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世界を信じるための「批評」―映画『バードマン』を巡って

この評論は文芸誌『すばる』(集英社)の主催した第1回すばるクリティーク賞の応募作であり、最終候補には残りましたが結果的に選外となったものです。文章の評価については『すばる』の2018年2月号に掲載された審査員の座談会にある通りなので、興味があれば目を通してみてください。ただせっかく書いたので『THE BATMAN ―ザ・バットマン―』公開を機に、同作のパロディ的な要素を持つ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を扱った批評として公開してみることにしました。
内容はジル・ドゥルーズや蓮実重彦などの理論・批評を援用し、映画を「信じる」とはどういうことなのかについて考えてます。昔の文章なので近年の映画論の参照はありませんし、公募の応募作でもあるので内容もいじらず、誤字の修正のみにとどめました。こちらに応募のときに作成したPDFもアップしてあります。

世界を信じるための「批評」―映画『バードマン』を巡って


引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、二〇〇六年、二四〇頁

ジル・ドゥルーズはその浩瀚な著作『シネマ』の第七章において「世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である」と書き記す。「徹底した単純さの探求」として、分類学的な態度を一貫していた本書終盤のこの言葉は、いささかの唐突さも伴いながら、狭義の映画理論を軽々と飛び越えて、私たちの生の在り方について重大な問いを投げかけている。

ドゥルーズが問題にした、そして取り戻すべき「人間と世界の絆」。私たちが「この世界を信じる理由を必要とする」がゆえに、欠くことのできないその信頼の正体を、本論はアレハンドロ・ゴンザレス・イリャニトゥが監督した映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(以下『バードマン』)の分析を中心としながら考察する。ドゥルーズから出発して導かれる私の記述は、映画についての、そして世界についての信を問うことを巡って展開していく。しかしそのことは、ひとつの困難が伴うのもまた事実だ。ドゥルーズはそれを「現代的な事態」と呼び、「われわれがもはやこの世界を信じていない」ことを指摘し、次のように続けている。

われわれは、自分に起こる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、二〇〇六年、二三九〜二四〇頁

彼にとって世界は悪質な映画であり、その現代的な事態によって、人間と世界の絆は引き裂かれている。それは一体どのようなことなのか。これらの問題を検討していく過程で私の思考は映画から徐々に遊離し、「批評」としか形容しえないような領域へと、足を踏み入れることになるだろう。

1、再開の力としての「信」

論述を進めるにあたって、まずは冒頭で提示したドゥルーズにおける信の概念の内実を明らかにし、これを批評的な課題へと再設定したい。長谷正人はその魅惑的な映像エッセイ集のなかで、ドゥルーズの言う映画と、世界への信について「一見あまりにもナイーブな主張かもしれない」と前置きしながら、次のように語っている。 

私自身いつも、現代社会の人びとがあまりにも「世界を信じる力」を失ってしまったことに戸惑い、悲しんでいるから。つまり私には、人びとがあまりにもシニカルな観念的態度で現実世界に接してしまっており(「どうせ世の中こんなものさ」)、そのため自らの存在感を十全に発揮できていないように思えてしかたがないのだ。実際、ほんの三〇年前と比べてさえ、シニシズムは私たちに深く浸透してしまっているのではないか。たとえば現代の私たちは誰も政治的運動や革命を信じなくなった。

長谷正人『映像という神秘と快楽—〈世界〉と触れ合うためのレッスン』以文社、二〇〇〇年、
二〇五頁

このような指摘は長谷のみならず、とりわけ冷戦終結以降の世界を生きる私たちにとって、一定の説得力を持つことは疑いえない。この引用中、二度使用された「シニシズム」という言葉こそが、私たちの世界との絆を断つ根源的なものと見做すことができるのではないだろうか。スローターダイクを援用しながら『ナショナリズムの由来』の中で大澤真幸も述べるように、シニシズムとは「単純な嘘、迷妄、(通常の)イデオロギーに続く虚偽意識の第四の形態」であり、それらとは「啓蒙が有効ではないということによって、他の虚偽意識から識別される」ものである。様々な利害が対立し、かつそのどれもがある特定の集団にとっては不利益な虚偽を含んでいる限り、こうしたシニシズムは「ポストモダンの相対主義の特性」として、私たちの態度決定に大きく影響しているといえるだろう。

ゆえにドゥルーズもまた、こうした趨勢が念頭にあったからこそ「この世界への信頼を、われわれ唯一の絆を撮影しなければならない」と警鐘をならすのだ。三浦哲哉はこの信について、『シネマ』においてドゥルーズが大きく依拠するベルクソンにその答を求めている。『映画とは何か フランス映画思想史』において三浦は、ベルクソンの提唱した、神話などが持つ個人の生の失調を再建させる「虚構作用」の概念をパラフレーズしながら、次のように解釈する。

『シネマ』の第七章でしていることが、ベルクソン哲学に見出される全体主義的、共同体主義的傾向とは異なる意味における生と思考の関係を探ることであったのは明らかだろう。(……)人間と世界、愛と生は一つの全体を成しているのではなく、また今後も成すことはないだろう。しかし、ここで示されているのは、かつてよりも根源的な「再開」の力である。

三浦哲哉『映画とは何か フランス映画思想史』筑摩書房、二〇一四年、一九〇〜一九一頁

ドゥルーズ自身が述べているように、「信じるということは、別の世界を信じることではなく、改造された世界を信じることでもない」。つまり彼にとって信とは、生の主体それぞれが各々の意味合いにおいて、「この世界そのもの信じる」ことに他ならない。それは、「舗石を突き破って出てくる種子を信じる」ような「再開」の力なのだ。『シネマ』の記述において、確かにドゥルーズはカール・ドライヤーのようなカトリック系の作家を賞揚しているかのように見えもするが、問題の核心はそこにはない。それは死後の救済のイメージではなく、いま、ここの世界に向けられた眼差しに他ならないのだ。

