自分のバランスボールにしっかり空気を入れられるのは、思考や作業などの過程ではなくどうやらアウトプットした結果っぽい。

なんのこっちゃの長いタイトルだが個人的な話なので許して欲しい。自分にとって「アウトプット」とはどういう役割なのかをバランスボールを中心にして考えただけである。

最近、すっかり筆が進まなくなってしまった。最後にこのアカウントで出した記事は2020年6月18日に書いた大黒摩季の記事。それから今日までにnoteに溜まった下書きは22件。またもや下書きの墓場と化している私のアカウントである。途中で文章が止まっている2020年の振り返りnote、タイトルしか書かれていない謎の下書き、タイトルもなく殴り書きのメモだけが残る下書き、どれも何かを吐き出したかった形跡だけはうかがえるが何を言いたかったのかは自分でもはっきり覚えていない。(でも結構それも含めて、その時の自分の状態が垣間見れるので無駄ではないと思っている)

前回出した記事はこちら。

やりたいこと、やらなきゃいけないこと、仕事や日々の生活の間に挟まれながら限られた時間のなかでいっぱいいっぱい頭で考えているものの、いくら手元で作業していても自分の中のバランスボールに空気が入っている感じがしないのはなぜなんだろう、とふと考えた時に「アウトプットしてないからかもしれない」という1つの仮説に至った。

わたしにとってアウトプットとは何かなんてことは言語化できないのだけど、いくら作業していても満足感や達成感がなく、最終的に何かしらのかたちでアウトプットしてはじめて自分の栄養(バランスボールの空気)を入れるきっかけになる感覚を感じているからかもしれない。さらにアウトプットに対して誰かに反応をもらうことでその栄養素(バランスボールの空気圧)が高まっていく感じに近い。

ちなみに、なぜバランスボールの話をしているのかというと、ここ最近月1でコーチングセッションをお願いしている友人のそのさんとのセッションで、自分にとっての現時点での理想の状態が「バランスボールに乗っていろんな景色をぴょんぴょん楽しそうに回っている」イメージを想像しながら話を進めているからである。この抽象的なものに見立てて話をするセッションが自分には結構しっくりきていて、セッションの最中にもバランスボールをいろんな状態に見立てて共通言語として話をしている。(意外とバランスボールはいろんな状態を表現するのに汎用性が高い)

ここ最近、noteだけでなくいろんなSNSへの投稿もハードルが高くなってしまった。これも勝手に自分でハードルを上げているだけで、アウトプットしたい気持ちはあるのに「気持ちにも時間にも余裕がない」という言い訳をして、アウトプットできていない自分に対してフラストレーションが溜まってしまっているのだなということに、セッションをしながら気がついた。でも本当に心にも時間にも余裕がなかったので、そんなことに気付くこともできなかったように思う。

実際にこうやってセッションで得た気づきを文字に起こしていると、より思考が整理されて深みを見つけられている。アウトプットの効果って、やっぱこういうことだよね。そして、ここまできたら公開ボタン押せるな、ここまで書いて初めてアウトプットできた感があることも今わかった。(と言うことは、公開したかどうか関係なく、下書きだとしても記事を完成させることで一定の効果はありそう)

最近はありがたいことにたまに別のアカウントでnoteの記事を書かせてもらう機会をいただいている。発信の主語が自分ではない分、書いている途中はめちゃくちゃ頭を抱えながら試行錯誤しているのだが、体力を使う分その記事を出せた時に入る空気の量は多い。一方でアウトプットする機会をいただいてから、自分の力不足も痛いほど痛感しており、どうやったらもっとアウトプットの質を高められるか考えたが、やはりこればかりはアウトプットの量を増やすしかないなとちょうど考えていたところだ。

今までも何度も「アウトプットを強化する」というテーマを1年の目標に掲げたこともあったが、いつも長続きしなかった。それはアウトプットする目的やアウトプットすることが自分にとってどんな役割にあるのかを理解しないまま、ただ量だけを目標にしていたのでうまくいかなかったのだと思う。

さあ、今年も年の瀬まで来てしまった。来年の取り組みたいテーマの一つに「アウトプット」を追加するときが、どうやら来たようだ。

「おいしいものを食べている時がいちばん幸せそうな顔をしているね」とよく言われます。一緒においしいもの食べにいきましょう。