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コロナ渦不染日記 #27

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六月二十九日(月)

 ○いい記事を二本読んだ。

 ○最初の一本はこちらである。

「日本人に人権意識が低いのは、欧米と異なる「日本の人権理念」がすでに根付いているからだ」とする、この森島豊氏の文章は、「欧米の人権は抵抗権なくして存在しえない」として、そこをこそ日本の為政者が忌避したため、抵抗意識を骨抜きされた「日本らしい人権理念」が成立したとする。

重要なことは、ここでは身分の区別がないことが人権と呼ばれていることだ。[中略]

見逃してならないことは、「平等」ではなく「平均」という用語が使われたことだ。言葉そのものが意味する通り、それは身分の平均と平準化を意味した。そこで謳われている自由は個を重んじる自由ではなく、階級からの自由であった。それは天皇において確保された道であり、天皇への忠誠において初めて保障されるので、たとえ自分の命を守るためであっても、天皇の名の下に発せられる命令に背き抵抗する自由は保障されない。もし抵抗する場合には人間と見なされない。

つまり、ここで言う平等や人権は、個人の自由なき平等であり、欧米の抵抗権に支えられた自由の理念と本質的に異なる「天皇型人権」とでも言えるものなのだ。

——森島豊「日本人はなぜ「人権」をうまく理解できないのか、その歴史的理由」より。

 そして、このような観念が、個を守る権力へのプロテストではなく、個をすりつぶす権力が先導するテロリズムにふくれあがったのが、太平洋戦争末期の「一億層玉砕」であったと語り、そうした「人権なき平等論」は現代にも確実に息づいていると結ぶこの論は、まさに阿部謹也氏が1995年に『「世間」とは何か』で、そして二年後の1997年に『「教養」とは何か』で語ったことの現代版であろう。

 改めてご紹介すると、阿部謹也氏はドイツ中世史を専攻とした歴史学者であった。歴史を研究することで社会構造を研究し、社会のなかで生きることを研究してきた阿部氏が、視線をドイツから本邦に移したとき、「世間」の研究をはじめるのは必然であったろう。
 ここでいう「世間」とは、あえて簡単に要約するなら、「日本文化に特有の自己意識」であり、「日本文化に連綿と受け継がれてきた社会的価値判断基準」であり、「日本社会を育むと同時に、日本社会を生きづらいものにしている相互監視装置」であると言えようか。ぼくのようなうさぎをはじめ、日本文化のなかで作られ、維持されてきた、社会「のようなもの」のなかで生きる知性存在は、すべからくこの「世間」を内在化しており、それを自己の根拠としているのである。

 ○しかし、コンピュータシステムにたとえれば、これはバグだらけ、高負荷のOSであった。内部にいくつもの自己矛盾があり、その運用は個々で共有されておらず、そもそもあまりにも浸透しすぎていて、共通のマニュアルがない(あなたがたはWindows 10のマニュアルを、この記事を読んでいるブラウザの、手にしているスマートフォンのマニュアルを読んだことがあるだろうか)。アップデートは頻繁で、しかし地域差があるうえに、アップデートがないからと個々のユーザーが勝手に手を加えた私家版が横行しているので、たとえ普及しているアプリケーションであっても動かない場合がひんぱんにある。そんなことだから、一度不具合を起こすと、誰かになおしてもらうことができない。依頼した誰かとバージョンが違えば、そもそもいま問題にしているのが、もとからある仕様なのか、それとも不具合なのかが判然としないのである。