2、現代映画の困難と批評

ではそうした信は、現代の映画においてどのような困難に晒されているのだろうか。

シニシズムは映画という表現にもある変質をもたらしていると長谷は考える。先に引用した箇所に続いて彼は、かつて映画にあった世界への信を、リュミエール兄弟の『海水浴』などを例にあげながら、カメラというテクノロジーへの信に変換する。何故ならそこには、世界のありのままが生き生きと映し出されているからだ。そうした立場から批判されるのは、VFXなどに代表される特殊効果である。一片の嘘も無くそこに投影されていたはずの映像は、「CGによって監督の都合のよいように捏造されてしまう。(……)それはまさに、現代の人びとがもはやこの世界を信じることもできずに、シニカルに世界と向き合っていることを表してしまっている」のだ。確かに現在、私たちの時代の映画はどんなに真に迫った映像でも、ポストプロダクションを経て「作られたもの」であるという認識を拭い去ることが難しくなっている。コミックスが原作のハリウッド映画にそれが顕著であることはいうまでもない。物語の水準に視点を移してみても、それは「典型的」であればあるほど「お約束」として受け取られてしまう。「シニカルな現代人は、ラヴストーリーにも何らかの穿った観念的・心理的説明や複雑な状況設定を求めてしまう」のだ。長谷はそうした例として、男女が神経症的に傷つけあうウッディ・アレンの作品を挙げている。

このような立場に立ったとき、確かに現代の映画は、ドゥルーズがいうような世界との絆を回復する手段にはなり得ない。そこには映画それ自体の表現の多様化と、シニシズムに侵された私たちの主体双方に問題があることが看取されるだろう。

では現代の映画を信じ、世界との絆を取り戻すためにはどのような可能性があるのだろうか。そしてその問いこそを、私は批評に固有の課題として引き受けたい。なぜならドゥルーズはこれまで私が取りあげてきた一連の問いを、信という主体的な問題として提起しているからである。ここにおいて、海外であれば「哲学的エッセイ」と分類されるような特殊な散文としての「批評」が立ち現れる。文芸批評のみならず、映画批評においてもその姿勢を体現し続ける蓮實重彥の(おそらく、当人にとっては「とりあえず」の)定義をまずは引用しよう。

批評というのは、何もむつかしい話ではなく、相対的な差異にはおさまりがつかぬ何かの到来を予感し、その何かに向けて自分をおし拡げるべく存在を組織しておくことだと思う。

柄谷行人、蓮實重彥『柄谷行人蓮實重彥全対話』講談社、二〇一三年、一九七頁

このように蓮實にあって、批評は自らの実存なくしては成立せず、だからこそそれは「倫理的な生の姿勢」とも言い換えられる。ドゥルーズが現代の映画に求める信もまた、こうした私たちの生における倫理に他ならない。そしてこうした態度は修辞を取り去ってしまえば、柄谷行人が「批評とポスト・モダン」の中で、批評は「方法や理論ではなく、生きられるほかないもの」であると述べたことや、小林秀雄が「様々なる意匠」において、「品川湾の傍に住む子供は、品川湾なくして海を考へ得まい」と譬えたことにも通じる姿勢といえよう。この国の批評は伝統的に、自らの「生」と分ちがたく結びついている。さらに言えば、近代的な批評の起源とされる小林が自らの思想を形成していったのは、関東大震災やアヴァンギャルド、マルクス主義といったハード、ソフト両面からくる衝撃によって、近代と自己が同時に危機に晒された大正末期から昭和の初期にかけてのことでもあった。

しかしだからこそ、映画について先に私が述べたような「危機」においても同様に「批評」という領域に問うべき課題があり、ゆえに私は、映像の可塑性が全面化し、いまだシニシズムから脱却しきれていない「現代的な事態」の危機を、自らを触媒とすることによって昇華し、映画と、そして世界に対する信を回復する可能性に賭けるのだ。それこそが本論の堅持する批評的な態度に他ならない。以下、具体的な分析を開始しよう。

3、横たわる懐疑

『バードマン』は二〇一五年、第八七回アカデミー賞各賞を最多受賞し、下馬評を覆し作品賞も受賞した。ベテラン俳優リーガン(マイケル・キートン)は、レイモンド・カーヴァーを原作に自ら脚本、主演を手掛けた舞台を成功させることによって、ヒーロー映画「バードマン」の出演以降の長いスランプから脱出しようと目論んでいる。物語はその演劇のプレヴュー公演から初日の公演までを軸として、登場人物たちが繰り広げる悲喜こもごもを描いた作品だ。しかし、そうしたあらすじ以上に話題となったのは、およそ一二〇分の上映時間のほとんどが、途切れることのないワンカットで展開されていくということだろう。『バードマン』におけるカメラは、物語の展開をどこまでも追尾し、映像は自由に空間を移動していく。具体的な作業に深く立ち入ることは本論の主題ではないものの、この徹底して練り上げられた長回しは恐らく、撮影監督を務めたエマニュエル・ルベツキがかつて撮影を担当した映画『トゥモロー・ワールド』の製作時に開発された「PlaneIt(プレーンイット)」という画像加工ソフト、あるいはそれと同様の操作が可能なソフトを用いることによって、カットとカットの間の繫ぎ目を隠蔽することで実現したと推測できる。

つまり『バードマン』もまた、長谷が指摘するような、「監督の都合のよいように捏造」された映画であることは疑いようがない。というよりむしろ、現在の映画ではそのような加工を経ていない作品を探すほうが難しいはずだ。ゆえに本作もまた、ドゥルーズがいうような、世界との絆をストレートに表象する作品ではありえない。しかしだからこそ、私はこの作品の投げかけるメッセージに、世界との信頼回復への可能性を見出したい。本作は映像的な水準において、観客のシニシズム=懐疑を全編にわたって持続させる。そしてその効果によって、ラストシーンでは映画と、世界に対しての信を、一挙に私たちに問うことになるのだ。

具体的にリーガンの登場する映画冒頭を確認しよう。彼は初登場のシーンにおいて、あぐらをかきながら泰然と宙に浮いている[図1]。すぐさまに私たちは、映画内の世界が、現実の世界とは異なる、フィクションの世界であることを認めざるをえなくなるだろう。そしてリーガンは独白をはじめる。カメラは徐々に近づいていき、後頭部のクローズアップとなる。そこへ電子音が聞こえてくる。音楽が流れ、映画が始まるのだと身構える私たちは、次の瞬間出鼻をくじかれる。アップから再びズームアウトしたリーガンは宙に浮いておらず、床に足をつけているのだ。さらに聞こえてきた音楽はサウンドトラックではなく、ビデオ通話の着信音であったことが明らかになる。映画内で現実、真実と思われた動作の真偽は事あるごとにあいまいにぼかされ、本作は常に半信半疑を維持したまま、物語が展開されていく。

