると感じていただけると思います。

直観的・主観的・感情的なコミュニケーションは相手に物事をうまく伝えることができません。ご自宅で「洗っといて」だけ言われても何のことだかわかりませんよね?

おそらく「洗っといて」の言葉の裏には、「シンクにあるお皿を」「洗って」「水分をふき取って」「棚に並べておいて」というとてつもない要素が含まれているでしょう笑

(この辺りはまた別の記事で考察していますので、興味があればご一読ください!)

私見ですが、直観的・主観的・感情的な判断をする原因は、論理的・客観的な判断をする方法を持ち得ていないからだと考えています。つまり、考え方が片手落ちなわけです。すると、簡単にできるほうに偏り、うまくいかなくなってしまいます。

このように、思考の双璧をなす2つの手段を構築する、基礎となるものが「認知能力」です。だからこそ、非認知能力だけではく認知能力も同程度以上に必要となります。

繰り返しになりますが、人間は社会性を武器に生き残ってきた生き物です。社会性を捨てて生きていける人間はほぼいません。他人とコミュニケーションがとれ、自分の気持ちが伝えられ、情報を的確に表すことができるためには、認知能力と非認知能力がバランスよく必要です。

ちなみに、日本の社会人の多くは認知能力が比較的高いと思いますので、非認知能力を中心に鍛えてみてはどうでしょうか?

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