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コロナ渦不染日記 #28

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七月一日(水)

 ○夜、神保町の「鮪のシマハラ」にゆく。

 マグロ料理の専門店ということで、とにかくマグロの品揃えと鮮度が素晴らしい。ウリのひとつであるお刺身は、ホンマグロとミナミマグロ(インドマグロ)の食べ比べで、それぞれおなじ部位をそろえて出してくれるので、種類の違いによる味の違いを確かめることができて、「食べる」ということの楽しみを充分に堪能できた。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、六十七人。


七月二日(木)

 ○朝、仕事の現場へ移動する途中、川べりの道を歩いていると、古びてなんともいえぬ風情のあるラーメン屋を見つける。気になって、昼休みに行ってみると、果たして店内は薄暗く、換気扇は油で真っ黒、本棚の本は汚れて反りかえり、椅子はぼろけて、天井からは蜘蛛の糸が垂れ、換気のために開けた戸から吹き込む風に揺れているといった店であった。
 店員は三人、四、五十代とおぼしい男性と、彼の両親とおぼしい老夫婦である。カウンターに席を取り、じいさんがよぼよぼと運んでくれた水を一口飲んでから、麻婆麺と半チャーハンを注文すると、カウンターの奥の厨房に戻ったじいさんが、それまでのよぼよぼした動きから一転、慣れた手つきで鉄鍋を振り出した。鉄鍋に炒められる具材の、脂はじける小気味いい音を聞いていると、おたまですくった餡を小皿ですすったじいさんが、さっと調味料を足す手つきのあざやかさに目を奪われる。そして、息子さんが一度だけ、力いっぱい振った「てぼ」から、琥珀色のスープに麺を移したところへ、じいさんが作った麻婆が乗って、いつの間にかできあがっていた半チャーハンを添えて、カウンター越しによこしたのがこれである。

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 麺は細麺で、想定したより固めだが、それがかえっていい歯ごたえになっている。麻婆は辛すぎずしょっぱすぎず、一緒にすすりこんだスープの、ほのかに香る魚のダシをひきたてる。そう、ここのスープは魚のダシをメインに使っているらしいのだ。思わず飲み干してしまう。
 添えられた半チャーハンも、チャーシューと卵だけシンプルな中身で、当然のようにパラパラ。満足する。

 ○ラーメン屋の薄暗い店内に、テレビのニュースが流れていたが、そのニュースが、「本日の東京の新規感染者数が、百七人と報告されました」と告げる。わが長い耳を疑いつつ、しかし、さもありなんと思ってしまう。

 ○帰りの電車は、新規感染者百人超えを気にする気配のない、無関心に静まりかえっていた。


七月三日(金)

 ○仕事が不本意な結果に終わる。さまざまな課題が挙がったが、最大のものは準備不足であろう。取引先の要望の吸い上げが不充分であったことがその原因である。また、現場での設備不具合に気づけず、また、それが発見されたことへのリカバリに慣れていなかった。結果的には取引先のフォローで事なきを得たが、百点満点で自己採点するなら二十五点といったところ。

 ○帰りの電車で、『M 愛すべき人がいて』を見る。

 歌手の浜崎あゆみ氏と、彼女のデビューをプロデュースした、当時〈avex trax〉の専務取締役であった松浦勝人氏の恋愛を主軸に、往年の大映ドラマ的なダイナミックな展開と奇矯な登場人物が目を引くドラマは、特に田中みな実氏の演じる、松浦勝人氏の秘書・姫野礼香のすっとんきょうなキャラクターと演技で飛び道具的に人気があるようで、ぼくもそこに惹かれて面白半分に見ていた。しかし、きょう、第三話「お前はアーティストになるんだ!」を見て、少し見方が変わった。
 なんとなれば、これはただ話題性高い人物の秘めた恋愛を語るだけのドラマでなく、奇矯な演技で瞬間最大風速的に消費されるだけのドラマでなく、「『浜崎あゆみ』という、1990年代後半を象徴する人物」について批評するドラマであり、彼女を通じて描かれる「1990年代後半の文化の精神」を語るドラマでもあったのである。つまり、これは伝奇なのである。