私はここで、フリッツ・ラング監督の『飾窓の女』を思い出した。本作でも、主人公が眠りに落ちてから目を覚ますまで、夢の世界から現実の世界までの移行が(一見)カットを割ることなく操作されている。こうした作例を鑑みたとき、リーガンの空中浮遊は彼の空想だったのではないかという疑念が生じることになる。しかしこの疑いは、絶妙としか言いようがないかたちでうやむやにされる。付き人で娘のサム(エマ・ストーン)とのビデオ通話を終え、彼は稽古場へと向かう。演劇の成功に気を揉むリーガンは、共演者であるアランの演技が気に入らない。とそこへ稽古中、唐突に頭上から物が落ちてくる。それによってアランは負傷降板。プロデューサーに得意げに「俺の超能力さ」と語るリーガン。ということは、彼はやはり自分の身体も含め、物体を自由に動かせる能力を持っているのだろうか。物が落ちてきて出演者が負傷したということに関しては、映画内での証人も存在する事実だからだ。

このようにリーガンの超能力に関しての懐疑は、映画の冒頭のサプライズとともに蒸発していく。むしろこのような懐疑を産出することこそが、『バードマン』の基本的な叙述様式であることを印象づける。あるいは本論の関心に引き付けるならば、こうした演出によって、観客は映画への信を問われてているのだといっても良いだろう。

4、映画としての世界

一方で本作は、世界に対する信も重要な主題として取りあげられている。それもドゥルーズが語ったような、「悪質な映画」としての世界が描かれているといっても過言ではない。主人公であるリーガンは、周りの人間たちを信頼しきれず過剰な自意識を昂らせ、足掻き続けているからだ。そのことがよく窺える、最後のプレヴュー公演で起きたハプニングを確認したい。彼は出番直前に煙草を吸いに外に出る。逸楽もつかの間、ふとした拍子にドアが閉まってしまう。バスローブの裾がドアに挟まったせいだろうか、扉が開かなくなってしまった。出番は迫っている。観念した彼は下着一枚になって正面の入り口から劇場に戻る。その際にブロードウェイのタイムズ・スクエアをほば全裸で闊歩した映像は、多くの通行人に撮影され、インターネットにアップロードされてしまう。元スターの下着姿。「バズ」らないわけがない。しかし、この思いもよらぬプロモーションの成功に、リーガンの反応は芳しくなかった。印象的なのは白痴化してしまったかのような虚ろな彼の表情である。ここには千載一遇のプロモーションチャンスを生かそうという気概は全く見られない。トラブル続きの毎日に、彼の神経は衰弱しきってしまい、舞台の評価、共演者たちの動き、娘の更正、恋人、あるいは元妻との関係、公私両面での懸案が彼の脳裏を支配する。そう。彼もまた、私たちが世界に対して抱くシニシズムという同じ病理を抱えてしまっているのだ。

『バードマン』はこのように現代の映画にとっての困難を逆手にとり、観客の興味を持続させ、映画内では、私たちの生における普遍的な実存の葛藤を物語の推進力とすることで、映画と、世界への信を同時に問おうとした作品なのだ。

つまりリーガンにとって劇中の世界はコントロールのつかない、信じることの出来ないものとして描かれている。だがこうした状況は、大かれ少なかれ私たちが生きる上でも感じる不条理であることもまた事実だ。その点において本作は、丹生谷貴志が理論立てる「映画としての世界」を正確になぞった作品であるといえるだろう。彼は「映像のフーコー」の中で、複数の思想家の言説を参照し、「劇場としての世界」から「映画としての世界」への移行を遡及的な思考実験として試みている。この両者の違いを端的に説明すると、「前者の世界が何はともあれそこからの離脱を可能性として含んでいるのに対し、後者の世界はその可能性を一切含んでいない」のだという。演劇の俳優であれば舞台から降りることが出来るが、映画においてそれは端的にあり得ない。ゆえに丹生谷は、次のように明言する。

劇場としての世界は「相対的な〈分身〉」の世界であり、映画としての世界は「絶対的な〈分身〉」の世界なのである。そしておそらく、三〇年代頃から、我々はもはや、自身の役を降りる権利を喪失し、「映像」と「音」の配列、それが形成する映画的世界の中に分配されるにいたったのである。(強調原文)

丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』青土社、二〇〇七年、九二頁

そのような、降りることの出来ない舞台としての映画と向き合った映画的な思考を実践した人物として、丹生谷はサルトルを自由意志の可能性を確保しようとした「監督」として位置づけたり、メルロー=ポンティのいう「世界内属存在」を、「観客」の立場からの思想であると解釈している。つまり三〇年代、トーキー化によって音声を獲得した映画は現実との相似形を獲得し、世界認識のモデルとして活用しうる表現となったということなのだ。近代化以降加速する情報化や、フーコーの指摘するような「生政治」の浸透に伴って、私たちの生は映画の俳優と同じように、世界との従属関係を断ち切れなくなっている。丹生谷は控えめに述べるものの「ナチスにいたる近代国家の成長がリュミエール兄弟以来の映画の成長と並行している事実」は、彼の主張する「映画としての世界」という認識モデルが現実味を帯びたものであることの傍証として十分な説得力を持つだろう。

そのことがよく分かるのは、先ほどの触れた路上でのハプニング後、意気消沈したリーガンに、娘のサムがスマートフォンでSNSを通じて拡散した父親の下着姿の映像を嬉々としてその当人に見せる場面から始る一連のシーンだ。ぼんやりと自らの映像を眺めるリーガン。カメラは彼の肩をナメてスマートフォンの画面が大写しになる。そしてカメラが引いていくと、スマートフォンの画面はテレビ画面に変わり、その場所も劇場のバックヤードという密室空間からバーという公共空間へとジャンプしている。もちろんカットは割られていない。ハプニングはネットからテレビへ、リーガンの私的な眼差しは社会的な話題へと変質する。ここでテレビはスマートフォンという「小さい画面」の仲介者として場面転換に貢献し、映画という「大きな画面」に軟着陸させる役割を負っている。