 ○そういうしくみであるから、「世間」はかならずしも人を救わない。むしろ、「世間」の内容の不統一によって、ある個人のとったふるまいが、他者からは排斥され、自己にとっても承服しかねるものとなる。そうなれば、次第に自己肯定を崩していく負のスパイラルを生むことがあるほどだ。
 これはもちろん、「世間」を離れれば、「世間」以外に自己意識の根拠や、価値判断基準を持てば、解決する可能性がある。しかし、それができた人間は少ない。なぜならば、われわれ知性存在は、産み落とされ育まれた社会の価値判断基準なくして、自己意識を確立することができないからだ。Windows環境にある人間が、コンピュータ利用に有益なアプリケーションを制作しようとしたとき、わざわざMac用のそれを作らないであろうように(そんな例があったらばご指摘いただきたい)、「世間」のなかに生まれ、育まれたたものは、「世間」を離れることはできないのである。
 このことを、夏目漱石は『草枕』の冒頭でこう語った。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画[え]が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

——夏目漱石『草枕』より。
太字強調は引用者)

 ここで言うように、「世間」を離れれば、そこは「人でなしの国」なのである。実際にそうであるかどうかは別として、しかし、そう見なす意見ばかりであれば、なるほどそこは「人でなしの国」になってしまうであろう。

 ○そして、話を冒頭に戻せば、つまり、この「世間」こそが、森島豊氏の言う、「個人の自由なき平等であり、欧米の抵抗権に支えられた自由の理念と本質的に異なる『天皇型人権』とでも言えるもの」なのである。
 われわれが生きている世界は、こうした「世間」によって作られた場であり、われわれはこうした「世間」に守られ、育まれたために、この場に横溢する息苦しさにあえぎながらも、どうにかこうにか生きていくしかない。だから、夏目漱石は、『草枕』の冒頭にこうも書いているのである。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容[くつろげ]て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降[くだ]る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑[のどか]にし、人の心を豊かにするが故に尊[たっと]い

——夏目漱石『草枕』より。
太字強調は引用者)

 芸術とは、いまさら言うまでもないことだが、個人のものである。自分だけの声、自分だけの思い、自分だけのふるまい、そうしたものを自分の外に出して、自分以外の誰かに手渡すことのできるようにしたものである。だからこそ、芸術は、「世間」を離れることの象徴になりうるし、それを制作したり、それに触れることは文字どおり「一人きりの時間」になりうるし、「世間」の息苦しさに抵抗する唯一の武器となりうるのである(『新世紀エヴァンゲリオン』で、「個」の象徴であり、「他」からの干渉を防ぐ「A.T.フィールド」が、使いようによっては他を切り裂くするどい「異物」となるように)。
「世間」に生きることは、常に「集団」であることを求められることである。だから、そこに「個人であること」を赦[ゆる]すゆたかさが担保されていなければ、固有の肉体を持つがゆえに「個人」でしかありえないわれわれは、いつか窒息してしまう。
 だが、芸術を手にすれば、それが手にできるものだと思えれば、個人が存在することを赦すことができる。「世間」以外の価値判断基準を自己に取り入れ、「住みにくい所をどれほどか、寛容[くつろげ]て、束の間の命を、束の間でも住みよく」することができる。自分という世界に平衡をもたらすことができるのだ。

 ○さて、ここまできて、ようやく、ぼくがいい記事だと思ったものの、二本目をご紹介できる。

 池田賢市がここで言うのは、ぼくがここまで述べてきた内容と平行するものあるが、その根源と行き着く先は同じである。
 ぼくがここまで述べてきたのは、芸術を通じて「個」を認識することが、「世間」という集団に抵抗することになり、「世間」を離れて生きることができないわれわれの「束の間の寛容[くつろぎ]」になる、ということだ。
 それに対して、池田氏が言うのは、日本という集団のなかから「世間」というシステムを取り払うにはどうしたらいいか、そのことを「『世間』のなかで育まれる子供たちにどう伝えるか」ということである。
 つまり、森島氏の記事が、阿部謹也氏の考えを現代に再確認するものであるとするならば、池田氏の記事は、再確認したことをふまえ、実際にどう「世間」に立ちむかっていくかという実践的なものであり、「『個』を守る」ぼくの考えとは別の、「『世間』を変える」手段の模索である。

