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「自然」遊びが楽しいのは

これは大変なことになった。真夜中のテントの中、「大雨」という言葉ではとても収めきれない強烈な風雨にさらされた。このまま一晩越せるかなと不安になりながら、昼間の「自然」遊びの疲れから、だんだんと意識が遠のいていく。隣にいる娘は既に深い眠りに落ちているようだ。

先月、和歌山の有田川町へキャンプに行った。目の前に広がる棚田の風景、周りの山々の深い緑にそのまま溶け込むように輝く巨大ダムの水面の色、収穫の時期を迎え豊かに実る大粒のぶどうたち。

大自然と人工物の交差点にある風景の数々は、長くて地道な自然と人の営み、その歴史を想起させる。

オートキャンプ場に着いたのは、まだまだ猛暑の勢いが残る16時前頃。日が沈む前にテントを設営し、テントの前にタープを張って、その下に食卓を準備し、BBQの炭を起こさないといけない。大粒の汗をたくさん流しながら作業に勤しむ。家では気の向いたときしか家事を手伝わない娘も、今日は前のめりで積極的に作業をするその姿がとっても楽しそうだ。

汗水流して苦労を楽しむ。寝床(テント)の準備と撤去、火越こしから始まる調理と後片付け。こういった原始的な大変さや苦労を前提に、「自然」を楽しむのがキャンプの醍醐味だ。

と、思っていた。

それは一気に来た。キャンプ2日目の夜。夕食のBBQとビール、食後のウイスキーを一通り楽しんで片付け、テントに入り寝ようとしたところ、突然天候が変わり強烈な暴風雨にさらされた。初日のテント設営時、風のない快晴に油断して、ペグ打ち作業を適当にやってしまったことを後悔した。テントは飛ばされないか、通気のために少し空けた内窓から雨がなだれ込まないか。そんな不安を抱えながら横に目をやると、隣にいる娘はいつもの安らかな寝顔で既に深い睡眠ワールドのど真ん中にいるようだ。ぼくの方も、昼間の疲れと体を心地良く巡るウイスキーのおかげで意識がだんだんと遠のいていく。

キャンプ3日目、最終日の朝。小雨が収まった頃を見計らって外に出る。昨夜の雨、ほんとすごかったね!でもぐっすり寝れたし、テント飛ばされなくて良かった!なんて、娘と話しながらテントを撤去していく。アルミ製の骨組を順番に織り畳んでテント本体をペシャンコにして、横にずらして畳もうかと、テント本体をずらしたそのとき。

地面とテント本体との間に敷いたテントシートの上に、たっぷりと雨水が溜まっていた。

それは、大きなアメンボ数匹が泳ぎまわるに十分なほど立派な水溜りで、雨上がりの虹を通して降り注ぐ太陽に照らされていた。

「あ、これ、守られてたんだ」と思った。

昨夜の激しい暴風雨にも、ぼくらは文字通り1滴も濡れることなく眠ることができた。今では何の特別感もない「防水技術」をもったテントシートとテント本体がぼくらを暴風雨から守ってくれていた。

「汗水垂らして原始的な苦労を楽しむのがキャンプの醍醐味だ」とか言いながら、ほんとは先人達の開発した文明利器の恩恵を存分に受けてるんだ。生身の人間だけではどうやっても叶えられない快適さと利便性を与えてもらっているんだ。

そう、すべてはテクノロジーに守られている。

アウトドアの「自然」遊びで、「自然」と一体にでもなったつもりでいながら、その遊びは圧倒的な快適さと利便性を前提にしている。

考えてみれば当たり前の話だ。テントだけではない。車で長距離を移動し、その道のりはアスファルトで舗装され、着火剤とライターで簡単に炭を起こし、コンパクトに収納された丈夫で軽量な椅子とテーブルを広げて食卓にする。

その全てがテクノロジーの結晶でありながら、今や日常の当たり前の景色に溶け込んでいて、その恩恵が見えにくくなっているだけだ。

そんなことをぼんやり考えながらキャンプ道具の後片付けをしていると、「拡張」という言葉が頭に浮かんだ。

テクノロジーはこれまで人間の機能を拡張してきた。斧や弓が、手の持つ機能をそのまま拡張したように、文字や書物が人の脳(記憶)の機能を拡張したように。テクノロジーはそうして常に人の能力と可能性を拡大してきた。

一方、テクノロジーの規模が大きくなり高度化するにつれ、それは当たり前のものとして日常の風景の中に埋め込まれ、「人にとって何が拡張されたのか」が見えにくくなった。その恩恵が見えなくなった。

テントシートの水溜りを見て思った。

この先もテクノロジーはそこら中に当たり前のものとして、普通の日常風景として埋め込まれる。その時、ぼくらが思い出すべきは、テクノロジーの原点が「人の可能性を拡大してきた」という事実だ。その恩恵にあずかって、あとはぼくらがどこを向いて進んでいくのか、その恩恵の先に何とつながるのか、大切なのはそれだけだ。

例えば「AIが人から労働を奪う」のではなく、「AIが人の存在理由を奪う」のでもない。逆だ。ぼくらの未来にはテクノロジーの原点、人の可能性を拡大するという恩恵だけがあって、あとはぼくらがどうするか、それだけなんだよなって、一人で頷いてしまった。

テクノロジーに守られて「自然」遊びをする。その恩恵の先に繋がるものは、人が遠ざけてきた「不便さ」であり、「苦労」の価値であり、自然の持つ偶発性のようなもの。

つまりは、逆説的だけど、テクノロジーが生まれ発展してきた契機そのものに対して、テクノロジーを通して繋がり直すこと。自然遊びの楽しさはそこにある。

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