この複数の「画面」を用いた演出は、本論にとっては見逃せないポイントだ。現在、私たちの周囲にはありとあらゆる場所にスクリーンが設置され、それは「デジタル時代のパサージュを構成する舞台装置」として定着したといっても良いだろう。しかしそうした映像、情報流通の加速化によって成立する相互的な監視システムは、逃れられない、降りることの出来ない舞台である「映画としての世界」をより強化しているのではないだろうか。本作はこうした複数のメディアによる媒介性を強調することによって、現代において世界との関わりを遮断することがいかに困難であるかを端的に表象している。それは作品のポスターからも読み取れることだ。劇場前の通りに浮かぶリーガンの周囲やディスプレイには、家族や共演者といったサブキャストたちがはめ込まれ、彼を包囲している。私たちは、「スクリーンの偏在」によって拘束された存在に他ならない。ここにおいて世界は「悪質な映画」として立ち現れる。そのような場所において、世界への信頼はつねに脅かされるだろう。リーガンは劇中内におけるさまざまな諸力に翻弄され、衰弱し、追いつめられていく。つまり「絶対的な〈分身〉」たる彼は二重の意味で、「映画としての世界」の住人だったのだ。

5、幽霊と宙吊りの神話

しかし、そのような「映画としての世界」が描かれる本作にあって、唯一例外的な、リーガンの内なる別人格「バードマン」が存在する。重要な論点を導入するであろうこのキャラクターを取りあげ、さらに議論を展開していこう。

バードマンが劇中、姿を伴って登場する一連のシーンがある。公演初日の前日、リーガンは酔いつぶれて路上で眠りに落ちてしまう。そして夜が明けた頃、リーガンに何者かが語りかけ始める。「なんてこった ひどい顔をしてるぞ」「二日酔いで まぶたが腫れてる」囁きに促されるようリーガンは立ち上がり、歩き出す。耳元が気になり不意に後ろを振り返るも、誰もいない。しかし再び正面を向いた後、画面には漆黒の翼を揺らしながら、バードマンが登場する。映画序盤からリーガンに語りかけてきたアルターエゴは、ついに可視化される。この奇妙な怪異現象を、私たちはどのように解釈すべきなのだろうか。先の引用とは別の著書で丹生谷は、「『可視的』な『誰か』」として位置づけられる、「幽霊的存在」について考察している。

「固有名=言表」的な「誰か」でもなく、かといってそれは、「誰でもいい誰か」である訳でもない。(……)要するにそれは彼ら傍点は如何なる「言説」の登記からも陥没した場所に「存在」する「誰か」、つまりは「単独者」であるだろう。(……)「言説」によっては決して管理も補捉も出来ない還元不能な、絶対的に陥没した、「固有名」にも「無名」にも還元されない、「人間」という抽象にも「死」という抽象にも還元されない、「幽霊」つまりは「単独者」の可視的現前……。(強調原文)

丹生谷貴志『三島由紀夫とフーコー〈不在〉の思考』青土社、二〇〇四年、二二四〜二二五頁

丹生谷はこの「幽霊」を、「市民」が誕生した近代特有の、主体の自由への新たな欲求だと位置づける。彼の発想は「言表」という言葉から連想されるように、フーコーがエルヴェ・ギベールに語った養老院構想に触発されたものだ。そこには「市民であること」からの「自由」が保証された、「生の野生状態」があるという。フーコーに導かれた丹生谷は安部公房の『砂の女』等の文学作品も挙げながらそのような存在の住まう場所を、「おそらくそうした『自由の空間』は存在する。生きてもいなければ死んでもいない者たちの空間……失踪者の空間」であると述べる。

リーガンの背後に現れたバードマンという「誰か」。それは「幽霊」に他ならない。なぜならそれは、奇妙なことに劇中、誰もその存在に気付かないからだ。しかしリーガンにはその言葉が聞こえ、かつどうやら行動にも影響を与えている点を考慮すると、「誰でもいい誰か」であるわけでもない。丹生谷はこうした存在を映画から着想した部分もあるため、「『可視的』でありながら、視覚を支える彼ら自身に属する物質性を持たない」という特徴もバードマンは満たしている。そしてその「単独者」たる「幽霊」は「映画としての世界」の外部、つまりスクリーンを見つめる私たちとの回路となる。バードマンはリーガンに「世間が待つのは 終末的な娯楽大作」「お前が やることは…」とそそのかす。そして次の瞬間彼は、右手をパチンと鳴らす。すると道に止められていた乗用車がミサイルで爆撃される。武装した機動隊もどこからともなく現れてきた。頭上へとカメラがティルトアップするとそこにはモンスター。さらにヘリコプターも飛んできている。バードマンは不敵に呟く「まさに それだよ」。そして次の瞬間、私たちは身体を貫かれる。なぜなら再び目線の高さに戻ったカメラを待ち受けているのはほかでもない、バードマンだからだ。彼はカメラ目線でまくしたてる[図2]。

骨まで震わす大音響とスピード!
やつらを見ろ 目が輝いてるぞ
みんなが大好きなのは血とアクション
しゃべくりまくる 重苦しい芝居じゃない

アレハンドロ・ゴンザレス・イリャニトゥ
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』二〇一五年

ここで「やつら」と名指されているのは私たち観客に他ならない。なぜならバードマンはしっかりと視線をこちらに向けているからだ。彼は明らかに、スクリーンの外部に向かって語りかけている。この一連の台詞は「注意喚起(アトラクション)」として私たち自身の身体を顕在化させるのだ。それまで映画の中を循環していた皮肉と風刺の切っ先が突きつけられる。確かに私たちは、映画というスペクタクルに動員された制度的な存在に過ぎない。痛烈な批判に観客の立場は揺らぎ、物語映画という様式にヒビが入る。そして映画という媒体が、外傷的に顔をのぞかせるのだ。「幽霊」としてのバードマン。彼は「映画としての世界」に楔を打ち込み、さらなる揺さぶりを私たちにかけてくる。映画の外部へと向けられたバードマンの叫びに乗じ、リーガンは奇声を上げる。そして次の瞬間、彼の身体はふわり宙を浮く。「ほらな 空高く舞い上がれ」「お前は重力にも勝てる」バードマンは、さもそれが当然のことであるかのように平然としている。そしてビルの屋上へと登ったリーガンは、躊躇なく飛び降りる。木の枝を一瞬かすめるも、彼はニューヨークの空を飛んだ。