 ○「伝奇」とは、「歴史的事実(伝)を元にしたフィクション(奇)」である。もっというと、「歴史的事実を題材としながら、そこに現実には存在しなかったものごとを描くことで、題材である歴史的事実やその前後におこった出来事に対する『解釈』を提示する」ものである。
 一例を出せば、山田風太郎『幻燈辻馬車』は、「元会津藩士の老人とその孫娘が引く辻馬車、そして戊辰戦争で死んだ老人の息子と妻の亡霊」という「フィクション」が、「歴史的な事実」としての「明治時代」を駆け抜けるさまを語ることで、明治時代とそこに至る幕末、そしてそこから地続きの「現代」とはどんな時代であるかを、読者に「解釈」させるのである。そこには、幕末という時代の特異性と、その影響下にある明治時代の雰囲気が語られるのみならず、そうした明治時代があったればこそ成立している現代にも通じる、「人のこころ」「人の生き方」が読み取れる。だからこれは「伝奇」なのである。


 ○『M 愛すべき人がいて』の第三話で、主人公の「あゆ」は、プロデューサーの「マサ」に作詞の才能を見いだされ、自分のデビュー曲のための詞を書くよう指示される。あゆは戸惑いながらも作詞をしてみるが、うまくいかず、彼女をライバル視するかつての友人からいじめを受け(この辺が大映ドラマ的な大時代っぽさである)、しかもずっと自分を応援してくれ、状況にもつき添ってくれていた祖母が倒れ、故郷福岡で入院するため離ればなれになってしまったことで、いよいよ自信を持てなくなっていった。しかし、その不安を聞いたマサからの「自分の思っていることを言葉にしろ」という言葉や、祖母から「あゆがいま思っている喜びや悲しみや不安をそのまま出していいんだよ」と言われたことを思い出し、祖母の臨終に立ち会いたいという気持ちも振り切って、ついに期限までに歌詞を書き上げるのであった。

ホントの自分の姿が 少しずつぼやけ出してる
押し寄せる人波の中 答え出せないまま探していた

ウソや言い訳 上手になるほど
むなしさに恐くなるよ

いつだって泣く位簡単だけど 笑っていたい
強がってたら 優しささえ
忘れちゃうから素直になりたい
あなたの愛が欲しいよ


——浜崎あゆみ「porker face」より。

 ……というストーリーが、「事実」であるかどうかは関係ないし、なんならこれは「フィクション」でいいのだ。ただ、それが、「浜崎あゆみのデビュー曲「poker face」という「歴史的事実」と結びついたとき、われわれはこの結びつきに「浜崎あゆみこそ1990年代の象徴であった」という「解釈」をすることができるのだ。
 この物語のなかで、当初、あゆは、「ビッグになりたい」という気持ちを持つ、どこにでもいる少女であった。しかし、マサとの出会い、そしてさまざまな障害に出遭うことで、その時の自己の限界を知り、定かならぬ未来に不安を覚え、そして変わっていく世の中や自分自身を否応なく感覚することで、喪失の予感とでもいうべきものにおびえるようになる。それを、第三話では詞にすることになり、この「不安」「限界」「喪失」というテーマは、その後の浜崎あゆみ氏の「世界観」に通底するモチーフとなる。
 しかし、それは浜崎あゆみ氏だけのものではなかったのである。未来への「不安」、自己の「限界」、そして「喪失」の予感は、1990年代後半を生きる若者たちの、もっといえば1990年代後半という「時代」の空気に通底するものでもあった。だからこそ、浜崎あゆみ氏は「伝説の歌姫」になりえたのだ。
 ……ということを、『M 愛すべき人がいて』を見て、考えることができた点で、やはりこのドラマは「伝奇」なのである。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、百二十四人。いよいよ来たるべきものが来たのであろうか。

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→「#29 ディスコミュニケーション」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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