 つまり、人権教育がめざしているのは、構造的に問題を把握することであり、それに基づく社会変革なのである。これは、道徳がいわば「心のありよう」といった個人の内面に焦点を当て、その枠組みにおいて問題を把握しようとしていることとは大きく異なる。

「人権」とは、人類の歴史において「獲得」されてきたものである。それは、その時々の社会体制の中で虐げられ、人間としての尊厳を踏みにじられてきた人々が、自らの人間性の回復を「人権」や「権利」という概念で表現し、権力と闘うこと(市民的抵抗、レジスタンス)で勝ち取ってきたものである。人権や権利は、「社会的」で「争議的」なものなのである。

 こうした動きの中で、社会的な制度や構造が変わり、強者からの一方的な「温情」や「思いやり」といった「心のあり方」によらずとも、差別解消への道筋が開けてくるのである。

——池田賢市「『人権』と『思いやり』は違う…日本の教育が教えない重要な視点」より。
繰り返しになるが、あえて強調したい。人権課題は道徳では絶対に解決しない

 なぜなら、それは心の問題ではないからである。たとえば、貧困は、勤労意識を高めれば解消するのか、温暖化等の環境問題は、各人が電気をこまめに消すことで解決するのか、皆が障害者への思いやりをもつとその社会参画が進むのか、性のあり方について理解すれば女性の雇用条件が向上するのか、同性愛者の婚姻問題も、さまざまな難病を抱える人たちへの医療的保障も、戦争をめぐる問題も…。これらの課題は、政治、経済、歴史等の問題として考えなければ解けない。個人の心の状態ではないところにその問題の根を探さねばならない。

課題を政治、経済、歴史等の問題として考える必要性は、いわゆる新自由主義的な自己責任論が一般化している今日、一層強まっているだろう。なぜなら、そこではさまざまな問題を「私的世界」の中で解決していくことが想定されており、それを公的な問題として位置づける方法は忌避されるのだから。

——池田賢市「『人権』と『思いやり』は違う…日本の教育が教えない重要な視点」より。

 ここで池田氏がいう、「私的世界」を、ぼくは「内在化された『世間』」と解釈する。
 そして、それが正しいとするならば、「人権課題が道徳では絶対に解決しない」のは、「私的世界」が「内部にいくつもの自己矛盾があり、その運用は個々で共有されておらず、そもそもあまりにも浸透しすぎていて、共通のマニュアルがない」ものだからであり、そこに「『個人であること』を赦すゆたかさが担保されていな」いからである。
 であれば、われわれが、われわれ自身を「『世間』に守られ、育まれたために、この場に横溢する息苦しさにあえぎながらも、どうにかこうにか生きていくしかない」存在にしているかぎり、この社会は変わりはしないと、池田氏は指摘しているのであろう。

 ○では、どうやってわれわれ自身が変わればいいかと言えば、それは「『多様性』の認識を持つこと」であり、「自分を含め、ひとの『個』を認め、赦すこと」であろう。
 ひとはひとりひとり違う存在である。「世間」というものの見方を埋めこまれているとしても、それを埋めこまれた精神は、生まれ持った肉体を離れて存在することができない以上、「世間」の一部であると同時に、否定できないほどに「個」性的である。だからこそ、それを認めない「集団」にあっては息苦しいのであるから、一方では、もしそうした「個」を赦すことができれば、「世間」という「誰もが持たされているがゆえに誰のためのものでもない」基準を離れて、自己肯定することができるはずである。
 これこそが、「『多様性』の認識を持つこと」であろう。そして、ぼくがこの日記に書き続けている、「染ら不」であろうと、ぼくは信じる。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、五十八人。

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六月三十日(火)

 ○朝の電車がまたまた混み始めており、なにかと思ったら、昨日から都立高校が全面再開になったのであった。しばらくは時差通学ということになるらしいが、これでまた「旧い日常」の回帰に一歩、近づいてしまった。
「新しい日常」など、はかない夢と消えるであろうか。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、五十四人。



→「#28 100」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/

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