このリーガンの飛翔は、どのように解釈すれば良いのだろうか。今私たちが相対しているのは、バードマンという「幽霊」の登場によって虚構のリアリティが崩れ落ち、底が抜けてしまったような状態でなお運動し続けるイメージである。ここで再び、そのような知による解読が無効化する、「濃密な無知」の中で映画に向き合い続ける蓮實の言説を参照したい。「映画と落ちること」において彼もまた、バードマンと同じように平然とその重力圏からの離脱を肯定する。そこでヒッチコック作品における落下の主題について言及しながら、それは「落ちずにいること」の持続によって虚構的徹底性を突き詰めた結果、「落ちること」が廃棄された積極的身振りなのだという。そしてさらにこの主題を抽象化させて、次のように述べる。

映画のみに有能なる想像力というか、むしろ映画を不断に遭遇し続けることで形成される想像力というものが存在するのだ。落ちること、それが野心の挫折とか夢の崩壊とかいった比喩的なものであれ、宙を貫いて失墜するという物理的なものであれ、その運動は映画にあっては鮮明な輪郭におさまりえない。それに反して、映画は落ちずにいることの夢が具体的に形成されるにふさわしい場だ。しかし、失墜だの転落だのをめぐる神話はあらゆる地域の物語として語りつがれ幾重にも変奏されていながら、そこに落ちずにいることの積極的な意味を語る挿話などあっただろうか。サスペンスこそ、映画にふさわしい想像力の典型であり、映画によってはぐぐまれ映画によって助長されもする神話的主題なのである。(強調筆者)

蓮實重彥『映画の神話学』泰流社、一九七九年、三〇一〜三〇二頁

強調部に注目してほしい。ここで主語は「映画」であり、私たち「観客」ではない。よって、こうした蓮實の論理を踏まえるならば、リーガンが本当に飛んだのかどうかを私たちが判断することは瑣末な問いにしかならないだろう。より重要なのは、映画という媒体がその与件として、スクリーンに映し出された人間を飛翔させることを肯定しているということだ。その距離感は、これまでかろうじて存在していた私たち観客と物語の関係を断ち切ってしまう。なぜならここでは映画にとっての現実が、それまでの不安定な理解を出し抜いているからだ。

そのことがもっとも過激に表象されるのは、リーガンの飛翔のファンファーレ、ラフマニノフ「交響曲第二番ホ短調作品二七 第二楽章」が鳴り止んでしまうその一瞬だ[図3]。宙を舞うリーガンは周囲を一周して再びカメラのすぐそばまで戻ってくる。画面は彼の上半身が覆い被さるような構図となり、一度停止する。そこからカメラは徐々に寄っていくのだが、その瞬間、音楽が唐突に遮られる。そのとき「落下の主題」は、蓮實の言う「宙吊り=サスペンスの主題」へと変奏され、リーガンの飛翔を演出していたサウンドトラックは引き剥がされる。もはや彼の浮遊を担保するのは、映画という媒体のみだ。それまでその音楽は、ヒーローたらんと欲するリーガンの象徴として機能していた。しかしここにおいてそれは、読解不可能な記号へと転移するだろう。問いすら受け付けない「愚鈍なる残酷さ」に、私たちは立ち会うことになる。『バードマン』における宙吊りは、「長回しによるワン・シーン=ワン・ショットというもっとも素朴な、つまりは映画的特性の思考の身振りによって、虚構の徹底化を押し進める」のだ。それはリーガンを英雄たらしめんとするイメージだったのだろうか。否、蓮實も言うように落ちないことはあくまでも映画にとっての神話的主題であるがゆえに、決して語の一般的な意味での神話、物語に短絡することは出来ない。彼は失墜による物語を導入することもないし、ビルからの跳躍を、飛び降り自殺(=墜落)だと合点し、この飛行シークエンスは彼の夢なのだ、と解釈してもならない。そうしたメタフィクション的な階層構造を、『バードマン』に持ち込むことは不可能である。リーガンの初登場シーンを思い出して欲しい。本作の演出は、物語の因果関係を映像、音響両面にわたって徹底的に留保させるよう仕向けているからだ。「幽霊」に促されたその飛翔によって、彼は様々な諸力によって支配された「映画としての世界」を打ち破り、私たちに映画を、現実の「出来事」として遭遇させることに成功したといえよう。

6、投射

それまでもその虚実の曖昧な語りによって、本作は観客の映画への態度を繰り返し問うてきた。もはやそれは、「幽霊」たるバードマンの登場とリーガンの宙吊りによって、倫理的な側面すら有している。しかしだからこそ本作のラストシーンは、より重大なものとして私たちに迫ってくるだろう。

クライマックスである公演初日、劇的な、ゆえにこれまで保持していたイメージ間の遊離した関係を収斂させてしまうようなサスペンスが導入される。劇中劇「愛について語るときに我々の語ること」のラストは主演するリーガンのピストル自殺でフィナーレを迎えるのだが、憔悴しきった彼は、本物の拳銃を手に舞台へと向かう。そして観客の目の前で、引き金を引く。長いワンカットはここで途切れ、散文的に十一のカットが数秒ごとにインサートされる。体を張ったサスペンスに収束するかに見えた物語はここでまた、アントニオ・サンチェスのドラムロールとともに撹拌される。その後、病室で目を覚ましたリーガンは窓の縁に身を乗り出し天空を見上げる。カメラは一度病室内へとパンし、サムが入ってくる。するとリーガンが見当たらない。彼女は姿を消した父親を探して、開け放たれていた窓に駆け寄る。そして映画は、あたりを見回した彼女が空を見上げ、微笑む場面で終わるのだ[図4]。

この墜落とも、飛翔ともとれる結末は、これまで全編にわたって維持されてきたイメージの両義性の極点であるといえよう。真でもあり、偽でもあるようなこうした特徴を、共存するものとして考えることは可能だろうか。しかしそのような態度が成立しなければ、安易な信仰への短絡を禁じられた「現代的な事態」の中で、映画と世界を信じることの可能性は担保されないはずだ。ゆえにここからは、松浦寿輝が『平面論』において展開した「投射」概念を援用し、スクリーンと私たちのあいだで交わされるコミニケーションの記述を試みていこう。

投射とは、主体の内面、ないしは欲望が、スクリーンに映し出されることを指す。本論の企図を踏まえた上で指摘したいことは、そのプロセスは、スクリーンの内部と外部の反転を絶えず誘発するということである。それはナルシシスティックな閉鎖的回路ではない。まず投射が生じる前提となるのは、イメージの「既知を溢れ出した余剰部分」が「過剰」あるいは「耐えがたい」ものとして外部へと放出されることである。ここまでの認識は、「落ちないこと」を映画の「神話的主題」とした蓮實の論理とも響きあうはずだ。蓮實にあって現実の重力を度外視した「宙吊り=サスペンス」のイメージは、「荒唐無稽」なものとして、その外部性が強調されていたからだ。

よって、ここから松浦が本格的に駆動させる「投射」のプロセスを、私が『バードマン』に対してここまで述べてきたことへと繋げる理路は十分に存在するだろう。外部へと投げられたイメージと、私たちはどのような関係を結ぶのか。リュミエール兄弟の『列車の到着』を例に引きながら、松浦は次のように書く。

空間の構造からしてスクリーンはその何メートルか何十メートルか前方に設置されているのだから、もちろんそれは外と言えば外であるには違いないのだが、前述の通り、こちらに向かって驀進してくる列車はそのままわたしに衝突し、わたしの皮膚に密着し、わたしの内部にまで浸透してわたしの存在と一体化してしまうかのごとくであり、すべてはわたしの内部で起こっているかに見えてきさえするからである。(……)たしかなことは、ここで、内部と外部が絶えず反転可能であるよな一種のトポロジー空間が立ち現れてくるという点だろう。「投射」とは、まず第一に投げることであり、投げられたものが横断してゆくべき空間の厚み必須の前提とした操作である。(……)しかし、にもかかわらず、「投射」にあっては、この隔たりそのものを無化してしまいたいという密着的な欲望が、絶えず働くことになるのだ。

松浦寿輝『平面論』岩波書店、一九九四年、一五九頁

『バードマン』のラストシーン、カメラは切り返されることなく、リーガンの姿は映されない。墜落の可能性が頭をよぎる。しかし病室に戻ったサムは、空を見上げて微笑んでいる。ここに松浦のいう「過剰」がある。なぜなら観客はこれまでリーガンの超能力に対して全的な信をおくことが出来なかったからだ。物語とは別の水準での判断なら、映画が飛翔を肯定したこともあった。しかし物語上でそれは、あったかのように見えることもあったし、なかったことのようにも見えた。このとき、「過剰」が噴出する。私たちは、リーガンの超能力を彼の空想であるという可能性を捨てきることはできず、それが「既知を溢れ出した余剰部分」として、外部へと放出される。しかし、サムが見つめているものはなんなのか。ここで私たちは、隔たりを無化しようと、再び「投射」を行うだろう。そこでイメージを透明なものと見做すならば、一度下を確認したにも関わらず上を見上げたサムの目に映ったのは父親の英雄的な飛翔であるはずだ。しかし、そうした鑑賞モードは幾度となく裏切られてきたことでもあった。「予期せぬ奇跡」は、本当に起きたのだろうか。このようにして「内部の外部化と外部の内部化の、絶えざる反転と往還の運動」に、私たちは巻き込まれていく。脳内で離散する諸断片はスクリーンとの間でさらに激しく循環し、物語としても、表象としても、咀嚼されることが拒否されるのだ。果たして、リーガンは飛んだのだろうか。

しかしそれもつかの間、エンドロールが回り始める。そしてふと気付く。私たちは二時間にわたって、映画の透明性と不透明性に戸惑い続けながら、途切れることなく投射を繰り返してきたのだということを。

7、身体の厚みと膨らみ

投射の繰り返しは最後、言葉にあらわせない何かとなって、スクリーンと私たち観客のあいだに横たわる。本論が追いかけてきた映画をめぐる「信」は、ラストシーンにおいてもっとも苛烈なかたちで問われることになった。それは様々な位相を含んだイメージが、どれをとっても完全な透明性を持たなかったがゆえに生成した何かである。この投射によって生成したものとは、いったいなんなのか。

北野圭介は著書『映像論序説 〈デジタル/アナログ〉を超えて』のなかで、写真なども含めたイメージ全般に対して「痕跡」というキーワードを梃子に横断的な考察を展開している。彼によると痕跡とは「写し撮られた痕跡、装置の内に定位されている諸概念・諸理論の痕跡、さらにはそれら諸理論・諸概念をとりまくさまざまな夢や期待といった契機も含めた思惟が含まれている」という。ここで取りあげられるのは、一九一〇〜二〇年代初期物語映画のスター、リリアン・ギッシュの身体だ。

リリアン・ギッシュ(一八九三—一九八二)の身体性をよくみてみると、演劇からヴォードヴィル・ショー(舞台演芸)に至るまでのさまざまな役者や演技者のスタイルを縦横無尽に取り込んだものとなっている。(……)表現実践の場においては、生の身体や根源的な身体、少なくともそうした形容辞で一気に理解されるような一枚岩の身体などが都合よく見つかった試しなどなかったといっていいのである。

北野圭介『映像論序説 〈デジタル/アナログ〉を超えて』人文書院、二〇〇九年、一七四頁

こうして北野は、身体に多様なコンテクストを読み込んでいく。そしてさらに、「身体イメージの生成に関わるさまざまなプロセスの襞の折り込まれをきちんと視野に収める」ことを目的として、身体コンテクストを二つに分類し、痕跡をめぐる発想の重層化を試みる。彼はメルロ=ポンティの思想を踏まえながら、唯物論的な質量としての身体を「厚み」、イメージが流通、あるいは運動し、時間を経ることによって施される「身体の軌跡」を「膨らみ」と呼ぶことを提案する。ヴァルター・ベンヤミンが『写真小史』取りあげたアウグスト・ザンダーを例に北野は、カメラという機械が暴く「視覚的無意識」が「厚み」であり、ザンダーの写真がナチに押収されたという歴史は「膨らみ」であると説明する。

この「厚み」と「膨らみ」をリーガンにあてはめるならば、劇中、彼に降り掛かる出来事の数々は身体の「膨らみ」を助長し、イメージの不透明性を露呈させた飛行シークエンスは、身体そのものを「厚み」として映し出しているといえよう。そしてこのような過去を内包した身体に関して、北野はさらなる認識の拡大を試みる。

さらにいうならば、身体にまとわりつく時制は、過去時制の持続だけではなく、未来時制がそこに投影されてもいるだろう。ただ痕跡としての経験の足跡を残すものではなく、可能性としての身体シェーマが胚胎せられているといわざるをえないからである。映された者や撮る者のみならず、見る者の欲望も影を落とさざるをえないのだ。

同前、二六四頁

途切れることのない投射の循環のなかで生成するもの。それは時制の混濁のなかで離散と集合を繰り返す痕跡の数々に他ならない。そこでは観客の未来への投影も滑り込み、期待の地平が形成される。すべてのイメージは断片としてひしめき合い、厚みを増し、膨れ上がっていく。そしてこうした痕跡の数々は、投射が前提とする距離のなかで共存するだろう。カットのなかで出来事は生起し続ける。しかしその内部での生成に注意を凝らすことによって、私たちは、作品の何らかの要素を恣意的に取り出して断じていく蛮勇から解放されるのだ。

松浦による投射概念は、こうした間スクリーン的なイメージ生成の内実に踏み込むことはなかった。なぜなら彼は投射に関する記述の決着として、「今や、『イメージ』は誰のものでもない」と宣言し、現象学的な方法を禁欲してしまっているからだ。そこではイメージと観客の二項対立はいまだに維持されている。私は北野によるイメージの「厚み」と「膨らみ」をここに差し入れることによって、「コレハワタシノモノデハナイ」と呟いてしまう陶酔からは距離を置き、とまどい続ける。あくまでも相互干渉的なコミニュケーションのなかで、イメージの厚みと膨らみを生成させること。『バードマン』が要求していたのは、このような姿勢に他ならない。サムが空を見上げるラストシーン、リーガンは飛んだのかもしれないし、落ちたのかもしれない。それはどちらでもよい。判断の権利を確かに観客は有してはいるが、どこまでいってもそれは、私という檻の外を出ない。それは、本作の流動性を硬直化させる宿痾だ。

このような投射の積み重ねによって生じる私たちとスクリーンとのあいだの関係性と対峙することこそが、「映画」という体験に他ならない。


8、包括的な視線と命名の遅延

私が本論のはじめにドゥルーズを引きながら設定した問いを、今一度思い出そう。シニシズムの蔓延した「現代的な事態」にあって、世界と、人間の絆は引き裂かれているというのが彼の主張だ。そして現代の映画もまた、同様の問題を抱えている。

翻って、ここまで言及してきたはまさしくそのような困難の中で制作された映画『バードマン』だった。主人公リーガンがとらわれている他者への懐疑や、紋切り型のストーリーでは満足しない私たちの興味を飽きさせぬよう、映像的、叙述的トリックを駆使して進むストーリーには、そうした「現代性」の徴候が顕著に現れていた。しかしだからこそ本作がラストシーンにおいて、私たち自身に解釈をゆだねるような結末を用意していたという事実は、映画と、そして世界への信という本論にとっての核心を、『バードマン』が問おうとしていることの証左に他ならない。だがそれらへの信は、どのようにして可能になるのだろうか。

私はここまでの論述で徐々に現象学的なアプローチへと接近し、松浦や北野を引きながら、スクリーンと主体の間に生じる循環へとたどり着いた。そしてその膨れ上がったイメージの決定不可能性こそを、「映画体験」として定位したのがここまでの分析だ。この結論を、世界への信に接続することが最後の課題となる。まずはリーガンの宙吊りを分析した際にも引用した蓮實にここでも依拠し、「映画」と「世界」を重ねあわせてみたい。彼の妻であるシャンタル蓮實が『反=日本語論』のちくま文庫版に寄せた解説に、その鍵は隠されている。

彼女は自らの視覚習慣を夫のそれを対比させて、前者を「集中的な視線」後者を「包括的な視線」として分類する。ものをじっと見つめてしまう癖のあるシャンタルに対し、夫の視線は「いったん私に注がれたその瞳は、こんどは私でないさまざまなものの上を揺れ動き、時折りまた私の上に戻ってくる」。ところが、そのような表面的には散漫な印象ですらある運動は、外出先でシャンタルがじっと見つめていたものでも、しっかり覚えているのだという。そのような視線を彼女は、「包括的な視線」と呼んでいる。

蓮實重彥の批評を知っている私たちにとって、このような彼女の経験談には得心せざるをえない。なぜなら蓮實は、他の誰も気付かないような「細部」を指摘することで、読者に驚嘆の念を抱かせてきた批評家であるからだ。ジョン・フォードにおける投擲を、小津安二郎における反復の快楽を彼は執拗に擁護する。映画だけではない。数々の文学作品における赤という誘惑を語れば、『ボヴァリー夫人』における「エンマ・ボヴァリー」という固有名詞の不在を出発点として、かの大著が産み落とされたのは記憶に新しい。つまりシャンタルのエッセイが明かし立てるのは、蓮實の批評的な態度は、なにも映画にのみに注がれていたわけではなく、日常的な、つまり生きることそれ自体に密着したものだったということだ。ここにおいて、映画と世界は重なりあう。そして、その「何かの到来」を待ち続ける「包括的な視線」は、批評の始まりの必要条件でもある。処女作『批評 あるいは仮死の祭典』には、次のように書き記されている。

ところでおよそ「作品」と呼ばれるものと関わりを持ってしまうことは、環境として慣れ親しんでいた言葉の秩序が不意にあやういものとなり、無秩序という秩序しか支配していない別の系列へとむりやり移行させられることである。言葉はいきなり白痴の表情をまとい、経験的な「知識」では統御しえない遥か彼方へ身をひそめ、その非人称性と超えがたい距離とによってわれわれを無媒介的に犯し、遂にそれと等しい白痴の表情をまとうことまで強要しにかかる。だから、日ごろの読書行為の中で襲われる眩暈に捉われたまま、われわれは新たなる環境に順応しようと躍起になるのだが、勿論その方法はどこにも示されていない。そこで漂流が、存在の崩壊が始る。そしてその崩壊感覚は、生の条件の逸脱にたえず脅かされているが故に、文字通りなの始まりを告げるものでもあるのだ。

蓮實重彥『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房、一九八四年、一二頁

先ほど詳しく検討したリーガンの宙吊りもまた「無秩序という秩序しか支配していない別の系列へとむりやり移行させられること」に他ならない。そしてその「危機的(クリティック)」な感覚こそが、「批評体験(クリティック)の始まりを告げる」のだ。

ではその始まりを告げる「包括的な視線」が見る世界とは、一体いかなるものなのか。そしてそれを信じるとは、どのような態度なのだろうか。彼はミシェル・フーコーの『言葉と物』に関する評論のなかで、「『命名』の意図的な宙吊り」について語っている。フーコーによるベラスケス『侍女たち』の読解において、画家のモデルたるフェリペ四世と王妃マリアナの名を「知らないふりをしなければならない」理由を、この絵画の可視と不可視の周到なドラマの重要性を指摘しながら、鑑賞者、あるいはモデルが立つ位置についてこう語る。

「表象されるものとの関連でいえば観念的で、しかも、そこから出発して表象関係が可能となるという意味では完全に実在的」といえるその一点は、いうまでもなく「絵画」空間の外部に位置している。(……)それが誰であれ「絵画」を描き、また鑑賞するものは、その「表象」空間にとっては徹底して不在であること、そしてその特権的不在こそが「表象」空間を成立せしめること。

蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』朝日出版社、一九七八年、五六頁

命名を徹底して遅延させるフーコーのその身振りは、「故意の言い落としという詭計」に他ならないと蓮實は指摘する。「言説」はその特権的な欠落である極点に向かって、「奥へ奥へと後退させることによって『言説』たる自分を維持する」ことができるからだ。それは「怠惰による定義や説明の延期とは異質の、ある本質的な言葉のいとなみ」であり、そしてその宙吊りにされた特権的欠落たる「名前」は、王の名が充填された瞬間に「言説」として消滅するのだ。それは何故か。『言葉と物』第九章「王の場所」と題された節は、「ここでをおえ、おそらくは仕事をしなおさなければならないのだろう」という言葉から始っている。この節でフーコーが初めてベラスケスの件の作品を『侍女たち』と命名することの重要性に着目する蓮實は、「おそらく、『ここで論述をおえ』と訳されている部分は、素直に『その点にこそ言説の終わりが位置づけられているのだ』と直訳すべきであろう」と提案する。つまり特権的な空白に向かって運動する「言説」は、それが埋められると同時に「表象」空間として完成し、閉じられてしまうのだ。

ここにおいて、映画への、そして世界への信の成立を問いただす『バードマン』のラストシーンについて、ひとつの回答が導き出せるだろう。サムが見上げる空に何があったのか。しかしそれを「命名」することは、「言説」の終わりを意味する。私たちはそれを回避する「包括的視線」によって、「論理に従って導き出されてくる一つの現実」に耐えなければならない。それはいみじくも蓮實が述べるように「実の前に虚を葬りさることも、実にさからうべく虚を顕揚することもあってはならない残酷な思考空間」なのだ。それこそがこの視線を維持する人間が直面する世界に他ならない。ゆえにサムの微笑を、リーガンの願望、あるいは父権主義の補完であると断じてシニックに退けることも、英雄的飛翔のとして誤読することも許されないだのだ。

ついに世界への信は、判断や信仰とは異なった「倫理」へと転回する。映画を前にして「あらゆるものを思考しうると自負してきた思考が、いま、なぜ、自分にそれが可能ではないかを自覚しはじめる瞬間の、狂おしい生への欲望がそこに黒々と渦をまいて」立ち現れる。映画を見る私は、世界に対峙する私として生まれ変わる。リーガンの最後の「命がけの跳躍」を、「命名」という律儀さによって、表象という牢獄のなかに閉じ込めることは却下されなければならない。なぜなら私は、その「包括的な視線」によって、この過剰な現実と向き合うことが出来るからだ。確かに「事件」は「とうの昔に終わってしまっている」のかもしれない。しかしそれでも、引き裂かれてしまった人間と世界との絆を回復するためには、この「どこでもない場所」から自らの思考と、生を再開するしかない。そして他でもない、世界への信を備給することが唯一可能なこの場所にこそ、「批評」と呼ばれる営みは存在するのだ。
                               (了)


参考文献、資料
アレハンドロ・ゴンザレス・イリャニトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』二〇一五年(日本公開年)
岩本憲児、武田潔、齋藤綾子編『「新」映画理論集成②知覚/表象/読解』フィルム・アート社、一九九九年
大久保遼『映像のアルケオロジー 視覚理論・光学メディア・映像文化』青弓社、二〇一五年
大澤真幸『ナショナリズムの由来』講談社、二〇〇七年
柄谷行人『批評とポストモダン』福武書店、一九八九年
——『探求Ⅰ』講談社、一九九二年
柄谷行人、蓮實重彥『柄谷行人蓮實重彥全対話』講談社、二〇一三年
北野圭介『映像論序説 〈デジタル/アナログ〉を超えて』人文書院
工藤庸子編『論集 蓮實重彥』羽鳥書店、二〇一六年
小林秀雄『小林秀雄全集 第一巻』新潮社、二〇〇二年
先崎彰容、浜崎洋介『アフター・モダニティ—近代日本の思想と批評』二〇一四年
ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、二〇〇六年丹生谷貴志『三島由紀夫とフーコー〈不在〉の思考』青土社、二〇〇四
——『ドゥルーズ・映画・フーコー』青土社、二〇〇七年
蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』朝日出版社、一九七八年
——『映画の神話学』泰流社、一九七九年
——『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房、一九八四年
——『反=日本語論』筑摩書房、一九八六年
——『陥没地帯』河出書房新社、一九九五年
——『伯爵夫人』新潮社、二〇一六年
長谷正人『映像という神秘と快楽ー〈世界〉と触れ合うためのレッスン』以文社、二〇〇〇年
長谷正人、中村秀之編訳『アンチスペクタクル 沸騰する映像文化の』東京大学出版界、二〇〇三年
ミシェル・フーコー『言葉と物—人文科学の考古学』
——『ミシェル・フーコー講義集成 8 生政治の誕生 ─生政治の誕生 コレージュ・ド・フランス講義1978─1979』筑摩書房、二〇〇八年
ヴルター・ベンヤミン『写真小史』筑摩書房、一九九八年
松浦寿輝『平面論』岩波書店、一九九四年
三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房、二〇一二年
——『映画とは何か フランス映画思想史』筑摩書房、二〇一四年 
『ゲンロン4 現代日本の批評Ⅲ』株式会社ゲンロン、二〇一六年
『CGWORLD 2007年1月号 Vol.101』ボーンデジタル、二〇〇六年

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